さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

教育人間塾

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 前回は交流会、その前はテキストから離れた意見交換になったこともあり、今回はこれまでの復習的なことから入ってくださいました。

 私の頭の中では、まだまだ福澤の全体像を捉えきれずにいますが、今回村山先生がまとめ的な講義をしてくださったことにより、これまでよりは福澤の思想・人間観の根本をつかめてきたように思います。

 わからなくなったらここに立ち戻ればいい、ということがわかっただけで、安心できます。
 それにしても福澤の思想は広く奥が深く、本当に学びがいがあるというものです。

 今回はテキスト27ページ、『学問のすゝめ』三編、【国は同等なる事】を読み進めていきました。

《我が日本国人も今より学問に志し、気力をたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり》

●「福澤には強烈なナショナリズムがある」と言います。だとすれば、その「ナショナリズム」とは、どのような意味のものなのか、それが大事なことだと思います。今回テキストを読み進めるだけでこれといったものを掴めたわけではありませんが、概要は私なりに感じ取ることができました。

 【一身独立して一国独立する事】

《前条に言える如く、国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶること能わず。その次第、三箇条あり。

 第一条 独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。

 独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う。自ら物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵に依らざる独立なり。自ら心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財に依らざる独立なり。人々この独立の心なくしてただ他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがる人のみにて、これを引き受くる者はなかるべし。》

《第二条 内に居て独立の地位を得ざる者は、外に在って外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず。
 独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。》

《第三条 独立の気力なき者は、人に依頼して悪事をなすことあり。》

《右三箇条に言うところは、皆、人民に独立の心なきより生ずる災害なり。今の世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わず先ず自己の独立を謀り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商共に独立して国を守らざるべからず。概してこれを言えば、人を束縛して独り心配を求むるより、人を放ちて共に苦楽を与(とも)にするに若かざるなり。》

●書いてある通りなのですが、ここでのポイントはやはり、一番最後の部分です。以前にも一度取り上げたことがありますが、福澤の今に通じる斬新な思想と言えるのではないでしょうか。

「人を束縛して独り心配を求むるより、人を放ちて共に苦楽を与(とも)にするに若かざるなり」

 この言葉の意味をもう一度味わい、これを活かすには自分がどうあるべきかを考えたいと思います。


●「先生ご自身」のお話ー

 今回、講義と質疑応答をひととおり終えてから、村山先生はご自身の私的な話をしてくださいました。話の内容は、ここでは控えます。出席したからこその特権?だとも思えるからです。
 
 先生ご自身の体験から語ってくださったことは、深く考えさせられることがらで、私の身にも起こりうるような、とても身近に感じられるものでした。

 このような話を聞くことができる、それこそ何ものにも代え難い「学び」であり、大変貴重な一瞬だと思います。

 私が報告として書くものはほんのわずかなことであり、2時間の人間塾の時間の中では、毎回先生から、そして参加されているみなさんからの、大きな「学び」となる言葉を得られます。だからこそ、「とにかくその場に赴いて我が身を委ねる」ことこそが大事、と思えます。

 [2 教育の目的と目標]より

 ここではまず、《それぞれ自分の教育の理念、目的をもつことがなによりも大事》だということを伝えられています。


《そもそもなんのために教育するのでしょうか。それを自分のことばで自分の万感の思いを込めて語らなければなりません。それは、目の前のひとりひとりの子どもらをどんな人間に育てるのかに関するリーダーの理念と哲学だと思います》

●毎回教育人間塾に参加した後、こうして私は極力感じたことをまとめるようにしています。その積み重ねが自分自身の考えを明確化させていき、自身の理念と哲学が固まり、人に伝えられる言葉として自分のものになっていくと思うからです。
 この繰り返しの作業をしないことには、人に伝わる言葉を発することはできません。少なくとも私の場合にはー。

《「学ぶ」というのは「わかる」ということであり、結果として「知力」が上がることであり、現代社会では相当の「知力」なしに生きていけないのは間違いないことです。昔ときに言われた、算数がよくできない子も逆上がりやかけっこが得意であればいいというのは幻想です》

