さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

朝鮮・韓国、アイヌ

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《向:強制徴用は、明治から終戦直後まで続いたんじゃないでしょうか。私は大学生のころ、鎖塚の発掘運動をしていた北見の高校の先生で、民間の歴史学者だった小池喜孝さんの話を聞いたことがあります。小池喜孝さんの呼びかけで、発掘のために全国から若い人たちが集まり、北海道の開拓の歴史の裏面にふれました。

私は、小池さんの話を学生時代に聞いていたものだから、終戦で解放された朝鮮人の方たちが、日高山脈を越えて、浦河も含めた温暖な日高に移住してきたことをここに来て知って驚いたんです。日高山脈の裾野に広がるアイヌコタン(集落)に受け入れられ、そこで家族をつくったという歴史がある。

昔は、浦河にも在日朝鮮人の浦河支部があったんですよ。浦河の、アイヌの人たちが多く住んでいる井寒台(いかんたい)という、札幌寄りの海沿いにある集落の中に支部があった。》

●このような歴史を私はもっともっと知りたいと思いました。北海道に住む私たちにとってとても大事な地域の歴史を、もっと知ることができるようにしたいし、子どもたちにも伝えていかないといけないのではー。昔はさまざまな理由からそれができなかったのでしょうが、今だったら可能なはずです。

 私もジンベクラスで各地を訪れていたとき、浦河や阿寒、それに釧路、旭川などで、いろいろなアイヌの方々と出会う機会がありました。札幌に住んでいるだけでは決してできない体験をしてきたのは、私にとって財産です。

 この旅行で彼は、一つの望みを私に伝えてくれていました。それは、「アイヌの方と出会いたい」ということでした。彼は、韓国朝鮮人が日本に侵略されてきたのと同様、アイヌの方々も和人に侵略されてきた歴史を学んでいたからでしょう、北海道へ行くならアイヌの方と会って話がしたいという希望を持っていました。

 私は当時北海道から離れて長かったので、どこに行けばアイヌの方の話を聞くことができるのかはよくわからなかったのですが、「日高の二風谷には萱野茂さんのアイヌ民族資料館がある」ということを聞いていましたから、とにかくそこに行こうと思っていました。でも、二風谷に行くにはどうしたらいいのかもわからないでいました。

 すると、それを聞いた私の父親がわざわざ車で連れて行ってくれると言いました。二風谷をよく知っていたものだと思いましたが、ありがたくお願いし、三人で向かいました。

 久しぶりに父親の運転する車に乗ったわけですが、今思うと冷や汗ものでした。ハンドルにしがみつくように運転する姿はこれまでと違っており、迷って遠回りしたりおかしな感じだったからです。その後認知症をいろいろ勉強した私は、「あれは認知症の初期行動に合致する」とわかったのでした…。

 それはともかく、二風谷へ到着したのはよかったのですが、肝心の資料館は冬期閉館中でした。それではあまりに残念だと思い、資料館の近くの萱野さんのお宅を訪ねてみました。すると、突然の訪問にも関わらず、奥様が館を開けてくださることになり、私たちは入館させていただくことができたのです。

 しばらく館内を見て回っていると、私の父親が、「オイ、萱野さんが来ているぞ」と教えてくれました。入り口の事務所をのぞいてみると、あの萱野茂さんがいらっしゃるではありませんか。そして私たちと目が合った萱野さんはすぐ、「冷えるべさ、こっちへ入ってあったまって行きなさい(言葉は正確でないと思いますが、あの独特の暖かみのある言い回しで…)」とおっしゃってくれたので、私たちは事務所へ入れていただきました。

 そしてパク君が韓国からの留学生だと知ると、萱野さんはいろいろなことを話してくださり、「これからは韓国の人と日本人が手を取り合っていくことはとても大事なことだし、いっしょにここを訪れてくれてうれしい」ともおっしゃってくださいました。

 私たちは萱野さんに直接お会いして話を伺えるなんて思っていなかったので、感動しながら話を聞いていました。しかし私の父親は、いつのまにかその場を離れ、外に出て行ってしまいました。

