さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

朝鮮・韓国、アイヌ

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 私の父親は韓国で生まれました。とはいっても父親が韓国人なのではなく、父親は昭和5年に、当時一家が住んでいた韓国の南端の木浦(モッポ)という大きな町の近くの海南(ヘナム)というところで生まれ、昭和20年戦争が終わりを告げるまでそこで暮らしていたということです。日本の占領下、そのような日本人は多くいたわけです。

  【マクワウリ】

 戦後49年を経た1994年、私は韓国人の友だちの結婚式に出席するためにソウルを訪れる際、父親を連れて韓国を訪れ、共に郷里を訪ねたのでした。父親の‘里帰り’も実に49年ぶりということになります。

 当時すでにボケ始めていた父親の「ふるさと」を訪れるのはこの機会を逃してないだろうと、意を決して連れて行ったのですが、それはまさに珍道中、父親が迷子になったりで大変でした…。そのへんの話はまたいずれ機会があれば書くとして、せっかく訪れたにも関わらず、父親の記憶が呼び戻されるようなものは何一つ残ってはいませんでした。

 50年近く経っていれば当然かもしれませんが、少しでも記憶が呼び起こされ、ボケの進行が遅れてくれればーという私の考えは見事に打ち砕かれたのでした。

 ただ一つ、町の川べりの露天で「マクワウリ」が売られており、それを見た父親は、「あれはマクワウリって言うんだぞ、子どもの頃よく食べたもんだ」と、懐かしそうに言っていましたっけ。

 父親と泊まった小さな旅館のオンドル部屋、木浦の海と商店街、タクシーで探し回った父親のかつてのふるさと海南の情景、初めて乗った高速バス、列車の中で買ったキムパップ(のり巻き)、なぜか観光で訪れた珍島(チンド)、そこで食したコチュジャンで食べる新鮮なお刺身・・・。

 よくぞまぁボケ始めた父親を連れて行ったものだ、と今になって思いますが、どれもみないい思い出です。

  【キムチ】

 父親は韓国で暮らしていた影響でしょうか、私が小さな頃からキムチ(当時は‘朝鮮漬け’と呼んでいた)が好きでした。そして辛いもの全般が好きでした。自分で朝鮮漬けを漬けて、家族から嫌われていました。ニンニクをいっぱい入れていましたから…。それにもめげず作っては食べていました。

 それが妻(つまりは私の母親)との離婚の要因の一つ‥かどうかはわかりませんが、そんな嗜好があるなんて、結婚しないとわからなかったでしょうね。

 これほどまでに日本に定着したキムチを見て、父親は生きていたらどう思うでしょう。きっと喜ぶことでしょう。ウチでも今は日本の漬け物はなくてもキムチは常備しています。そんな家庭は多いことでしょう・・・。

  【運動会】

 朝鮮学校で行われる行事は、日本に暮らす同胞の方々にとってもとても大切な行事だとのことで、みな楽しみにしています。
 特に運動会は高3生が中心になって小1から高校までの全生徒と協力し合って準備をし、当日を迎えます。民族舞踊あり組体操ありで私も観に行きたいと思える楽しさです。

 私は東京に暮らしていた頃、在日朝鮮・韓国の方々が多く住む川崎の保育園の運動会に、そこで保育士をしている友人に誘われて行ったことがありますが、鮮やかな民族衣装をまとった子どもたちがかわいく踊る姿に見とれたことを思い出します。

 最後におかしかったのが、運動会終了後に高3生が玄関前でビールかけならぬ「コーラかけ」をし合っていたこと。この弾けようが、いいではありませんか。

  【修学旅行】

 初めて踏む祖国の土、そして初めて出会う祖国在住の人々。彼らの気持ちの高ぶりが、画面を通してそのまま伝わってきます。
 彼ら彼女らは、「朝鮮語を話しても変な目で見られない」場に初めて立ち、暖かいもてなしを受けたのです。朝鮮学校の生徒とはいえ、その考え方は多種多様なわけですが、そのような交流を通して一様に彼らは、自分の中に存在していた祖国への気持ちが表に出てきたと言えるのでしょう。

 「どうせ北朝鮮では表面的なことしか見れるわけないだろう」「暖かいもてなしをするに決まっている」、そう言われればその通りかもしれません。でも、この世に生を受けて、日本という国に育ち、自身のアイデンティティを常に問われ問い続けてきた彼らの気持ちは、傍から分かり得るはずはないですし、そこでの出会いが表面的なものかどうかは、私たちに言える筋合いのものではありません。

