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誤解の幅 より
《おそらく、“コミュニケーションはつねに誤解の余地があるように構造化されている”のです。うっかり聞き間違えると、けっこう深刻な影響が出るように、ことばはわざとわかりにくく出来上がっているのです。》
《私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるのは、そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。》
誤解のコミュニケーション より
《私たちが聴いて気分のよくなることばというのはいくつかの種類がありますが、そのすべてに共通するのは(誤解を招く表現ですが)、そこに“そこに誤解の余地が残されている”ということです。
奇妙に聞こえるでしょう?
でも、誤解の余地なく理解が行き届いたコミュニケーションではなく、誤解の余地が確保されているコミュニケーションこそが、私たちにコミュニケーションをしている“実感”をもたらしてくれるのです。》
《子どもたちが限定した語彙でしかコミュニケーションできなくなったというのは、たしかに一つの「退行」現象ではあるのですけれど、人間というのは、本人にしかわからない切実なる理由があって「退行」しているんですし、退行するときだって、必ずそれなりのしかたで「戻り道」を確保しているんです(ヘンゼルとグレーテルが森の小径に撒いたパンくずみたいに)。
彼らのあのチョー貧しい語彙は、「自分の言いたいことをきちんとことばにしなさい」という言われ方で、学校教育でずっと「正しい」とされてきた「自己表現」の強制に対する、子どもたち側からの「ノー」ではないかと私は思っています。
「そんなことばづかいじゃ、コミュニケーションできない」、そういうふうに感じている子どもたちが、生半可な自己表現に自分を託すことを拒んで、“ある種の失語症をみずから進んで病むことで、コミュニケーションを回復しようとしている”。そんな気が私にはするのです。》
●「ことばはわざとわかりにくく出来上がっている」というのも、また愉快な論点だとは思いませんか?
やはりここでも、大事なことであれば、「自分はどう受け取ったか」を相手に伝えて確認する作業が必要になってくるのでしょう。
子どもたちの「退行」現象についての内田さんの指摘、なるほどなぁと思います。
子どもたちは、どう考えても、「わざと、あえて」、「チョー貧しい語彙」を使ってのコミュニケーションを選び取っています。“「正しい」とされてきた「自己表現」の強制に対する「ノー」”という指摘、まさにそうだと感じます。
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