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〔3、個性尊重の教育はできるのか〕
[学校に染み付いたもの]から
《ある小学校の養護教諭が、不登校になりかけた子どもに親切にし、その子が毎日保健室にやってくるところまでこぎつけた。それを担任に報告すると、「でも、やっぱり授業に出席できなくてはね」と言われた。その養護教諭は、がっくりきて、学校というもの全体に不信感を持った。
学校には、なにかいいことがあると、「でも、いい気になって目標を忘れるなよ」を反射的に言う先生たちがいる。それは先生たちに染みついたパターンになっていて、人に冷水をあびせていることが見えていない。
このような、先生たちに染みついている裏の教育目標というようなものがある。次のようなものである。
・勤勉であること。
・無意味なことに我慢強いこと。
・示された目標に向けて頑張ること。
・なにを手に入れても満足しないこと。
・比較で刺激すること。「○○さんを見ならいなさい」「○○くんみたいになってはだめですよ」。
これらの教育目標は、昔はあたり前の教育目標だった。昔の教育目標が、きちんと総括されないまま、新しい教育目標がその上に降り積もり、あまり意識されなくなったものである。意識されないために、新しい教育目標と葛藤を起こしていることが見えにくい。
これらの教育目標は、教育倫理というより労働倫理である。日本の教育には、産業界の養成が多く届いた。学校は「職場で我慢できる」ことを意識して、子どものときから訓練する場になった。
これらの教育目標は、先生たちの労働倫理でもある。先生たちは、自分たちがされていることを、生徒たちにしている。
まるで職場訓練のような教育は、小中学校の運営に役立った。義務教育学校はある年齢に達した地域の子どもを全員を受け入れて、集団授業を施さなければならない。しかも、落ちこぼれを出してもいけなくて、全員の学習成果を上げなければならないのである。そのため、日本の教育は生徒たちに集団で行動することを訓練し、賞罰で誘導する教育法を確立した。
小学校に行くようになった子に、大きな変化が現れるのをたくさん見た。どうも、学校に行くようになると、性格がきつくなるし、大人が話すことに対して、はぐらかしたり揚げ足を取るようになる。なにかを壊すタイプの遊びが増え、何かを作るタイプの遊びが少なくなる。親戚・知人の子、自分の塾での生徒に、程度の差こそあれ、例外なくこれが起こった。こういう症状は、その子がほんとうの納得を失ってしまい、わけのわからない力関係に突き動かされていることを示している。
教師の側ではあたり前と思っていることの中に、生徒への脅しとして働いているものが多数あるはずである。
個性尊重教育が言われる。しかし学校は、集団授業を遂行することに特化していて、ちょっとやそっとでは、抜け出せない。
個性尊重教育は、「個性を大事にしなさい」と子どもに説くことではない。それは、子どもの生きている現実を認識していることであり、教師たちが権威主義に染まっていないことであり、学校が大きな裁量を持っていることなのである。
今のままで、いったい、個性尊重教育がやれるのだろうか。制度や組織まで変更しないと実行が難しいだろうと思うのだ。》
●「先生たちに染みついている裏の教育目標」…なるほどなぁ。思わず我が身を振り返ってしまいましたが、1つか2つは合致している部分があるかもしれません。
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