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[制度の不備]から【『学校教育法』の時代遅れ】より
《『学校教育法』は、国によって標準化された学校に出席することだけを認め、それに出席していないと就学義務違反になる仕組みである。この仕組みのために、日本の義務教育システムは不登校問題に対応できなくなってしまった。既存の学校では無理だ、という子どもたちが現れても、いかに既存の学校に戻すかの施策しか取りようがないのである。
『学校教育法』は昭和22年の法律であり、子どもを無理やりにでも学校に行かせるのが恩恵だという考えのもとにある。その時代の子どもが学校に行かない主な理由は、教育に対する親の無理解だったり、家が貧しいためだったり、子どもが住み込み奉公に出されているためだった。そういう時代の法律である。
現代で学校に行かなくなる理由は、学校と子どもが合わないことである。子どもに恐怖反応がある場合が多い。しかし、教育運営では、戦後になっても民主主義原則がなかったために、実情がなかなか把握されなかった。生き地獄と言ってよいものが多発していた。
民主主義原則がないと、言いたいことが言えなくなるのではない。権威者の言うことが鵜呑みにされるようになるのである。学校に行けない子どもたちは、学校に適応できない自分たちが悪い、と信じ込んでいた。親たちは、自分の育て方が悪かったと信じ込んでいた。不登校の問題認識はきわめて遅かったし、その深刻さが認識されなかった。
遠からず不登校問題は、水俣病など公害病と同列に扱われることになるだろう。不登校問題は、民主主義原則がないとどんなことが起こるかの見本として、何百年も語り継がれると思う。》
●「民主主義原則がないと、権威者の言うことが鵜呑みにされる」の言葉、なるほどと思いました。
それに加えて、「自分の頭で考える教育」がなされていないのですから、言われるがままに「自分たちが悪い」と思い込んでいた…。
【柔軟なシステムが必要】より
《日本型教育が無理な子どもがたくさん生じている。不登校現象は、それまでの教育方法の枠では捉えきれない子どもたちがたくさんいるということなのである。
現在もあらたに、「学習障害」とか「多動性障害」とか呼ばれているケースの子どもたちが増えてきている。これは、新しい事態であり、いっさいの先入観を捨てて子どもにとっての最善を探る必要がある。
全員を義務教育学校に就学させる歴史は浅く、世界的に見ても19世紀後半から20世紀初頭くらいからのことである。義務教育制度は、まだまだ十分な歴史的検証を経ていない制度である。特定の教育方法を絶対視すべきではない。
学校制度が先にあるのではない。
その子がなにを必要としているのかが、先にある。》
●「いっさいの先入観を捨てて子どもにとっての最善を探る必要」というのは、すべての子どもにあてはまることでしょう。
「学校制度が先にあるのではない。その子がなにを必要としているのかが、先にある」という言葉にも深く共感します。
それを実現しうる「柔軟なシステム」とは・・・。
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