 少なくとも画面を通して見た彼らの出会い、感動する気持ちは、「本物」だと私は思いました。その気持ちが伝わってきて、観ている私たちの心も動かされるものがあります。

 彼らが修学旅行で祖国へ行くために欠かせない唯一の「足」が、新潟から出航するあの「船」です。彼らが出発した時期は、ちょうど拉致事件で大変な時期でしたので、港は厳戒態勢、出港時にはそれを阻止しようと、着港時には「帰れ」の声の嵐の中で、何の罪もない朝鮮学校の生徒たちも、否応なくその現実に向き合います。

 本当は修学旅行の様子をカメラに収めたかった金監督は、韓国籍だったために同行できず、生徒にカメラを託しました。

 拉致事件はもちろん許されることではなく、解決を願っているご家族を中心としたみなさんのお気持ちはよくわかるつもりでいますが、朝鮮学校の生徒たちのような若者にまで罪を着せていくような事態はどうなんだろう…と思います。

  【卒業式】

 卒業式では、卒業するひとり一人が自分の言葉で堂々と語っていました。自然と涙する姿にこちらも熱い気持ちになりました。

 北海道ではここにしかない朝鮮学校には、小さい頃から寄宿舎に預ける親御さんもいらっしゃいます。そんな親御さんの気持ちを思うと・・・。

  【北海道朝鮮初中高級学校のことーパンフレット・映画より】

 札幌市清田区平岡に、1961年に創立。

[教育目的]
 在日朝鮮人子弟たちを祖国と民族の発展に貢献し、併せて朝・日両国民の親善に寄与しうる国際社会に役立つことのできる有能な人材として、立派な朝鮮人に育てること。

 「朝鮮学校を文部科学省は学校として認めていない」
             …そろばん教室や生け花教室などと同等の扱い。

●他にもこんな問題が…
・高校の卒業資格、国公立の受験資格がない。
・補助金が日本学校の10分の1しかもらえない。
・スクールゾーンが設置されていない。除雪してくれない。
・学校に脅迫電話が来ることもある。

●生徒数:全校生(小1〜高3)121名(2008年度)。

●「在日朝鮮学生ってどういう学生?」

 在日朝鮮学生というのは日本に住んでいる朝鮮学生のこと。おじいちゃん、おばあちゃん世代に日本に渡って来たため、今の朝鮮学生の世代は、日本で生まれ育った。
 日本で育ったので日本語しか話せず母国語(朝鮮語)を知らない。そこで在日朝鮮学生は母国語を習うため朝鮮学校に通う。学校内では「日本語」の授業以外すべて朝鮮語で生活する。でも学校を出ると日本語で話し生活する(学校生活以外の家庭内などの日常生活はすべて日本語)。

  【祖国を思う気持ち】

 朝鮮学校と聞いて、「あのテロ国家の北朝鮮を崇拝する学校なんだから、そこに通わせたり通っている者たちの気が知れない」というようなことを思われる方もいらっしゃることでしょう。
 私だって、「子どもたちに罪はないけど、でも、あの金日成や金正日を尊敬するような教育を行っているんだったら・・・」という気持ちがずっとありました。

 でもこの映画を観たら、そんな気持ちは払拭されました。「プロパガンダに乗っかっているんだろ」と思われる方は思われてもしょうがないんですが、そういう方にこそ、一度映画を観てほしいと感じます。

 北朝鮮のエラい人への気持ち(感情)と、彼らの祖国を敬う気持ちは別個であること、北朝鮮のエラい人を敬うための教育と、朝鮮学校で行われている教育は別個であること、そういったことが、映画を通して理解できます。

 彼らの置かれた立場や歴史、そういったものを理解することができれば、彼らが祖国を思う気持ちは自ずとわかってくるはずです。国籍は自ら選択したのではなく、歴史の流れでそうせざるをえなかった、という方々も多くいるのです。

 特に印象に残っているのは、修学旅行で北朝鮮を訪れた時および帰国後の彼らの表情です。ようやく自分自身のアイデンティティを見出し、自信を持ってその後の人生に臨んでいこうとする彼らの姿に胸を打たれました。

【サッカー、そして藤代隆介先生】

 朝鮮・韓国と言えばサッカーです。国技といえるサッカーの実力は、ずっと日本を凌いできたのは周知の事実です。しかし、そのサッカーを始めとする朝鮮学校のスポーツ部は、長く日本の大会に参加することを拒まれてきました。
 それはここ十数年でようやく解禁されてきたので、朝鮮学校の名が各種大会で見られるようになってきています。

