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《「学力」というのは、世界と自分との距離をはかるとか、この問題が自分とどれくらい関係があるのかないのか、そんなふうに自分と社会をとらえるものさしのようなものではないかと思います。
いま、このものさしがとても短くなってしまっているのではないでしょうか。
役立つこと・実用的なことが重視されて、それを中心とした教育を受けてきたために、目の前のことや自分の問題だけでいっぱいいっぱいになってしまい、「現実はこうだけれど、本来はどうあるべきか」とか「自分の状況はこうだけれど、それは社会のなかでどのように位置づけられるのか」「いまはこうだけれども、十年前はどうだったか、十年後はどうなるか」といった視点をもちづらくなっているように思います。
こういう視点をもってものごとを見られるようにするためには、基本的な知識と、その知識を得る過程で身につける思考力や論理力が必要なのです。
よく、「二次方程式なんて、私の人生にまったく関係がなかった。だからそんなものを子どもに学ばせる必要はない」などという人がいます。ほんとうにそうでしょうか。
たとえば、二次方程式を自分に関連づけて考えるからこそ「関係ない」と思えます。何か新しいものごとに出会ったときに、「これと私の関係は」と考えることそのものが、勉強の一つの意味ではないかと思うのです。
学校では、ゆとり教育という名のもとに「最低限のことは教えるけど、あとは知らないよ」という考え方の教育がすすめられました。
本来、ゆとり教育というのは、大事な概念だと思います。しかし、施行された時期が悪かったこともあり、新自由主義や構造改革へと向かう流れのなかで、このようなかたちで定着してしまったのは、ほんとうに残念なことです。
「学校では最低限のことを教えるけど、あとは知らない」というのは、いわば、自己責任型の教育です。これでは、その家庭に教育にかける経済的・時間的なゆとりがあるかどうかで、子どもの学力に差が出てしまうのも当然です。》
●「基本的な知識と、その知識を得る過程で身につける思考力や論理力」によって初めて、「ものごととの距離を測る力」をつけることができる、ということはそうなのだろうなと私も思います。
子どもたちにはそのような力をつけていってほしいですし、そこまでの力を最終的につけることを視野に入れた学習指導を学校にはしていってほしいですし、私もしたいですが、現実的にはそこまでの入り口の段階へ行くだけでせいいっぱいというケースが多いのではないでしょうか。
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