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前日紹介した文章からの続きです。
《教育の中心はこの「教えるものと学ぶもの」の出会いにあります。
そこにおいて‘その両者のどちらにも属さないもの’が立ち現れるからです。教師にも子どもにも属さないもの。それを「外部」と言ってもいいし、「他者」と言ってもいいし、「第三者」と言ってもいい。
教師以外のどのようなステイクホルダーも、子どもとの対面状況において、そのような「第三者」を呼び出すことができません。教師と子どもの対面状況においてのみ、「第三者」が立ち現れる。そこだけが「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ」に繋がる回路が開く奇跡的なスポットなのです。教師がそれ以外の教育のステイクホルダーとまったく機能を異にするのは、まさしくこの役割ゆえなのです。
教育を取り巻くすべてのもの、それは「ここ」に属するものです。文科省も教育委員会も親も地域社会もメディアもマーケットも、すべては「ここ」を支配している同一の価値観に領されています。
例えば、今の日本だったら、「大きな権力、高い威信、豊かな財貨、多くの情報や文化資本を獲得して、社会の序列の上位に格付けされること」を目的とする苛烈な競争に勝ち抜くことをすべてが子どもたちに要求しています。親に教育を全面的に委ねたら、おそらく「ここ」の価値観にジャストフィットした子どもをつくり上げようとするでしょう。
教育の場だけが、教師と子どもが顔と顔を向き合わせている場面だけが、「ここ」の支配を免れた「逃れの街」たりうると私は思います。》
●《教育の中心はこの「教えるものと学ぶもの」の出会いにあります》
この言葉も、私にとてもジャストフィットします。
「何を学ぶか」ではなく、「何で学ぶか」が大事、ということは、らくだメソッドの平井雷太さんから私は学んだことです。
私はらくだメソッドの教室を開いていますが、「らくだを学ぶ」ことよりも「らくだで学ぶ」ことの方が大切と考えてきました。つまり、「らくだを学んだ学力」以上に、「らくだで学んだそれ以外のさまざまなこと」の方にずっと大切なことが含まれているということです。
これは、子どもに対する大人が、「何を伝えたいか」が明確になっていないとできないことです。単に学力をつけたいのなら、単に教えてもらったことを学べばそれで済みますが、長い人生を生きていく上で必要なものも含めて基礎学力というならば、単に教えてもらうだけの勉強では身につきません。指導者がひとり一人の子どもとどう対応するかが大切になってきます。
内田さんが伝えたいことからちょっと脇道に逸れてしまいましたか…。
それにしても、内田さんの論はどうして私の胸にこうも響いてくるのでしょうかー。
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