 今回映画上映の後にお話をされた藤代隆介さん(34歳)は、帝京高校のサッカー部出身で、その当時近くにあった朝鮮学校のサッカー部とよく練習試合をしていたそうです。あの帝京高校にして勝つのに容易ではなかった朝鮮高校が、全国選手権試合の東京予選でその名前が上がってこないのを、彼はずっと不思議に思っていたそうです。

 しかしある時、出場を許可されていないことを知り、彼は驚いた経験があったそうです。その後藤代さんは縁あって北海道の朝鮮学校のサッカー部コーチになり、その指導法を慕った生徒から父母に話が伝わり、「それほど生徒が信頼できる人だったらずっとここにいてほしい」と父母たちが学校側に出向き、当時の校長先生が「日本人の朝鮮学校教員」は過去に例がなかったにも関わらず、教員として採用するに至ったのだそうです。

 そして彼は指導するなら朝鮮語を話さなくては…と、生徒といっしょに学び始めたそうですが、彼も朝鮮学校の教員に請われてとてもうれしかったとのことです。それは、「生徒たちの目の輝きが」違い、彼らに指導しコミュニケーションを重ねていくことが、とても充実感のあることだと感じたからだそうです。

 また、生徒たちには、ただ「自分のために」サッカーをするのではなく、「日本に暮らす同じ民族(同胞)の喜びのために」という意識が刻み込まれているのが、日本の学校と違うところで、その意義というのが私も映画を観ているうちにわかるような気がしてきました。

 ただ、強豪と言われた朝鮮学校サッカー部も、生徒が減少していくにつれ、以前ほどの強さはなくなっていったとのことです。しかし、そのようなこととは関係なしに、朝鮮学校の教員として仕事ができることは、彼にとって充実した毎日であることは変わりありません。

 そんな藤代先生の朝鮮学校での体験は、とても興味深いものでした。特に「拉致事件」が明るみに出た時期には、学校の先生たちも生徒も大変な思いをしたとのことでした。今回は少ししかお話を聞くことができませんでしたが、藤代先生は、「私の話を聞いてくれる人がいるところならどこへでも行きます」とおっしゃっていましたので、私はぜひ彼の話を聞く機会を設けたいと思っています。

 先日、映画『ウリハッキョ』と、北海道朝鮮学校教員 藤代隆介さんのお話の会「今を共に生きている、わたしたち」に参加してきました。

 『ウリハッキョ』は、これまでにも何度かあった上映会に行きたかったのですが、なかなか都合が合わずに行けないでいました。今回の上映会は新聞で知ったのですが、全国の朝鮮学校で唯一の日本人教員である方のお話も聞くことができるということで、楽しみにして参加しました。

 今週はこれを観て感じたことや、自分と朝鮮韓国の方たちとの交流を振り返って、書いていきたいと思います。

【映画『ウリハッキョ』とはー】

 「ウリハッキョ」は朝鮮語で「私たちの学校」という意味です。韓国在住の金明俊(キムミョンジュン)監督が、北海道朝鮮初中高級学校に通い続け、生徒との信頼関係を築きながら撮り上げたドキュメンタリー映画で、韓国で上映された際には、ドキュメンタリー映画の観客動員数を塗り替える大ヒットを記録したとのことです。

 【若者たちの主催】

 今回の上映会は、「北海道洞爺湖サミットにちなんだ市民フォーラムのプレ企画として、北大の学生らが呼びかけ、韓国語で出会いを意味する『マンナムの会』を実行委として結成。約二十人のメンバーには、韓国人留学生や朝鮮学校の生徒会も参加、上映準備を続けて来た」とのことでした。

 司会進行は北海道朝鮮学校高級部の女生徒、挨拶は北大生の実行委員長でした。若い実行委員長は自分の考えをしっかりと述べ、舞台上で堂々と話していたのですから大したものです。そして彼は「日本人である」ということも、今回の催しではとても価値のあることだと思います。

 【映画を観てー】

 予想を超えたおもしろさ、そして内容の濃さ深さでした。この日の午後は子どもを連れて動物園を歩き回ってとても疲れていたので、眠くなったらどうしようと思っていたのですが、それは杞憂に終わりました。

 本当に観てよかった!

 一番の印象は、朝鮮学校の子どもたちのイキのいいこと!これは言葉ではなかなか表せません。みなさんもぜひ映画を観てみて!と言いたくなります。どう考えても同年代の日本の子どもとはレベルの違うイキの良さ、それにたくましさを感じられます。

 もっとも、私がこれまでに出会って来た韓国人、在日朝鮮人、の方々も、パワフルな方たちばかりだったのですがー。

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