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【火事場の馬鹿力】より
《トップ・ダウン・マネジメントは「平時のマネジメント」「好天型マネジメント」です。大震災のようなカタストロフや「教育崩壊」はトップ・ダウンではマネージできません。現場の人間が「もらっている給料分の仕事」をしている限り、状況は打開できません。
現場の人間が「馬鹿力」を出すしかないのです。
「火事場」では「火事場の馬鹿力」に期待する以外に道はないのです。だから、ここでのマネジメントの問題は、組織をどう整備し、上の命令をどのようにそのまま現場で実現するかではなくて、どのように現場の教員たちがオーバー・アチーブできるような環境を整備するか、ということになります。20万円の教員が200万円の働きをしない限り、「教育崩壊」は食い止められない。そして、オーバー・アチーブというのは上司が「やれ」と命令することのできるものではなく、「やるしかない」という士気が自発的に高まることでしか達成されないのです。》
【叡智の境位】より
《現在の教育危機は、「地殻変動的」規模で進行中の社会全体の変化の一つの相に他なりません。私はこれを学校教育の中に社会システムが入り込みすぎてきて、コントロールを失った状態だと理解しています。
何度も申し上げたように、学校というのは、子どもたちを「外界」から隔離し、保護することをその本質的な責務とするものです。学校と「外の社会」の間には「壁」がなくてはならない。子どもたちを外から守る「壁」がなくてはならない。学校は本質的に「温室」でなければならない。これは異論のある方も多い(半数以上の日本国民が私に反対するでしょうけれど)と思いますけれど、私の譲ることのできない教育観です。》
【「砂粒化」する社会】より
《「クリエイティウ゛」というのは、自分の仕事に固有名の「タグ」がつき、それがもたらす報酬はすべて自分に占有権がある、そういう仕事のことです。つまり、「クリエイティウ゛」という言葉は「モジュール化された」とほとんど同義として理解されている。
非正規雇用というのは、まさに「モジュール化された仕事」です。マニュアル通りにやれば誰でもできる(はずの)仕事であり、指示された作業以外については自由裁量権はない。その代わり、「自分以外の人」と緊密な連絡を取り合い、責任を分かち合い、利益を分かち合うということはしなくて済む(してはならない)。私の仕事については私が責任を取り、他人の仕事については責任を取らない。私のリスクは私が一人で引き受け、私が上げた利益は誰ともシェアしない。それが「やりがい」を求めて、モジュール化された人間が求める「クリエイティウ゛な仕事」の実相です。》
●人間は、共同で一つのことを成し遂げたときにこそ、とてつもない幸福感に包まれるもの、だと私は思っています。
もっとも、生きていくこと自体、一人で為せるものではないですから、生まれ出てからの宿命?と言えるものかもしれません。
「教育」は、そこらへんのことを子どもたちに伝えていかなければならないはずですが、「いい学校、いい会社」優先のシステムでは、それがなせるはずもありません。家庭で伝えていくよう努めなければいけないことでしょうが、現実的にそれがかなわない家庭もあるわけで、そこが問題ですー。
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