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[第3講 キャンパスとメンバー]から 【キャンパスに到来するもの】より
《「学び」というのは、教室で授業を聴くだけのことを言うわけではありません。どういう授業を、どんな仲間と、どんなふうに聴くことで、限られた大学生活の時間を愉快にかつ有意義に過ごすことができるか、それを探り当てるのもすでに重要な(しばしば授業そのものより重要な)知的技術なのです。
さきほど「どうしていいかわからないときに、どうすべきかの目鼻をつける」というわかりにくい言い方をしましたけれど、こういうことは私たちの日常においてはしばしば起こることです。しばしばどころか、私たちの人生で決定的に重要な場面というのは(プロポーズされるとか、親の死に目に遭うとか、いきなりハイジャックに出会うとか)、すべて「こういう場面ではどういうふうにふるまうのが適切であるかについてガイドラインもマニュアルもない局面で、なお適切にふるまうこと」を私たちに要求します。
「どうしていいかわからないとき」に適切にふるまうことができるかどうか、それがその人の本源的な力がいちばんはっきり現れる瞬間です。生き死にかかわる局面というのはすべて「そういうもの」です。
●私はある時はたと気がついたことがあります。それは「人生は初体験の連続である」ということ。
何を今さら、と思われるでしょうか。当たり前のことと言えばそうなんですが、このことを意識したことがあるかどうかで、人生違ってくるように思うのですがー。
何を言いたいのかというと、何においても「初めからうまくいかなくて当然」ということ。
そう思っていれば、人生における出来事で、うまくいかないことがあってもいちいち落ち込むことはないでしょう。といっても、そのときはそんなこと考えてもいないでしょうから落ち込むことはあるでしょうが、そのうち立ち直るはずです。
私はどうもこのことを意識したことがない人が多いのではないかと感じます。あるいは、もしかしたら物心ついたときから、その人にとって簡単にできることばかりやってきた結果、ハードルが高いことにぶつかってすぐにできないと、自分を卑下して落ち込んでしまうー。
「人生は初体験の連続である」と思っていれば、それをうまくなりたかったら続ければいいし、自分にとって優先順位の低いことならやらなければいいし、単にそれを自分で決めるだけの話になります(もっとも「自分で決める」ことをしてこないで大人になってしまう人もいるようですがー)。
内田さんの伝えたいこととずれてしまったかもしれませんが、彼の文章を読んでフト思ったことを書いてみました。
人生において「どうしていいかわからないとき」は必ずやってきます。生き死にかかわるそんなときに備えていると思えば、身近な小さな「わからないとき」こそ大切に味わう姿勢が大事なのではないでしょうか。
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