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以下、本文よりー
《ゆとり教育批判なども一つの典型ですけれども、ゆとり教育をやったら学力が落ちるじゃないかとか、ノーベル賞をとるやつが減るじゃないかとか言う。そこからは、障害を持つ子どもの学びとか、勉強は苦手だけれどなにかほかに取り柄がある子の育ちをどうするのかっていう議論が吹っ飛んじゃっている。そういう「弱者」のことは相手にしてないんだっていうのが新自由主義者たちの論理だし、市場主義者たる竹中さんたちもそうなんでしょう。
だけど、私は全体の奉仕者なんだから、なにも特別に弱者の味方っていうわけでもなく、弱者から強者まで、全部にとってバランスのいい解決を考えるのが仕事でした。公共の福祉っていうのは、ビル・ゲイツみたいな力のある人から重度障害でからだの動かない人までトータルで考えていくべきものです。》
●官僚をやめてからの寺脇さんは、何ものにも縛られていないフリーの立場です。ですから、常に自らの信条に忠実な発言をしており、それは実に興味深いものばかりです。
ゆとり教育と言われるものを導入するに至った背景などを語ることも多いですが、それを知れば知るほど、本来寺脇さんがやりたかったゆとり教育は、世間一般に広められたものとは異なっていたのだと感じます。でもそのときは、そのようにしか報道されませんから、時代に合わなかったということかもしれません。
しかし、そのような時代の流れに関わらず、しっかりとしたものをやり続けている人はやっていますし、これからの時代にこそ、本来のゆとり教育的なものは広まり浸透していくのではないかとも思っています。
本書の中では、大学検定試験(大検)導入の背景も記されています。寺脇さんが文部科学省の課長だった時に、大検をもっとさまざまな人に適用できるようにしたらいいという意見があることを知り、それはそうだと思った寺脇さんが中心となって改革をしていき、今のかたちに落ち着いたとのことです。
「私がこうなればいいと想像していたような、これ以上ないものになった」と、作家の平田オリザさんが言う程、今の大検は使い勝手のいいものになり、不登校だった子どもに限らず、多くの人たちがこれを利用して大学に入るという道を辿っているそうです。
寺脇さんはこのことを振り返り、大学卒業時に「官」に行くか「民」に行くかで大変悩んだそうですが、自分がいわゆる「エラい」立場になったからこそ、困っている人を本当に意味で助ける仕事をすることができたわけで、どこへ行って何を為すかは自分次第というようなことを記していました。
私はこれを読んでなるほどと思いました。「どこへ行こうが、何をしようが、何を為していくかは自分次第なんだ」ということにとても共感できます。このことをもっと若いうちに気づいていれば、いろんな回り道をしなくてもよかったのかな、と思ったりもしますが、回り道をしたからこそ、このことに深く共感できる自分がいるのだろうとも思います。
今の若い人たちに伝えたい言葉ですが、血気盛んな時期にこのことが伝わる若者はいるのだろうか。逆に、これが伝わるとしたら、老成しすぎているような気がしないでもないですしー。自分の道を真っ当に進んで行きさえすれば、気づくことができるのでしょう。
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