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●私は神戸を離れ、音楽の出前が始まるー
私はこの年の末に札幌にUターンすることを決めていましたが、それまでの間、東京での新しい仕事が待っていたので、残念ながら神戸に長居することはできませんでした。短い期間でしたが、濃密な時を過ごした仲間たちと離れてしまうことは、とても寂しく感じました。
私は活動を共にした仲間との別れが近づいてきた時、何か心が一つになるようなことを無性にしたくなり、歌を歌ってみないかと提案しました。吉椿さんがギターを弾けたので、喜納昌吉さんの「花」をみんなで歌ったことをよく覚えています。その歌詞の内容は、そのときの私たちの心にとても響きました。
花は流れてどこどこ行くの
人も流れてどこどこ行くの
(中略)
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か
花を咲かそうよ
すると翌日から、吉椿さんがギターを抱えて、「足湯隊」メンバーで「歌のボランティア」として避難所等を回っているというではありませんかー。特に子どもたちの集まっている場などでとても喜ばれたと聞いています。
吉椿さんは、外国の被災地での活動においても、歌や踊りなどの「祭」を催し、地元の人たちの笑顔を引き出す仕掛けをしているとのことでしたが、それも神戸でのこのような体験から来ているのかもしれません。
私は3〜4日間の滞在で神戸をあとにしましたが、それから一カ月後、二カ月後と、‘ジンベ(西アフリカのタイコ)’の仲間たちと神戸を訪れ、タイコの出前演奏を行いました。避難所となっている学校や公園、商店街、ボランティア団体の集合している公園、等々で丸三日間演奏して回りました。
タイコメンバーの一人がNGOスタッフであったことから、その関連で地元でコーディネートしてくれる人がいたのです。震災直後は、歌や音楽などを行ったり聞いたりする余裕などないでしょうが、時が経ってくるとこのようなことも必要であり、受け入れてくれるのだなぁと思います。
そして私はここでも、地元の方々の温かさに触れるばかりでした…。
●引き継がれた「足湯」ー
「足湯」は私たちメンバーで続ける間に、他の方々にも伝わり、最終的には現地で活動を継続するボランティア団体に引き継がれていると聞き、とてもうれしく思っていました。
しかし、それがまさか、今の今まで継続され、日本各地の震災の現場でも行われていたとは知らず、驚きました。ネットで検索すると、能登半島などで行われた足湯の活動が、写真入りで出てきました。
今月17日の午前のNHKの番組に、被災後靴職人の仕事を奪われ、その後ずっと救援活動に関わり、今では「被災地NGO恊働センター」代表となっている村井雅清さんが出演され、活動の話をしていましたが、そのときも足湯のことに触れていました。
村井さんは、「ひとり一人の話を徹底的に聞く」ことを一番大事にされているそうですが、これももしかしたら、足湯の体験から来ていることかもしれません。
去年11月には、「全国足湯ボランティア交流会」が催され、そのレポートまでありましたので、関心のある方はご覧になってみてください。 http://www.pure.ne.jp/~ngo/ashiyuzenkoku.htm
●私の再出発の原点としての神戸ー
私が神戸を訪れたのは、「ボランティア」をしたいという気持ちよりも、あの日あの時の自分は行くべきだったし、その流れにあったから、としか言いようがないような気がしています。
どう考えても、被災された方々の気持ちより、自分の気持ちを何とかしたい、ということにありました。いても立っても居られない、とはこのことかもしれません。「ボランティア元年」と後に言われる1995年1月の震災でしたが、ボランティアとして駆けつけた多くの方々に共通している気持ちだったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
そして体験するのは、「ボランティア」は決してこちらからの一方通行のものではなく、双方向のもの。つまり、「やってあげる、やってもらう」関係ではなく、対等の関係であるもの、「やってあげている」ようであって、実はやってあげていると思っている側が受け取ることの方が大きいのではないか、と私は感じています。
そうして私は、実に多くの目に見えないものをいただきました。
自分がやっていたことの意味というのは、後になってわかるものです。私は吉椿さんの姿を15年ぶりに見て、あのときの自分の行動を肯定されたような気がして、大げさにいえば救われました。
そして、今私が行っていることの原点は、やはり15年前に見た神戸の光景であり、そのときの体験であり、出会いにあるのだということを再認識できました。
今行っていることはすべて、人との出会いとつながりのためのものと言えるのですからー。
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