●私はここの部分を目にして、村山先生の現在の教育に対する明確な考えを知り、ある意味驚いたとともに、深く納得することができました。

 そしてやはり、私以外にもこの部分に強い衝撃?を受けた方がいらして、ここの部分をテーマにしばらく意見交換することとなりました。

 「昔であれば、‘かけっこが得意であれば勉強面では目をつぶる’という考え方もよく聞いたものですが、今はどうしてそれではダメだと思いますか?」という問いを、参加者全員に聞いていきました。

 私は、「今の時代、そしてこれからの時代、どんな仕事に就くにしても、やるにしても、最低限の算数ができていないと成り立っていかない」ーというようなことを答えたと思いますが、ちょっと違うかなという気もしていました。

 みなさんの考えを聞いた後で、村山先生はご自分のお考えを述べられました。

           「知力は人間としての自信につながることだから」

 私はこの言葉を聞いてハッと思いました。私は、「自分自身の可能性にフタをしないでどんどん伸ばしていける子」を育てたいと思って今の塾を始めたのです。そのために、「算数のプリントでその子それぞれにとっての壁を乗り越える体験」を繰り返すことを指導の柱としています。それは、「人間としての自信をつける」ことにほかなりません。

 村山先生は、今の社会ではどうしても、「勉強ができない、算数ができない」では、周囲から取り残されて子どもにとっての「自信」がつかない、ということを熱く述べてくださいました。

 私ももっともだと思います。そしてそれは、子どものせいではなく、ひとり一人の子どもにしっかりと対応できない現在の学校のシステムや、目先の学校への進学のことしか頭にない親の考え方に問題があると私は思っています。

 私のところに来ている不登校の子どもは、気がついたら学校へ行くようになっているということがよくあります。このことが、「知力と自信」の関係を物語っているのではないでしょうか。

 そして、学校へ行っている子も行ってない子も関係なく、分け隔てなく学ぶことができる場がもっとあっていいのではないか、とも思っています。

 ひとり一人にしっかり対応さえできれば、その子それぞれに「自信」をつけるためのやり方はあるはずです。それは、「子どもはみな成長したいと思っている」「できるようになりたいと思っている」と自分自身が信じるところから始まるのだとも思います。

 学ぶことの根本にあるのは何なのか、私にとってより明確になりました。教育人間塾に参加していて本当によかったと思います。


 [3 組織を変えることとリーダーの人間性]より

《しかし、これら学校組織のありようを変える努力も、学校のなかだけではなかなかうまく進まないと思います。私の経験でも、改革の大きな力になったのは、実は大学外のさまざまな組織や人との連携、さらにはそういった方々を「新しい血」として大学運営に直接入っていただいたことでした。この面では、小中高校などでは難しいところがありますが、学校はやはり「閉鎖社会」でして、文字面だけでなく本気で、地域、保護者、民間の様々な人たちとの連携を追求していくべき時期ではないでしょうか》

●私自身、学校と連携して、私ができることがあればお役に立てればと思っています。ただ、本業とのバランスもあり、どのようにしてコンタクトを取り、どのような形で連携していけるか、まだ具体的にはわからないのですが、常に頭に置いています。


《最後に、しかし、組織を変えていくことを最終的に支えるのは、その先頭に立つリーダーの人間性の力です。リーダーが人に信頼され頼もしく思われ親しまれることなしに、なにごとも成就しません。福沢は、『学問のすゝめ』の最後の章で、「人望ある人とは」を論じています。人望ある人とは「たしかなる人」「頼りになる人」「当てになる人」であって、それには、自分のことばでわかりやすく話せること、顔色容貌をいつも活発で心地よくしていること、広く人と率直に付き合うことの3点を挙げています。たいへん含蓄の深い文章です。ぜひじかに福沢の文章を読んでいただきたいと思います》

