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【日本人が自滅的な教育改革を行ってしまう理由】より
宮台ー
《戦後の日本も、仮検定教科書の段階では「国語」はなく、「言語」と「文学」にわかれていて、「言語」はまさにリテラシー教育でした。52年のサンフランシスコ平和条約発効後、「言語」が廃止され、「文学」から「国語」と名前を変えた鑑賞教育が残ります。おかげで、わわわれは「文脈を参照して内容を割り引く」作法を教育されなくなりました。
たとえば「批判」概念は、日本では「攻撃」と同義で扱われがちで、なかなか人を批判しにくい。しかし本来は「文脈を参照して中身を割り引く」作法。別の言い方をすれば「前提を遡ることで対象をずらす」作法です。それを「攻撃」だと受け取るのは、文脈を参照する思考、前提を遡る思考そのものが、自明性を壊す作法として嫌悪されているからです。》
《同じ時期ヨーロッパでは、北イタリアのコミュニティハウスー小さな公民館や集会所ですねーからスローフード運動が始まりました。確かにスーパーの食材は安い。でもスーパーで買えば地元農家が寂れ、地域農業、地域文化、人間関係、街並みなど「コモンズ」に影響が及ぶ。ならば少し高くても「コモンズ」に貢献しようというものです。》
神保ー
《結果的に高くつく場合があるわけですね。》
宮台ー
《そうです。藤原和博さんとの共著『人生の教科書[よのなかのルール]』(ちくま文庫)に示されているように、こうした因果性は教育の場でこそ容易に教えられるものです。学校教育こそが思考訓練の場になるはずなんです。ところが戦後日本は、正確にいえばサンフランシスコ講和条約が発効してからは、冷戦激化を背景にして、こうした思考訓練を意図的に放棄したのですね。》
神保ー
《宮台さんがおっしゃったように、日本が平和主義とアメリカの核の傘、あるいは、平和憲法と日米安保条約といった根本的矛盾をかかえていることを考えれば、リテラシー教育や批判的思考の訓練を意図的にさせなかったところもありそうですね。》
●やっぱりなぁ。「自分の頭で考えることをさせようとしない教育」がお上の意図するところであるとは薄々感づいていたけれどー。国民ひとり一人が自ら主体的に考えることをしてしまったら、大変なことになりますからね。既得権益を手放そうとしない方々にとっては特に。
でもそれだと、「国力」は落ちてきて当たり前。今起こっている社会のさまざまな問題の根本にあるのは、広い意味での「お上(為政者)の意図した教育」にあるのだと私は思っていますがー。
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