さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

宮台真司

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《「感染動機」が大切なら、教える側が「スゴイ」人間じゃないといけない。少なくとも子どもから「そう見える」ことが大事だ。そんな人はどこにいるか。公教育じゃなく予備校の現場に多くいる。だから和田中学校では、塾と連携して「夜スペ」という夜間塾を開く。

 「スゴイ」人間には「スゴイ」人間のネットワークがある。だからゲストティーチャー制を使えば[よのなか]科みたく社会で活躍するいろんな「スゴイ」大人を呼んでこられる。学校が地域社会の「ハブ」になる。つまり、いろんなところにアクセスするための中継地になるんだ。「スゴイ」教師にふれれば、子どもは勉強する動機が得られるのと同時に、勉強しただけじゃ「スゴイ」大人になれないことも知る。「スゴイ」と思う先生が塾にいれば、その先生とのコミュニケーションが魅力的だから、子どもたちは、進んで塾に通うようになる。

 親が子どもに塾通いをさせる名目は「受験のため」だ。塾はその名目を十分満たしながら、実際は多くの場合、子どもが「感染動機」を得る唯一の場所として機能している。その機能に親も子もうすうす気づいているだろう。必要なのは、知識じゃない。あくまで「感染」なんだ。》


●この場合の「塾」は、小中学生が通うような塾ではなく、主に「予備校」のことを指しているのでしょう。私も一年間札幌で浪人生活を過ごしていた時期に予備校に通っていました。そして、まさに「感染動機」を得ることができた先生がいました。一人は、北大の老教授だったであろう生物の先生、もう一人はその塾の生え抜きの数学の先生でした。

 授業内容はというと、その半分以上を四方山話に宛て、授業の終わりの頃に受験に必要な知識をポイントを押さえて簡潔にわかりやすく伝えてくれる、という感じだったように記憶しています。

 その四方山話の内容は、30年近く前のことですからすでに記憶の彼方に行ってしまいましたが、単なる受験のための知識ではない、18、9歳の若者が潜在的に求めているような、それこそ「内発的な」学習欲求を満たしてくれるような、それぞれの体験に基づいた深〜い話だったように思います。

 私はロクに受験勉強もしていませんでしたが、その先生たちの授業には必ず出席していたように思いますし、毎回他のクラスや予備校からも生徒たちが来て教室がいっぱいだったように思います。

 この先生たちに出会えただけでも、予備校に通ってよかったと思いました。社会に出る準備段階にある若者たちに勇気を与えてくれた存在だったと言えるでしょう。もっとも、大枚はたいて通わせてくれた親の気持ちはわかっていなかったわけですが…(今は十分すぎる程理解しています)。

 とにかく、そのような「スゴイ」先生がいる塾や予備校に通うことの価値は私もよくわかります。が、それを現在の学校の現場に求めるのは無理があるでしょうし、宮台さんもだからこそ、塾の話に持っていったのでしょう。

 もちろん、今の学校の先生の中にも「スゴイ」先生および、「スゴイ」ネットワークを持つ先生もいらっしゃるでしょうが、みんながみんなスゴくなくてもいいはずです。学校が学校としての役割を十分機能してさえいればー。

 それよりも、さまざまな大人と出会うことができる場が地域に存在し、子どもたちと自然に触れ合うことができたらそれでいいと思うのですが、それもなかなか叶わないのが今の社会です…。

 でも、先日のブログに記したような釧路での実践例もありますから、希望は捨ててはいけませんし、自分なりに行動していくことが大事だと思っています。

 【[よのなか]科という成功事例】

《ぼくは1998(平成10)年に『人生の教科書[よのなか]』という本を藤原和博という人との共著で出した。藤原さんはその後、杉並区立和田中学校の校長を5年間務めて、地域や社会で活躍する大人を呼んで話を聞く[よのなか]科を作るなどの成功を収めた。

 [よのなか]科では、たとえば生徒たちがハンバーガーショップの店長の役割を演じることで、ビジネスや経済を体験する。また、自殺やホームレスの問題についての議論もする。ホームレス問題を議論したときは、実際にホームレスの人を招いて話を聞いている。

 [よのなか]科の授業には正解がない。生徒たちが主体になって、日常様々な形で出会う正解がないことがらについて、大人といっしょに考える。こういう問題についての回答率を上げることに藤原さんは成功したし、計算力や漢字力などの学力上昇にも成功した。

 この成功は藤原和博という「人の力」がもたらしたものだ。20年以上前から知っている藤原さんは「学校を開くとは、校長自ら社会に出かけて説得することだ」といっていた。「寝た子を起こすな」という反対意見もあったけど、藤原さんは「人の力」で勝利した。》


●宮台さんが、藤原さんと20年以上前から知己があったとはびっくりでした。藤原さんが公立中学の校長だった時の功績には賛否あると思いますが、上記に書かれているような「正解がないことがらを大人といっしょに考える」授業を成功に導いたのは特筆すべきことで、他の学校にもこのような実践が伝播していけばいいと私は思っています。

 「学校を開くとは、校長自ら社会に出かけて説得することだ」というのもなるほどと思います。校長先生が汗を流して率先することにより、地域の理解を得ることができるのでしょう。ただ、その方向性が問題であり、そのための理念が大事になってくることでしょうから、現時点ではどの学校でも行い得るものではないのかもしれません…。民間出身の校長であればいいというものでもないでしょうし。