●「その人の人間性以上の教育はできない」、という言葉が私の頭に残っています。常に自分自身を磨くことなしに「教育」に携わることはできないでしょう。また逆に、それをやっている人間であれば、「教育」に携わる資格があると言ってもいいのではないかと私は思うのですが、いかがでしょうかー。

 この日私は少々遅れて入室したのですが、福澤のテキストではなく、「教育会」という場で村山先生が、校長教頭先生方を前に講演をした際の原稿をもとに話を進めているところでした。

 タイトルは、「これからの教育に求められるものー校長教頭のリーダーシップに期待して」です。

 これを基にした意見交換をした後に、福澤のテキスト『学問のすゝめ』にこの日は入っていく予定でしたが、意見交換が長引いたこともあり、テキストに入らぬままにこの日は時間となりました。

 村山先生も、「たまにはこんな日があっていい」と途中から思われたようですし、私も同感でした。私が小中高校の頃も、先生によっては本来の授業から脱線することがままありましたが、私はそんなときに先生が話してくれることをおもしろがって聞いていました。そんな記憶が甦るひとときでした。

 このような展開になったのは、村山先生の教え子で今は大阪に住んでいるという方が、たまたまこの日の人間塾に参加されたことにあります。この方のざっくばらんな(歯に衣着せぬ?)質問が、引き金となりました。

 その方は久しぶりに村山先生に会ったということもあるのかもしれませんが、講演原稿を基に先生が話されたことと、学生時代に先生がおっしゃったこととを重ね合わせた質問をするなどして、場を活気づけてくださった感があります。

 今回いらした方にしろ、人間塾に参加している先生の教え子の方々にしろ、道教大の村山先生の哲学ゼミ出身の方は、教職に就いた方もいるようですが、必ずしもそうではない方もいて、個性的な人揃いでおもしろいものだと思いました。

                          *

 村山先生の講演原稿は、校長教頭先生方に当てたものとはいえ、先生の現在の教育に対する考えが凝縮された、私にとっても大変参考になる貴重なものだと感じました。
 その中から、特に記しておきたい部分を紹介させていただきます。

      「これからの教育に求められるものー校長教頭のリーダーシップに期待して」

 [1 不易と流行]より

 ここでは、《最近の教育に関する方針の変化はめまぐるしいが、時の政策の動きに対してどういうスタンスをとるかということが問われ、ここのところでどういう判断と見識を示すかが、現場のリーダーとしての資質が問われる最初の関門》だと述べられています。

 《問題は、そのなかで、教育の論理として「持続するもの」を、とくに学校のリーダーである校長教頭先生方がしっかりつかまえることだと思います》ということでした。

 【二編より】

《学問とは広き言葉にて、無形の学問もあり、有形の学問もあり。心学、神学、理学等は形なき学問なり。天文、地理、窮理、化学等は形ある学問なり。何(いず)れにても皆知識見聞の領分を広くして、物事の道理を弁(わきま)え、人たる者の職分を知ることなり。

 知識見聞を開くためには、或いは人の言を聞き、或いは自ら工夫を運(めぐ)らし、或いは書物をも読まざるべからず。故に学問には文字を知ること必用なれども、古来世の人の思う如く、ただ文字を読むのみをもって学問とするは大なる心得違いなり。

 文字は学問をするための道具にて、たとえば家を建つるに槌鋸の入用なるが如し》

●ここでも、「文字は学問をするための道具」であると言っています。この、「道具(ツール)」という考え方は大事だと私も思っています。


 【ちょっと横道に逸れますがー】
 
●たとえば、教科書は道具であって、それを教えるだけでは教育ではなく、それで何を伝えるかを考えて、初めて教育になるのではないかと私は思います。

 私の教室で言えば、教材は道具であって、それにより何を伝えるかが大事になってきます。単に教材をやらせて問題ができるようになるだけでは、それぞれの子の持っている可能性の半分も引き出されないのではないでしょうか。

