|
[第6講 葛藤させる人]から 【教員はいつでも反権力】より
《先生の言うことは論理的には「おかしい」のだけれど、実感としてはきわめて切実である。それでいいのです。‘教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない’。言うことが矛盾しているのだが、どちらの言い分も半分本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としてはいちばんよい感化をもたらす。そういうものです。
きれいに理屈が通っている、すっきりしている先生じゃダメなんです。それでは子どもは育たない。‘成熟は葛藤を通じて果たされる’からです。》
《子どもは学校に通うようになって、まず最初に、先生の言うことと親の言うこと(あるいは近所の大人たちの言うこと)が食い違うということを知ります。それが最初の葛藤。やがて、その先生も親もそれぞれがやっぱり言っていることが首尾一貫していないことを知る。これが第二の葛藤。
それでいいんです。子どもたちが長い時間をかけて学ぶべきなのは「すっきりした社会のすっきりした成り立ち」ではなく(そのようなものは存在しません)、「ねじれくれた社会のねじれくれた成り立ち」についての懐の深い、タフな洞察だからです。
ですから、先生たち自身が「ねじれた」存在であることは教育的にはまったく問題がない。それこそがノーマルなんです。》
●こういうことを聞くと、親も教師も安心します…よね?理想を追求しすぎたり完璧を目指したりすると、どこかでどこかがおかしくなるでしょう。
人生や社会は「矛盾」していることを、大人はみんなわかっているはずなのに、それを脇において「教育」に血眼になっても、いいことはないのではー。
また、「両親の教育方針は一致していないといけない」という説は一般的で、私もそうなのかと思っていましたが、一概には言えないような気がしてきました。無理して一致させるとしたらどこかで歪みが出るでしょうし。
違っていたとしても、お互いが補い合うような関係であって、ある程度寛容であればそれでいいでしょうし、「あ、お父さんとお母さんって違うんだ」と子どもが思うことができるのは、いいことなのだとも感じます。
|