 せっかくの話をいっしょに聞けばいいのにーと思っていたところ、萱野さんが私の父親の仕事は何だったのかと聞かれたので、「内地から北海道に来てずっと営林署員でした」と伝えたところ、「営林署は私たちにとって、いいことは何もしてくれないところだった」と話し、「オヤジさんもそれを知っていたのでいたたまれなくなったのかもしれない」というようなことを話してくれました。

 そのときまでよく知らなかったのですが、営林署というのは要するに、原生林をどんどん伐採し、北海道の自然を破壊するだけでなく、それに伴ってアイヌの方々に昔からの伝統的な暮らしをできないようにさせていった、いわば日本という国の手先のようなものだったわけです。

 もっとも、末端の署員(国家公務員)は生活のために与えられた仕事をするだけであり、実際私の父親も、戦後の混乱期に仕事もなかったので、群馬県の営林署に勤めていた兄の口利きで、遠く離れた厳寒の地・北海道に一人やってきたのですー。

 萱野さんとのこの出会いも、私の忘れられない思い出となり、パク君との帰省旅行は何ものにも代えられない貴重なものとなりました。

  【パク君帰国、そして就職ー日本と関わりを持ち続ける仕事】

 パク君との濃密な同居生活?は、僅か半年で終わりを告げました。彼が大学へ戻って卒業し、そして就職するためです。彼は日本と取引の多くある企業に就職する道を選び、その後韓国の女性と結婚して再来日し、日本での暮らしを1〜2年続けました。今では韓国で幸せな家庭を築いています。
 
 先に記したように、私は彼の結婚式に出席するため、父親を伴って韓国を訪れました。結婚式は同じフロアーで同時に5〜6組行われ、日本とは異なり始終賑やかで、誰でも出入りできるようなオープンなものだったことを覚えています。

 あれから十数年が経ち、当時考えられなかったくらい韓国が身近な国になっているのですから、隔世の感があります。今度彼に会えるのはいつになるだろうか、会ったらどんな会話になるだろうかー。

                 以上、「私の交流史…朝鮮・韓国の人たちとの出会い」ーおわり

 私はこの人間的にとても魅力のある韓国人青年を、私の友人や親戚たちに紹介したいと思いました。そこで、冬の寒い時期でしたが、一緒に私の故郷である北海道へ帰省しないかと誘ったところ、彼も東京以外の場所には行ったことがなかったこともあり、喜んで同行してくれました。

 もう16〜7年前のことですから、記憶があやふやになってきていますが、確か私たちは列車を乗り継ぎ、東北に住む友人を訪ねたりしながら、札幌へ向かったと思います。

 札幌では、母親のところ、父親のところ、弟のところ、そして祖母や叔父叔母のいるところを訪ね歩きました。それに今思い出しましたが、倶知安に住んでいた友人を訪ねて、彼は人生初のスキー体験をしたはずです。
 
 私自身帰省するのは久しぶりでしたし、「外国人に会ったことがない」という肉親や親戚たちの一人でも多くに、彼と会って話すという体験をしてほしいと思っていましたから、多くの場所を訪れるようスケジュールを組みました。

 行く先々で歓迎してくれましたが、実はみな、「恐る恐る」彼を迎えてくれたようでした。とにかく「外国人」に会ったことがないし、ましてや「韓国人」ということで、言葉も通じないだろうしどうやってコミュニケーションを取っていいのやらわからないと思っていたようです。

 また皆一様に戦時中の日本軍の蛮行を思い起こし、「何か言われたらどう反応したらいいのか…」という思いを抱いていたようでした。

 しかし彼に会って話をすると、すぐにみな打ち解けました。日本語は上手に話せる上、礼儀正しいし(韓国人は目上の人を尊重する行動を取るのは当たり前)、歌はうまいしいい声だし…ということもありますが、なにより「実際会ってみたら私たちと変わらないじゃない」という声を聞くことになりました。