 指導者が何を伝えたいと考え、また、その教材がどこまでそのための道具になりうるか、というところが大事だと思います。

 そういった意味で、教材は単に道具に過ぎません。でも、だからこそ、どれだけのことを伝えられる教材かという意味では、とても大切な道具です。

 らくだ教材は、「やったことがないこと(できないこと)に挑戦する力を身につける」ことをコンセプトに作られています。つまり、生きるということは初めて体験することの繰り返しであり、それに挑戦し、すぐできなくてもその壁を乗り越える努力を続けることこそが大事である、ということを伝えたいのです。

 だからこそ、これに惹かれ、自分の子どもにぜひやらせたいと思ったのが開塾するきっかけでした。


《数年の辛苦を嘗め数百の執行金(しゅぎょうきん)を費やして洋学は成業したれども、なおも一個私立の活計をなし得ざる者は、時勢の学問に疎き人なり。これらの人物は、ただこれを文字の問屋と言うべきのみ。その功能は飯を喰う字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨ぐる食客と言うて可なり。

 故に世帯も学問なり、帳合も学問なり、時勢を察するもまた学問なり。何ぞ必ずしも和漢洋の書を読むのみをもって学問と言うの理あらんや。この書の表題は、学問のすゝめと名づけたれども、決して字を読むことのみを勧むるに非ず》

●「飯を喰う字引」というのは、知識が身になっていないということだそうです。「文字の問屋」というのも、辛辣な言い方ですね。


 【人は同等なること】より

《初編の首(はじめ)に、人は万人皆同じ位にて生れながら上下の別なく自由自在云々とあり。今この義を拡(おしひろ)めて言わん。人の生るるは天の然らしむるところにて人力に非ず。この人々互いに相敬愛し共に与に天地の間の造物なればなり。たとえば一家の内にて兄弟相互に睦しくするは、もと同一家の兄弟にして共に一父一母を与にするの大倫あればなり。
 故に今、人と人との釣合を問えばこれを同等と言わざるを得ず。但しその同等とは有様の等しきを言うに非ず、権利通義の等しきを言うなり》

《その権利通義とは、人々その命を重んじ、その身代所持の物を守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心との働きを与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛けを設けたるものなれば、何らの事あるも人力をもってこれを害すべからず。大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり》

●人は同等だけれども、「有様」と「権利」とは違うーとのことで、村山先生は解説をしてくださいましたが、私にとってはなかなかに難しく、しっくりと腑に落ちません。今後の学びの中でわかってくることでしょうかー。
 

 教育人間塾も7回目となり、福澤の教育に対する姿勢や考え方をある程度学んだ上で、今回から『学問のすゝめ』の最初に戻り、初編と二編を進めていかれました。
 今回は特に、村山先生の講義についていくのにせいいっぱいで、自分なりの報告を書くのも、どうしたものやらという感じですが、とにかく自分が感じたことだけでも記しておきたいと思います。


《天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり》

●初編の冒頭の部分です。ここは福澤が、「人間の理想・理念を語っている」部分であるということです。


《諺にいわく、天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなりと。されば前にも言える通り、人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり》

●後半部分は、福澤的な誇張した表現ですね。


《学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず》

《されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し》

《学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれ付きは、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり》

●福澤の「実学」志向がうかがえます。単に字を知っていてもダメで、実際の生活や仕事に役立てられなければいけない、とのことです。
 またそれとともに、「分限を知ること」、「自由と我儘との界(さかい)」については、「他人の妨げ」ということですから、なるほどです。


《理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり》

●ここは、福澤が「欧米崇拝」ではないことを端的に表している文章だということです。


《凡そ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず。智恵なきの極は恥を知らざるに至り、己が無智をもって貧究に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずして妄(みだり)に傍の富める人を怨み、甚だしきは徒党を結び強訴一気などとて乱妨に及ぶことあり》

●福澤は、人民の抵抗権については否定しているのだそうです。静かに非を訴え(非暴力)、それでもダメなら「自己犠牲」を唱えているとのことです。


《かかる愚民を支配するには、とても道理をもった諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏すのみ。西洋の諺に愚民の上に苛(から)き政府ありとはこの事なり》

●だからこそ、そのために「学ぶ」ということです。

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