|
【教育と民主主義の矛盾】より
宮台ー
《僕にも「教育民主主義」に関する疑念があります。教育は民主的に運営すればうまくいくとは必ずしもいえません。教育を自由化・市場化すべしという議論があります。市場に出ている商品の中で何を選ぶかというのと、選挙の立候補者のなかで誰に投票するかというのは、似ています。共通して「衆愚化」が起こりやすいんですね。
民主化とは民の声に従うことだから、民が好きなものを選ぶ市場化はいいことだという考えがあります。実はこれがまずい。教育とはもともと奇妙な営みです。社会学では父性的温情主義(パターナリズム)といいますが、たかだか先に生まれたにすぎない年長世代が、何がよきことかを決定して子どもたちに教えるわけですからね。
でも、何が本当によきことかなんて、先に生まれたから程度のことでわかるはずもない。僕も含めて誰もが限定されたスパンとスコープに閉じ込められているわけです。人生は短く、視野は限られている。社会を成り立たせている基盤が何なのか、簡単にはわからない。なのに、社会によかれと、社会全体を変えるような重大な決定をしてしまう。
近代社会は、流動的であるだけでなく再帰的ですから、環境がどんどん変化するにもかかわらずプログラムを変えないことが、それ自体重大な決定になります。法社会学では「法を変えないこと自体も持続的法体験のひとつだ」と言います。だから決定は回避できません。だからわれわれには、決定に関わる勘違いによって社会を空洞化させる危険といつも表裏一体です。
教育は必然的にパターリズムで、複雑で流動的な社会でのパターリズムは必然的に危険です。だから教育は必然的に危険です。こうした教育の危険を「教育民主主義」によって回避するのは土台無理です。エリート主義的に響くでしょうが、藤田先生のおっしゃるように教育や社会に関する専門知の、全体的集約化が必要です。
ラディカル・デモクラシーを唱える政治哲学者のシャンタル・ムフが、民主主義の最大の誤用を「合意主義」だとします。「合意主義」では社会がダメな状態のまま止まってしまう。万人の異議申し立てに開かれた「闘義主義」が正しいのだとします。「討議」ではなく「闘義」という字をあてます。教育プログラムを「合意主義」から切り離すべきです。》
●私は宮台さんのここのところの考えに、とても納得するものがあるのですが、みなさんはいかがでしょうかー。
「教育とはもともと奇妙な営みです」
「何が本当によきことかなんて、先に生まれたから程度のことでわかるはずもない」
「環境がどんどん変化するにもかかわらずプログラムを変えないことが、それ自体重大な決定になります」
ーこれらのことを考えると、安易に「改革」に手をつけることなどできないはずですが。
「教育」の難しさ、奥の深さを考えさせてくれると同時に、だからこそ「おもしろい」のだと私は感じます。
「たかだか先に生まれたにすぎない」、私もこの言葉を常に頭の隅においておきたいと改めて思いました。
|