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[第1講 教育論の落とし穴]から【教師たちをどう支援するか】より
《私たちの国の教育に求められているのは「コスト削減」や「組織の硬直化」ではありません。現場の教員たちの教育的パフォーマンスを向上させ、オーバーアチーブを可能にすることです。それに必要なのは、現場の教師たちのために「つねに創意に開かれた、働きやすい環境」を整備することに尽くされる、というのが私の意見です。
これは政治家やメディア知識人や文科省の考えとはおそらく逆のものです。彼らはどうやって教師を不安にし、怯えさせ、弱気にし、卑屈な存在にするか、そのことを考えています。
私が教師として現場にいた過去三十年間に限って言えば、文科省の行政指導の中に「教師に自信を与え、勇気づけ、自尊感情をもたらす」ことを目的として立案された政策は一つもありませんでした。もしかすると立案した官僚の頭の中では「これで教師のパフォーマンスが向上する」という見通しがあったのかもしれませんが、その思いは残念ながら現場には伝わりませんでした。
私は現行の教育制度がさまざまな欠陥を持つものであること、現に能力の低い教員、意欲のない教員、モラルの低い教員がいることをもちろん認めます(現場の人間ですから)。けれども、私たちにはこの(不出来な教員も含めた)「手持ちの人的資源」でやりくりするしかありません。
「手持ちの資源」でやりくりするというのは、とりあえず現に教育の崩壊をフロントラインで防いでいる「能力があり、意欲があり、モラルの高い教員たち」のアクティウ゛ィティを支援し、そのオーバーアチーブによって、制度上のもろもろの瑕疵のもたらす否定的影響をカバーするということです。
教員たちが発明の才を発揮し、新しい教育方法を考案し、実験し、議論し、対話し、連帯することができる、そういった生成的な労働環境を作り出すこと。それが私たちに許された唯一可能な「教育改革」の方向だと私は思っています。》
●これまで一貫してこの国の教育行政は、教員を管理し、雑務を押しつけ、自由な時間を与えないという方向できていますから、内田さんのいう「教育改革」の方向に向かうには、個人個人の努力ではむずかしいでしょう。
この国の危機を感じ取った政治家が思い切った改革をする人物を抜擢するなどする必要があるでしょうが、それはいったい誰なのか? あの寺脇研さんは文部科学官僚で地道に実績を積み上げて、「思い切った改革」をしようとしたわけですが、時代にマッチせず受け入られませんでした。
それを考えると、一般市民側から、ボトムアップのかたちでの流れを作り出すことができることが、本当はいいのかもしれません。
先を見据えた教育こそが、その国を維持、発展するためにいちばん大切なことなのだと私は思うのですが、そのような長い目でみた教育が、この国ではいちばん立ち後れているように感じてなりません。
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