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学びの主体性 より
《学ぶというのは創造的な仕事です。
それが創造的であるのは、同じ先生から同じことを学ぶ生徒は二人といないからです。
だからこそ私たちは学ぶのです。
私たちが学ぶのは、万人向けの有用な技術を習得するためではありません。“自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために”私たちは学ぶのです。
私たちが先生を敬愛するのは、“先生が唯一無二性の保証人である”からです。
もし、弟子たちがその先生から「同じこと」を学んだとしたら、それがどれほどすぐれた技法であっても、どれほど洞察に富んだ知見であっても、学んだものの唯一無二性は損なわれます。だって、“自分がいなくても”、他の誰かが先生の教えを伝えることができるからです。
だから、弟子たちは先生から決して同じことを学びません。ひとりひとりがその器に合わせて、それぞれ違うことを学び取ってゆくこと。それが“学びの創造性、学びの主体性”ということです。》
《教師は同じことばを語り、同じ情報を伝えているつもりでも、ひとりひとりが受け取るものは違います。生徒たちが一人の教師から同じ教育情報を受け取るということはありえないのです。
“生徒は自分が学ぶことのできること、学びたく願っていることしか学ぶことができません”。
「学ぶ側の主体性」という考え方は、ここから出発しなければなりません。「学びの主体性」は、生徒の側の解釈の自由を意味すると同時に、その限界によって絶えず脅かされることになります。》
●上記の文章には、とても素晴らしい言葉が詰まっているのではないでしょうか。
“自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために”
ーということは、学ぶことをしないと、その「事実」が確認できない、あるいは、し難い、ということになるのでしょうか。そうかもしれない、その可能性は高い、と私は感じます。だからこそ、いつだって学ぶことはとても大切なことなのだと言えるのでしょう。
でも、それが大切だと伝え、子どもたちに実行に移してもらうことはなかなか難しいことです。だからこそ、大人も学び続けるその姿を見せることこそ大切なのでしょうね。
“先生が唯一無二性の保証人である”
ーそれでいいんだ、と思えると、「先生」も自然体で接することができ、ものごとがよりよく循環していくような気がします。
“生徒は自分が学ぶことのできること、学びたく願っていることしか学ぶことができません”
ーフト思いましたが、同じ家庭に生まれ育った兄弟姉妹は、大概全然違った性格や考え方になることも、上記の言葉で表されているのではないでしょうか。
家庭で起こる出来事を体験しても、それに対する受け止め方、捉え方、理解の仕方はそれぞれに異なっているということです。例えば一つの出来事において、一人は親を尊いと感じ、もう一人は正反対に憎いと感じることなど、日常茶飯にあることですから。
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