 この声を聞いて、私は彼を連れてきて本当によかったと思いました。「私たちと同じ人間」ということは、当たり前のことなのですが、間近で見たことも出会ったこともない人は、そうは思えないわけです。しかし、実際に会ってみるだけで、当たり前のことを当たり前に思えるのだと私は思います。そうなると、それまで遠かった国が、一気に身近なとても気になる国になってきます。

 こうして彼は、民間親善大使になって私と帰省旅行を共にしてくれ、私たちの絆はますます深まりました。

 当時東京では、在日朝鮮・韓国の文化を広めようと活動しているグループがありました。‘ハヌリ’もその一つで、歌や踊りなどを各地のお祭りやイベントなどで披露し、集まった方々と共に楽しむために日々練習を重ねている方々でした。

 若い男性女性が多く、その歌や踊りには華があり、私はそれに惹かれて何度も通ううち、一緒に飲んだり親しくなっていきました。特に彼らが野外の広場で踊り歌う時には、周りにいる人たちも巻き込んでのものとなり、その高揚感がたまらなく好きでした。

 私は‘ハヌリ’とパク君を出会わせたいと思いました。出会った場所でお互いの歌を披露しあったら、これまでなかったようないい場ができるのではないかと感じたからです。

 そしてハヌリの中でも私が親しくさせてもらっていた女性と、彼とが出会ったところ…二人はすぐに意気投合。二人の歌の会は何の支障もなく催すこととなり、会に備えた練習もとても楽しく、二人とも知っている歌ではいっしょに歌うことにもなっていきました。

  【韓国人、在日朝鮮人、そして日本人が一同に会した場】

 そして会の当日を迎えました。するとそこには、ハヌリの女性の知り合いの朝鮮大学校に通う若者も来ていました。会はもちろん、さまざまな歌とともに楽しく意義深い場となったのですが、その打ち上げの席が最高のものとなりました。
 それは、朝鮮大学校の若者の話を私たち日本人はもちろん、韓国人留学生のパク君も初めて聞くことになったからです。

 彼は日本で生まれ育ったにも関わらず、日本人の友だちは全くいないということでした。また、体制を異にする韓国人の留学生とこうして話ができるなんて、夢にも思っていなかったとのことでした。

 それはパク君も同じです。まさか日本で‘北’の同世代の人間とこうして出会って親しく会話するなんて、思いもよらぬことだったのです。後に彼は韓国へ戻ったのですが、しばらく私たちと音信不通にしていたのは、彼が‘危険’な行動を取ったと自覚していたからに他なりません。このようなことは、韓国という国家に知られると、彼の将来にとって不都合なことが起こりうる、14〜5年前はまだそんな可能性の残っている時代でした。

 朝鮮大学校の若者の話は、とにかく驚きでした。日本に住む人間が、日本人とほとんど交流を持てないままで暮らしてきた、ということがショックでした。そして彼もとても喜んでいました。日本人とこうして親しくお酒を飲めた上に、韓国人とも同じ場を共有していたのですから。

 在日朝鮮人2人と韓国人留学生の出会ったあの場は、いまだ忘れることなどできない、私の人生の中でも最高に輝いていた一瞬であり、奇跡的な出会いの場でした。

 その後も私たちは陽気にお酒を飲んで話す場を何度か作りました。私たちは国籍など全く関係ない、真の(心の)絆と信頼で結ばれた関係になりました。

  【オーストラリア人との同居】

 1986年末東京に出て行った当初私は友人のアパートに居候し、その後自分のアパートを借りましたが、それからまた日本人の友人とルームシェアリングする機会を得ました。その後その日本人の友人が司法試験の勉強に集中したいと実家に帰ることになったので、新たにルームメイトを探さなければいけなくなりました。

 そこでどうせなら外国人と住みたいと思い、『ひらがなタイムス』という外国人のための情報誌に「ルームメイト募集」の知らせを載せると、オーストラリア人が連絡をしてきました。これは英語の勉強にもなるしいいと思い、彼といっしょに暮らしましたが・・・ソリが合わず?ろくにコミュニケーションも取らないまま3ヶ月で彼は出て行き、また新たなルームメイト探しをしなければならなくなりました。

