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[第5講 コミュニケーションの教育]から 【君子の六芸】より
《単音の音楽というものはありえません。リズムもメロディも、その楽音に「先行する楽音」と「後続する楽音」の織りなす関係の中でしか把持されません。そして、「先行する楽音」も「後続する楽音」も、論理的に言えば、今、ここでは聞こえていない。今、ここには存在しないのです。‘今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは演奏することも聞き取ることもできない’のです。》
《音楽を愉悦するためには、できるだけ長い時間の中にいる必要がある。そうですね。もし生まれてから耳にしたすべての楽音を記憶している人がいたとしたら、その人は耳にするあらゆる音の中に、彼がこれまで聴いたすべての音楽の変奏と対旋律と倍音を聴き取ることができるでしょう。
そして、これから作られる音楽(まだ誰も演奏したことのない音楽)を先取りして想像できる人がいたとしたら(これも仮説的存在ですが)、その人が音楽を聴くときの快楽というのは私たちの想像を絶しているはずです。
音楽については、過去と未来に時間意識の翼を大きく広げられれば広げられるほど大きな快楽が約束されている。だから、音楽は時間意識の涵養のためにきわめて重要な科目とされるのだと私は思います。》
●音楽と時間との関係は、私も意識したことがあります。
例えば、好きな音楽の演奏会に行った時、オープニングの時点で、「ああ、あと2時間でこの楽しいコンサートは終わってしまう」と意識して、「だからこの場に身を浸している1分1秒を堪能しよう」と心の中でつぶやくことはもう何度もありました。
それにしても、《音楽は時間意識の涵養のためにきわめて重要》という説を聞いたことはなかったので、いいことを聞きました。茂木健一郎さんは「生の音楽を聴くことの大切さ」を著書の中で説いていましたが、そのことに通じるものでもあるのでしょう。
《武術の本質はこの二点に集約されると言ってよいのです。
自分の身体をどこまで精密に意識化できて、どこまで細かくコントロールできるか。それが第一。第二が、他者とのコミュニケーション。非−自己と一体化することによって、パフォーマンスを爆発的に向上させる。これが武術の原理です。
「敵と戦って、倒す」ということは武術の目的ではないのです。武術の原則は「敵をつくらない」ということです。的も馬も、身体運用の精度を上げ、運動能力を飛躍的に高めるための「きっかけ」ではあっても、「敵」ではありません。射は自分自身との、御は馬との、コミュニケーション能力開発のことです。私はそう理解しています。
そして、残ったのが書と数。「読み書きそろばん」です。生身の人間相手の、「浮世の勧工場」でのやりとりのための技術です。
ご覧の通り、現代の教育では六芸のうち、礼、楽、射、御は必須カリキュラムには含まれていません。最下位に置かれた二教科だけが集中的に教えられているのです。》
●武術の本質、う〜んやっぱり深いですね。
「君子の六芸」のうち、現代の教育では最下位に置かれた「書と数」の二教科だけが集中的に教えられているということ‥。これはやっぱり偏っていますね。音楽と武術の本質を学ぶことは、人生においてとても大切なことなのだと改めて教えてもらいました。
書と数に秀でている人、音楽と武術に秀でている人、世の中はいろいろな人がいて成り立っているのですから。
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