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【師の師】より
《ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えるということです。「自分で設定した限界」を超えるのです。「限界」というのは、多くの人が信じているように、自分の外側にあって、自分の自由や潜在的才能の発現を阻んでいるもののことではありません。そうではなくて、「限界」を作っているのは私たち自身なのです。
「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価が、私たち自身の「限界」をかたちづくります。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は自分の「自己評価の客観性」をずいぶん高く設定しています。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、と。そう前提している人だけが「私にはそんなことはできません」と言い張ります。
でも、いったい何を根拠に「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言いえるのか。これもまた一種の「うぬぼれ」に他なりません。それが本人には「うぬぼれ」だと自覚されていないだけ、いっそう悪質なものになりかねません。
ブレークスルーとは、「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価より上に置くということです。それが自分自身で設定した限界を取り外すということです。「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくることです。
他者が「私の限界」を決める。これは孫悟空における「禁箍児(きんこじ)」の機能に似ています。この金輪が頭にはまっているせいで、孫悟空は三蔵法師が「ダメ」というまでは自分の能力を無制限に発揮することが許されます。だから、自分で自分の限界について考える必要がない。やり過ぎたら、「先生」が「止めどき」を教えてくれる。実際には、人任せの「止めどき」などというものはないのです。でも、それが「ある」と想定すると、人間のパフォーマンスは爆発的に向上する。そういうものなのです。》
【古典を学べ】より
《何度も言っていることですけれど、人間は自分が学びたいことしか学びません。自分が学べることしか学びません。自分が学びたいと思ったときにしか学びません。
ですから、教師の仕事は「学び」を起動させること、それだけです。「外部の知」に対する欲望を起動させること、それだけです。そして、そのためには教師自身が、「外部の知」に対する烈しい欲望に現に灼かれていることが必要である。》
●このことは、まさに私だらくだ教材によって、子どもたちに伝えたいことです。
「やったことがないからできな〜い」というのは、子どもたちの口ぐせのようなものになっています。学校に行っているからこそ、「学校で習っていないからできない」と言います。らくだは学校で習っていないところまで進んでからが、本当の勉強と言えます。そこからは、常に「やったことがないことへの挑戦」になりますから。
《「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくること》ができれば、個々の可能性は無限に広がりますね。そういった意味で、常に他人の提案に乗ってみることは大事ですし、自分では発想しないようなことを「やってみない?」と言ってくれる人が傍にいれば、それはとても貴重なことです。
「師」というのはそのような人のことを言うとしたら、私にとっての師は、ジンベドラムの砂川正和さんであるし、らくだメソッドの平井雷太さんです。どちらの師からも、常に自分の限界(と考えていたもの)以上のことをやらざるをえないような状況にさせられましたから。そして、ジンベの教室を開くことも、らくだの教室を開くことも、私にとっての限界への挑戦でしたし、それは今も続いています。
それにしても、自分で自分の限界を設定するのは「うぬぼれ」だと内田さんは断言しているのですから、これを知って心にグサッとくる人は少なくないことでしょう。そして、反発も覚えるかもしれません。
「プライドがじゃまをする」ことはどんな人でもあることでしょう。でもその「プライド」が、自分の可能性を狭めていることになります。年を取れば取るほど、内にこもっていくことでしょう。私の父親もそうでした。プライドにこだわっていたら自分の将来を閉ざしてしまう、私はそのことを父親から学びました。そんな生き方しかできなかった父親です。
しかし、結果的に私が「できない言い訳をしないでやってみる」生き方を選択することになったのは父親のおかげとも言えます。「そんな生き方しかできなかった父親」は、年を重ねるほど私にとって尊敬に値する存在となってきています。
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