  【韓国留学生との同居】

 私は、「次に一緒に住むなら、ぜひ韓国の人と!」と考えました。英語圏の次はアジア圏ーとなんとなく思ったのだと思いますが。当時私は東京で仲間を募って「あじあくらぶ」という地域サークルを主宰していたこともあり、また、まだまだ「距離は近いが心は遠い」と言われていた韓国の人と親しくなって、本音の交流をしてみたいという気持ちがありました。

 また、日本の一般社会や体制とは一線を画した考え方をしていた父親から影響を受けたのか?、私は若い頃、「朝鮮・韓国の人に出会ったら、戦時中の日本の行いをまずは謝らなければいけない。親しくなって、日本人にもこんな考えの人間がいるんだと知ってもらいたい」とも思っていました。

 そして、韓国のことをもっと知りたいと思い、当時あまり上映されていなかった韓国の映画の上映会などがあると足しげく通い、韓国映画のおもしろさにはまり込んでいた時期があります。

 今でこそ韓国映画はおもしろい、スゴイ、という認識が得られるようになっていますが、当時はごく一部でしか上映されていませんでした。いくつかの映画には、とても感動して大きな影響を受けたことを覚えています。今タイトルを思い出すのはー『コレサニヤン(鯨とり)』「暗闇の子どもたち』、だったでしょうか。

 「鯨とり」といっても、鯨を捕るドキュメンタリー映画ではなく、楽しくまたほろ苦く泣かせる青春映画だったと記憶しています。「暗闇の子どもたち』は、それこそ韓国社会の闇の部分を描き出していました。こんな表現をして大丈夫なの?と驚かされるような映画がいっぱいありました。

 おもしろかったのは、「どの映画にも出てくる」と言っていいくらいの俳優がいました。アン・ソンギです。彼がいないと韓国映画は成り立たなかった時代と言えるのではないでしょうか。今でも名優としてよく出て来ますし、確か日本の小栗監督の映画でも主役を演じていた記憶があります。私もず〜っと大ファンです。

 それに加えて、当時韓国に何度も留学し、韓国通としてよく知られる存在だった戸田郁子さんを友人から紹介してもらい、彼女の発行する『ウッチャ通信』をよく読んでいたということも、こうして書いていて思い出しました。

 そんな、「韓国人のルームメイトが欲しい」という気持ちが通じたのか、「あじあくらぶ」を通して知り合った人が、一人の韓国人留学生を私に紹介してくれました。パク君です。

 彼は日本の居酒屋でアルバイトをしながら日本語を学んでおり、高麗大学という韓国では名高い大学に在籍していた若者でした。

 彼もルームメイトを探していたのですが、それは、「居酒屋と日本語学校の往復の生活では日本語を身につけるのは難しい、やっぱり一番いいのは日本人と暮らすこと」だと思うようになったからだということでした。

  【そして“チング(親友)”となる】

 彼とはウマが合いました。オーストラリア人との一件がありましたから、なぜこれほどまでに違うのか、驚く程でした。彼の性格は穏やかで芯が強い。そして根が優しい。私は、ペ・ヨンジュンが日本で人気が出てきた頃に、「やっぱりなあ」と思いました。ペ・ヨンジュンに共通する韓国人の典型が彼にもあったのでしょう(もちろんペ・ヨンジュンの本当の性格などわかりませんが)。

 まあぺさんは置いといて、アジア人と欧米諸国の違いというのはあったと思います。アジア人だと「言わなくてもわかる」という部分、共通する何かがあるのは間違いないと感じます。もちろん人によるでしょうがー。

 当時の韓国の若者は、大なり小なり学生運動をやっていたものですが、彼もその例にもれず、しかも当時集会などでよく歌われた歌をギターの弾き語りで歌ってくれました。お腹に響くいい声で、また気持ちが通じるいい歌がいっぱいありました。

 そこで私は、彼の歌を多く聞いてもらいたいと思い、あじあくらぶで会をすることにしたのですー。

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