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[第9講 反キャリア教育論]から 【何を基準に採否を決めるのか?】より
《でも、「会って五秒」でどうして決められるんでしょう。そもそも、何を見て決めているんでしょう。これが就職活動をしている学生たちには理解不能なんですね。
でも、それはわかるんです。‘この人といっしょに仕事をしたときに、楽しく仕事ができるかどうか’、それを判定基準にしてるから。》
●就職の面接で、「ドアを開けて中に学生が入ってきた時点で採用するか否かが決まる」とは、最近よく聞きますね。雰囲気、身のこなし、言葉遣い、それらの要素で一瞬にして「その人」がわかるものかどうかはわかりませんが、仕事というのは共同作業なので、それが可能な人物かどうか、最低でも「この人はダメだろう」というのは直感できるだろうという気はします。
学歴や学力などよりも、それらのことが就職面接においては重要視されているのですから、日頃から「自分を見つめ、磨く」ことの大切さは、家庭でも学校でも伝えておくべきことでしょう。
【労働のルール】より
《だから、就活の面接のコツは簡単と言えば簡単だよといつも学生には言っています。「自分をよく見せよう」と思わないで、その場にいる人たちが(いっしょに面接を受けている競争相手も含めて)気分がよくなるようにふるまうことです。
集団面接でディベートなんかやるときに、周りの人間を黙らせて、ひとりで滔々と自説を述べるような人間はまともな組織は「ノー・サンキュー」です(そんな学生を優先的に採るような企業はじきにつぶれますから、ご安心ください。そういう点では「マーケットは間違えない」というのはほんとうです)。
むしろ、みんなが気分よく話せるように「ファシリテイト」するタイプの人間が高く評価される(こういうとすぐ間違える人がいますけれど、「ファシリテイト」するというのは「仕切る」とは違いますよ。むしろ「受ける」です。誰も理解できないジョークにもにっこり笑ってあげるとか、そういうことです)。
ともかく、就職活動で、学生たちはそれまで自分たちが「競争」の過程で教わってきたこととはぜんぜん違う基準で選別されるという経験をします。もし「キャリア教育」というものが必要であるとすれば、私は私が今したような話を学生たちに聞かせるのが、いちばん現実的だと思います。労働するとはどういうことで、その場ではどういう種類の人間的資質が評価されるのか、それを教えるのが「キャリア教育」であるなら、私は「キャリア教育」の充実には大賛成です。》
●学歴と実際に社会の現場で働くこととは相関しないとは、最近よく聞きますが、私の身近で実際にこれに類することがあったことを最近知りました。
北海道で一番の進学校へ行き、北海道で一番の大学へ行き、さらに大学院へも進み、一流と言われる本州の企業に就職した知り合いの子どもさんが、就職後ほどなく会社へ行かなく(行けなく?)なり、自宅へ戻り、今は外に出ず、いわば「引きこもり」状態にあるというのです。
私は、誰もが知っているような大企業にその子どもさんが就職したと聞き、身近にいたお子さんだったのでびっくりしたものでした。
しかし、まさかその後、このようなことになっているとは想像しませんでした。もっとも最近は、「3か月で会社をやめる」ような若者が増えている、とは聞いていましたが、上に記したようないわば「超エリートコース」を辿ってきた知り合いの子どもさんにそれが起こるとは…。勉強を強いてやらせていたような家庭であればまだわかりますが、決してそのような家庭ではなく、他の兄弟はそれぞれの道を歩んでいるのです。
詳しい生育状況を聞いたわけでもないですし、彼自身と話すような機会もないですから、想像でしかないのですが、エリートコースを歩んでくるだけで、社会体験やコミュニケーション能力が身につかないままに育ち、仕事の現場では挫折を糧に育っていけるような人間的資質が備わっていなかったのでしょうか。仕事に挫折はつきものですからね。
今回の件では、本当に考えさせられました。大学(大学院)まで一流の道であっても、社会生活を地道に営んでいく力がなければ何にもならないーと痛感する出来事でした。
「引きこもり」の時期があったっていい、いや、あった方がいいかもしれません。私も大学時代の一時期そのような状態にありました。でも、そんな中で、自分のこと、自分の行く末を一所懸命に考えました。
彼も、今このときを、これまで考えることもできなかったようなことを考える時間として、未来にはばたくための時間として使ってほしいと思います。そして、きっかけをつかみ、社会へあらためて出ていってほしいと切に望みます。
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