 しかし、いずれにしろ校長の自由裁量度を増し、それぞれの地域に合わせたことをまずはやってみることが大事なのではないでしょうか。

 【「感染」したあと「卒業」すること】より

《ぼくはこの点をなんとかしたい。将来不安におびえて学ぶ「自発性」もいい。でもはっきりいう。「内発性」がなかったら、知識はどんなに集めても「単に役に立つだけ」のクズだ。君の人格を構成してくれない。君自身の内面は変わらない。そんな知識は価値がない。

 君も知ってるように「学ぶ」は「真似ぶ」からきている。ぼくの2歳の娘を見ていてわかるけど、人間にとって最初の学びは「まねできる」ことの喜びにつき動かされたものだ。言葉をふくめて、何もかも「丸ごと」まねしたあと、いらないものを捨てていくわけだよ。

 ミュージシャンは優れたプレイヤーの演奏を徹底的にコピーして、やがて自分の演奏スタイルを作る。小説家だって同じだ。優れた作家の作品を徹底的に読み、文体模写なんかしながら、いつしか自分の作品世界を作る。学問だって同じ。大切なのは「感染」だ。

 1)誰かに「感染」して乗り移られたあと、2)徹底的にその人の視点から理解し、3)やがて卒業して今度は別の誰かに「感染」するー。1→2→3を数回くり返せば、そのときにはすでに君自身が、誰かから「感染」してもらえる価値を持つようになっているだろう。》


●「自発性」と「内発性」、そして自身の内面が変わることに価値を置く宮台さんの考えに、なるほどなぁと思います。

 誰かから「感染」してもらえる価値を持つような人間になったんだ、と実感した時の気持ちは言葉では言い表せないものがあります。思わず、自分がかつて「感染」した人たちのことを頭に思い描きます。

 日々の暮らしの中で人との関わりなしにこのようなことは起こりえないので、まずはそのような人との関わり、つながりを作り、維持できていることにあらためて感謝の気持ちを持ちます。

 また、そのような関係は時空を超えるものでもあります。例えば、20年前、東京にいた時のつながり、そして思い出が、今の私の心の支えにもなり得ているのです。

 【「感染動機」は知識を血肉化させる】

《ぼくが小室直樹や廣松渉にひかれたのも、まったく同じ理由だった。小室も廣松も信じられないほどの知識量が、人格の中にきちんと構造化されている。彼らはひと言もしゃべらなくても、圧倒的なオーラがあった。

 チョムスキーと同じで、彼らがものすごい教養を持っているのは、彼ら自身に「核」があるからだと直感した。ぼくの身につけた教養はすべてが、彼らのような人間に「感染」して、「彼らならどう見るだろう」とシミュレーションしながら、ものを見てきた結果だ。

 彼らの知識ひとつひとつは、問題じゃない。書かれた書物もふくめた「たたずまい」を見ていると、突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間が訪れる。それらが訪れてからは、「その人だったら世界をどう見るのか」をひたすらシミュレーションするだけだ。

 ぼくは偶然そういう経緯をたどったけれど、こういう「感染動機」からものを学ぶやり方をたぶん君は知らないだろう。これ以外の「競争動機」や「理解動機」で先に進んでも、砂粒のような知識の断片が集まりがちだ。「感染動機」だけが知識を本当に血肉化できる。》


●ここらへんの宮台さんの話にはとても共感します。14歳にはちょっと難しいかなとも思うんですが、すぐにはわからないようなことであっても、伝えようと思うことは大事なのかもしれません。
 
 「知識の血肉化」ということも、大事なことでしょう。単に知識を詰め込むのではなく、自分のものとして、自分の人生に活かすことでしょうから。

5、〈本物〉と〈ニセ物〉ー「本物」と「ニセ物」を見わける力をつける から

 【「役割」でなく「人」の力が大切】より

《昔みたいに学校の先生が一本調子に規律の大切さを教えても、規律を守る大人よりもぬけがけする大人の方が得をする現実を、メディアなどが伝えていれば、子どもは「先生のいうことを真に受けるとバカを見る」と思うようになる。これは少しも異常なことじゃない。

 いまの社会は、離婚・再婚による家族の組みかえ、企業のリストラや再就職が増えてきた。いばり散らしていた大人が、所属や肩書きをなくしたとたんショボくれれば、子どもは大人の役割の向こう側を見ぬく。これも健全だ。

 だからいま、教育の現場では、先生という役割の向こう側にある「その人の力」が大切になっている。「この人はスゴイ」と子どもが感じれば、「自分もこういうスゴイ人になってみたい」と思うようになる。「役割」じゃなくて「人」の力が大切になっているんだね。》


●「その人の力」によって感化される、影響されるー私もそのくり返しできたように思います。
 翻って自分は生徒である子どもたちにどのように思われているのか・・・。
 本心を知るのはなかなか難しいと思いますし、「自分はスゴイかどうか」なんて意識するのはおかしな話です。
 人が自分をどう見るかの問題ではなく、日常の自分がどう在るかを常に考えて行動していくしかないでしょう。自分を磨くことをし続けなければ、日々成長する子どもたちに太刀打ちできません。

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