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1月17日が来ると、毎年震災に関連したテレビ番組が放送されますが、年々その数は減っていきます。私は早朝からNHKを観ていましたが、地元神戸放送局制作の番組が放送されていました。時を経たからこそ、当時のことを振り返ることができ、そしてそれぞれのやり方で伝え続けている人たちの姿を見ると、「自分も自分なりに伝え続けなければ」と思います。
●私は震災当時東京に住んでいました。でも、その年のうちに札幌にUターンすると決めていました。
父親の認知症の症状が重症化していっていたので、私が一緒に暮らして面倒をみていかなければいけない状況になっていたからです。私は自分自身に一年の猶予を与え、(楽しかった!)東京生活を思い残すことなく過ごすと同時に、認知症(当時は痴ほう)に関するあらゆる情報を集め、来るべき‘介護生活’に備えようとしていました。
そんな折に起こった大震災です。テレビに釘付けになって見ていると、「あそこに行かなければー」との思いが湧き起こってきました。すると、同じように感じながらテレビを観ていた友人から電話がきました。私たちはなぜか、「自分たちがあの場に行って何らかのことをやらなければ」という使命感にかられていました。
どのような方法で行き、何をすればよいのか、私たちは3日間できる限りの情報を集めました。当時はまだインターネットが発達していませんでしたから、電話やファックスでやりとりをし、時には膨大な量のファックスが送られてきました。
そして、神戸に住んでいる友人の親しい友人が街中を走り回り、何ができるかを私たちに伝えてくれた結果、彼の住むアパートに全国から10人の仲間たちが集いました。面識のある人もいればない人もいます。友人たちのネットワークで、「自分にできることをしたい」と集まった仲間(若者)たちです。震災発生約3日後のことでした。
私たちはそれから、「朝の炊き出し」をして兵庫区役所に避難している方々に提供することと、避難所の冷たい床で身体を冷やしてしまっているお年寄りに「足湯」をすることを中心に活動を続けました。
●どちらも大変喜ばれました。
兵庫区役所には当時、暖かいものが提供されていませんでしたから、友人と同じアパートに住む中国人留学生の方を中心に作った暖かいスープは、芯から暖まると言われました。
「足湯」は、私たちの仲間に、「気功」などの心得がある者がいたので発案されました。当時は、お湯を沸かすだけでも結構な手間がかかりましたが、洗面器にお湯を入れて、冷えたお年寄りの方々の足を揉んであげ、ちょっとした会話をすると、心が温まるような場ができました。
私は約1週間後、仕事の関係で東京に戻りましたが、足湯の活動はその後地元のボランティア団体に引き継がれ、長く続けられました。
●大阪から船で神戸に入り、帰りは神戸から西宮まで自転車で走って帰りました。
神戸にどうやって入るかが問題でしたが、援助活動をする多くの方々が大阪港から船で神戸に入りました。ひび割れた港の施設を目にし、神戸の北にある友人のアパートを目指して歩きました。初めて直に目にする震災に見舞われた街の光景は衝撃でした。
帰りは西宮まで自転車でした。まだ電車も走っていませんから、西宮のボランティア団体のあるところまで走り、自転車を渡しました。
神戸にいる間、ずっと瓦礫の街を歩き回りました。その光景は今の私にとって、忘れられない‘原風景’となって脳裏に焼き付いています。
全国から集まった仲間たちは、その後も神戸に住む者もいれば、地元に帰る者もいました。今は全国各地に散ってしまいましたが、仲間の住む場で「何か」があれば、全国から集まって来てくれる、そんな確信があります。強い絆で結ばれたネットワークは、時空を超える、そんな思いがしています。
●震災一か月後にはタイコの仲間たちと神戸に入りました。一台のワゴン車に乗り込んで、夜通し走っての神戸入りです。
タイコ仲間がNGO団体に入っていることから、避難所の子どもたちとタイコで交流することが目的でしたが、それ以外にも、商店街や避難所で演奏させてもらいました。
中でも一番印象に残っているのが、ボランティア団体の拠点となっていた公園で夜、演奏したことです。私たちがこれまで演奏してきた中で、一番と言えるほどの盛り上がりとなりました。
震災から1〜2か月が経ち、疲れも見え始めた援助活動従事者たちが、ここぞとばかりに「発散」できた、それがあの場をものすごい熱気と興奮に包み込んだのでしょう。私たちにとってとても意外なことでしたが、毎日の援助活動で心身が疲れていた人たちに、一時の楽しみと安らぎを与えることができたとしたら、とてもうれしいことでした。
●震災後の神戸に滞在したことが、どれだけ大きな私の力になったことでしょう。
それ以来、「Uターンして父親を介護しながら暮らす」生活をすることに前向きになりました。
「人間、生きていることがどれだけありがたいことか」を身にしみて感じられたのかもしれません。
そして、「自分の運命を運命として受け入れる」ことからしかものごとは始まらない、人生を切り拓いていくことはできない、とある種の「悟り」?が開けたのかもしれません。
私が神戸に行ったのは、最初から「自分のため」でした。
悲嘆している人たちに私が何かしてあげることなどできるでしょうか。「何もできない」ところからしか何も始まらない、現場に身を委ねることから何かが見えてくるかもしれない、きっとそう感じたからこそ、居ても立ってもいられなくなり、一刻も早く神戸に行きたかったのでしょう。
「自分のため」が結果的に「人のため」になったとしたら、それは望外の喜びです。
14年目の1月17日朝、亡くなった方々を弔うロウソクに火が灯される黙祷の時間は、私にとっても大切な年に一度の瞬間です。
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