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[第7講 踊れ、踊り続けよ]から 【学びのシステムは存在するか】より
《教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。》
《‘学びの場というのは本質的に三項関係なのです’。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。さきほどの発表者が「教育におけるインプリケーションのためのシステムの構築」ということを述べたときに言い落とされていたのは、「(その場にいない)師の師」のことです。そして、この「(その場にいない)師の師」こそが、学びを賦活する鍵なのです。》
●「学びの当事者であり続けること」は、私も自分に課していることですから、この内田さんの言葉を目にしたときには、自分がやっていることが肯定されたようで、本当に勇気づけられました。
らくだメソッドの指導者は、自分自身が教材をやり続けることが必須です。小学教材から中学教材、そして私は今高校教材に挑戦しています。これは一筋縄ではいきません。問題が難しい云々よりも、「時間がかかる」ことが一番大変なことです。「一日のうちで、どこにその時間を作るか」、それを決めることが、毎日やるためには必要なことです。
自分自身が毎日やっていれば、子どもたちが毎日やりたくなくなる気持ちが痛いように?わかります。また、どこでつまづきやすくて、どこでいやになってしまうのか、だいたいわかってきます。そういった意味で、親御さんもいっしょにやると、らくだ学習は「強制」にならず、「共感」をもって子どもとコミュニケーションをするための一つのツールとなりますから、子どもと親といっしょにすることのメリットは大です。
らくだ学習で伝えたい最大のポイントは、「やったことがないことに挑戦する力=自分の可能性にフタをしない」ということです。これが備われば、それぞれの可能性を無限に引き出し、社会の荒波を行きていく力となるからです。
そういった意味では、学びつづけるためのツールはもちろんらくだに限りません。ただ、大事なのは自分がやったことのないこと、あるいは、やることがある程度大変なことであるものでないと、自分の可能性を引き出すことはできませんし、継続することも難しいのではないかと思います。
誰でもできることの一つとして、「毎日書くこと」があります。やってみればわかることですが、これはなかなか大変です。私の場合厳密に言うと、「毎日ブログに発信すること」ですから、「書いたものを例えば三日間に分けて発信できるようにまとめる」こともあります。
「毎日書くこと」は、自分のまだ目に見えない能力をかなり引き出すことができることを実感しています。そういった意味で、誰でもできる(だけど実際は難しい)学びのツールと言えるでしょう。
やっていることの本当の意味は、やり続けてみないとわからないことが大半です。深い学びというのはそういうものであり、一生続けてもわからないことがあるかもしれません。それは音楽や武道に通じるものだと思います。
私は、らくだにしろ書くことにしろ読書にしろ、そういうものだと思っています。意味は発見となって少しずつ見えてくる、そこが学び続けることの醍醐味だと感じています。
大人がらくだをする意味は? 意味がわからないことこそやってみる価値がある、極論すればそう言えると私は思っています。
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