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以前紹介しました、内田樹さんの最新刊(たぶん)の内容から、気になる部分を抜粋して、私の思うところも記してみたいと思います。今後しばらく(たぶん断続的に)続くと思います。それほど、気になる部分がいっぱいでしたのでー。
【不意にやる気がなくなったー創造的労働者の悲哀】
《能力があるかどうかは本人が判断するのではなく、ふつうはまわりの人間が判断するからであり、たいていの場合、外部の能力評価の方が自己評価よりも客観性が高いのである。
第一、芸術創造よりも、労働の方がずっと達成度についての判定は「甘い」。
芸術の場合は、どれほど高度の技術や熟練や努力の成果であったとしても、作られた作品が「他人と同じもの」であったら、まったく「無価値」と判定される。
でも、労働の場合は「他人と同じこと」をしても、それが客観的に有用なものを生み出している限り、等しく高い評価を得ることができる。麻雀の用語を用いていうならば、芸術は「アタマハネ」であるが、労働は「ダブロンあり」なのである。
労働は達成感を容易に得ることができる。
芸術はそれに比してはるかに要求が苛烈である。
にもかかわらず、まことに不思議なことに、今の若い人々は労働を「義務」だと考えることを忌避し、それがまるで自ら進んで自己実現にために行う「創造」でなければならないと信じ込んでいるのである。
そうであれば、仕事をすることがご本人にとってきわめて堪え難い苦役であることはよく理解できる。
「義務」を果たしている人に周囲は優しい(いやなことに耐えているわけだから)。だが、「創造」に苦悩している人に周囲は冷たい(頼まれてもいないことに血道を上げているわけだから)。
久しく労働は(主観的には楽しくても、制度的には)義務であり苦役であった。
しかし今、労働は創造となった。
そのせいで仕事をする人々はその定義上、仕事を通じて絶えず自己実現の愉悦と満足にうちふるえていなければならなくなった。
苛酷な条件である。
絶えず創造し続け、絶えず快楽にうちふるえていなければならないという重圧に耐えかねた創造的労働者たちの中から「自分らしい作品ができないくらいなら…」と沈黙と無為の道を選ぶようになる者が出てきても怪しむに足りない。
ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路だと私は考えている。
東大生たちはおそらく「創造的労働者であること」、「余人を以て代え難い唯一無二の労働者であること」に非東大生より強い動機づけをなされている可能性が高い。だとすれば、彼ら自身が不安に思っているように、遠からず東大卒がニートやフリーターになる可能性は予測される30%に限りなく接近することになるだろう。
●「労働は達成感を容易に得ることができる。芸術はそれに比してはるかに要求が苛烈である」…そうだろうなぁ。芸術の道は厳しく、そう易々と自らの職業にしようと考えるものではないでしょう。
あるいは、まったくそんなこと考える暇もなく、「気がついたらなっていた」という人もいるのかな。
「ニートやフリーターはこの『創造的労働者』の末路」という言葉、重いなぁ。私自身の若い頃にも、思い当たるような節があるから、なおさらー。
でも、どんな職業でも、自らそれが「芸術」だと意識すれば、それは芸術になるような気がしないでもない…。
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