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第6章 アナクロな教室 から
p.98 メディア学 より
《偏差値といい市販テストといい学業成績に応じた就職配分先といい、そもそも教科書といい授業内容といい、この百二十年間で日本の先生は徹底的に「受け身」になってしまったのではないか。常に指摘されてきた「画一化」という問題よりも、この教え手の「受け身」化のほうが実は深刻な危機を内包している。現実世界の急激な変容にもかかわらず、毎年毎年、同じような教科書で同じような内容を教え続けるという営みは、確かに特殊な職能であると認めないわけにはいかない。しかしだからといって、受験という歯車に勢いよく乗るあまり、児童生徒たちの知のあり方までも徹底的に受け身化させてよい、という話にはならないはずである。
学校を巡るさまざまなメディアに対して能動的なリテラシーを涵養する、というのは、二つの側面がある。一つは、外部メディア(テレビ、新聞、映像、音楽など)の単なる受け手ではなく、作り手に身を擬し、メディアの情報に振り回される事態がいかに愚かなことかを学ぶ。活字と同様、映像でも「読み書き」を教えないのは理不尽であった。パソコンを駆使する教育も、むろんこの視点の延長線上にある。
もう一つの側面は、学校の内部メディア(校内放送や壁新聞もそうだが、それより教室や図書館や授業や試験を「学校メディア」と把握することのほうがずっと肝要だ)のリテラシーを研鑽する。つまり、教室の中で級友をどう説得するか、いかに自分を表現するか、どのように調べものをし、情報整理をすればよいのか、そしてまた試験で点数をアップするためにも試験をいうメディアを徹底的に解剖する必要もあるだろう。
こうしたメディア・リテラシーを学校がほとんど放棄してきたゆえに、教師と生徒の受動化が加速されてきたのではなかったか。日本の教室がアナクロである最大の理由は、施設の貧困ゆえではなく、世間とのズレゆえでさえなく、いまだ「読む」「書き写す」「計算する」「覚える」「聞く」という受信法にのみ拘泥されて、「話す」「調べる」「表現する」という発信法を欠落させてきたためではなかったか。》
●らくだメソッドの基本は「教えないこと」にあります。それを可能にした教材があるからこそなのですが、なぜ「教えない」を重視しているかというと、「自ら学ぶ」子どもを育てたいからです。
教えられることに慣れ、言われたことだけをやっていた子どもは、らくだ教材でまだやったことがないところに進むと、「学校で教えられていないからできない」と言ってきます。
らくだ教材を就学前からやってきた子どもは、そのようなことはありません。常に「教えられていないこと」をやり続けているのですから。
人生は初体験の連続、教えられていないことをいかに自らの力でやり遂げるか、ということにこそ醍醐味があると私は思っていますが、今の世の中、社会に出て壁にぶつかると、その先に進めなくなる若者が増大しています。
養老孟司さんも、「教えないことが大事、だから自分は教えない」と書かれていたのを読んだことがあります。
受け身で言われたことをただするのではなく、自ら学ぶことによってその可能性を最大限に発揮できるような子どもを育てるにはどうしたらいいのか、真剣に考える必要があるのではないでしょうか。
「話す」「調べる」「表現する」という発信法が必要という考えも、その通りだと思います。
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