さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

内田樹

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《繰り返し言うが、「呪い」は現代においても有効である。現に、「死ね」というネットへの書き込みを読んで、自殺に追いやられている人がほとんど毎日のようにいる。

もし、「死ね」という言葉に撃たれて人が傷つき、生きる意欲を失い、病み衰え、ついには死を選ぶことがあるとしたら、このような破壊的な現実変成力をもつ言葉を指し示すのに「呪い」以上に適切な言葉があるだろうか。

ネット上の匿名の個人攻撃で自殺に追いやられている人たちはまさしく「呪殺」されているのである。その数はおそらく年間数千人に達しているであろう。だとすれば、現代は陰陽師たちが活躍していた平安時代よりも「呪い」がはるかに実効的に機能している時代だと言わなければならない。

「科学的な」人々がそのようなシアトリカルな言葉を嫌うのはしかたがない。けれども、その語を拒むなら、「呪い」に代わる別の術語を提案する必要がある。だが、私はまだそれに代わる「科学的」術語の提言されたことを知らない。

「呪い」をどうやって鎮めるか、どうやって無害化するかについては、人類学的な蓄積がある。けれども、「当世に『呪い』などという怪しげなものは存在しない」と言い切ってしまうと、もう私たちには「呪い」に対抗して講ずることのできる手立てがなくなる。》

《もっとも効果的なことは、「あなたがしていることは呪詛である」ということを本人に知らしめることである。というのは、ほとんどの場合、呪いをかけている当人はそのことに気づいていないからである。

 現在、呪いの言葉を吐き散らしている人々は、そのことを「言論の自由」の行使であり、「政治的に正しい」行為の実践であるとみなしている。彼らは「言論の自由」の大義によって自分は守られるべきだと考えている。この「大義に守られている」という確信が、自分がしていることが「忌まわしい行為」であるという自覚にたどりつくことを構造的に妨げている。

 私は「呪い」の効力を解除するためには、それは「言論の自由」によって守られるべきものではない、ということについての社会的合意を形成することが必要であると思っている。それについて書いてみたいと思う(長いマクラであった)。》


●「呪い」なんて、ずいぶんと昔の、それもオカルト的な言葉だと感じながら読みましたが、読み進めていくにつれて、内田さんのいう《「呪い」以上に適切な言葉があるだろうか》という言葉が重く響いてきました。
《平安時代よりも「呪い」がはるかに実効的に機能している時代》だとは…。

 【本物と偽物を見分ける能力をつけましょう】より

《内田:知的探求を行っている自分自身の知のありようについて、上から鳥瞰できることが「教養がある」ということではないかと僕は思うんです。自分の置かれている文脈を見る。なぜ自分はこのことを知らずにきたのか、なぜ知ることを拒んできたのかという、自分の無知の構造に目を向けた瞬間に教養が起動するんだと思います。

 鷲田:自分がわかっていないことがわかるということが一番賢いんです。それが次につながる。その逆を行ってる典型が、国の教育や医療などの審議会の答申。現実にできそうにないことをずらっと並べているのが目につくけどまったく無意味ですね。何ができて、何ができないかすら明確でない。》


《鷲田:日本人が幼児化を始めたターニング・ポイントっていつだったんでしょうね。

 内田:1970年代からじゃないですか。日本が豊かで安全になったので、大人がいなくても、子どもたちでも回せるシステムができた。その結果、成熟する必要がなくなってしまった。成熟って、生き延びる知恵だから、危機的な状況がなくなれば必要ないといえばないんです。だから、ある意味では「いいこと」なんです。それだけ安全で堅牢な社会を作り上げたということなんですから。》


●「自分がわかっていないこと」なんて山ほどあるでしょう。
 聖人君子じゃないんだから、それは当たり前。だからそれを恥ずかしいと感じることはないけれど、そこで謙虚に「わかりたい」と思って行動するかどうかが、大事なのではないかと思います。

 私は北海道で生まれ育って19歳で北海道を離れましたが、北海道在住時にはアイヌの方々が置かれている立場や歴史などを全く知りませんでした。

 東京暮らしの最中にあるワークショップに参加した際、たまたま手にした当時中学生の書いた作文を目にして愕然としました。

 そこには、「あ、イヌ、あ、イヌといじめられてばかりで嫌だ。中学を卒業したら自分は絶対この土地を出ていく」というようなことが書かれてあったのです。それは今からさかのぼっても、20年程前にあったことです。

 自分がアイヌだというただそれだけで、このような悲しい思いをしている子どもが今の時代にも厳然としているのだということと、なぜ自分はずっと北海道に暮らしながらこのことを知らなかったのか、あるいは知らされてこなかったのか、という思いで愕然となったことを覚えています。そしてそれを知ったのは、北海道を出てからなのです。出たからこそ、なのかもしれません。

 それ以来私は、東京や首都圏在住のアイヌの方々と触れ合うことができる場に赴いたり、本を読んだり音楽を聴いたりして、アイヌの方々のことを少しでも知ることができるように努めてきました。

 こんなことは一つの例で、他にもこれに類することはいっぱいあります。
 私が本をたくさん読みたいと思うのは、自分の知らなかったことを知りたいという根源的な欲求があるからなのでしょうね。

 【「妥協しない生き方」の落とし穴】より

《鷲田:一方でクレーマーがいれば、他方で自己責任で責める人がいるけれど、これも同じようなものでしょう。自己責任とか自立とかいう言葉が出てきてから、なんか居心地が悪いなあと感じています(笑)。

そんなに自立できる人なんているはずがないじゃないですか。集団生活ってインターディペンデント(相互依存的)にしかあり得ないんです。

自立しているというのは決してインディペンデント(独立的)なのではない。インターディペンデントな仕組みをどう運用できるか、その作法を身につけることが本当の意味で自立なんじゃないかな。

 内田:相互依存ということをネガティヴな意味でとらえてますね。このあいだ、若い人に「折り合いをつけることの大切さ」を説いていたら、「それは妥協ということでしょう」と言われた。妥協したくないんだそうです。「妥協」と「和解」は違うよと言ったんですけれど、意味がわからないらしい。「交渉する」ということがいけないことだと思っている人がたくさんいますね。

 内田:学生の就職活動の様子を見ていても、世の中には自分だけにしかできない「唯一無二の」適職がどこかにある、という幻想を刷り込まれていますね。これは恋愛幻想と同じ構造になっている。

仕事をする前に自分の適性や適職なんかわかるはずないのに、そういうものがあらかじめ自分の中に初期設定で組み込まれていると思っている。だから、就職してすぐに「これが果たして私の天職なのだろうか」と悩んだ末に辞めてしまう。

飽きっぽいんじゃなくて、純粋なんです。唯一無二のオリジナルな人間として自分だけにしかできない人生を生きなければならないと信じ込まされているから。だから、何かを始める前に、「本当の自分らしさって何だろう?」と自問したままその場に凍りついている。

でも、個性というのは、まさにインターディペンデントな関係の中で、その人が何らかの役割や業績を果たしたときに、「あなたはこういう能力があり、こういうことに適性があった」ということを周囲から承認されるというかたちで知るわけですよね。

個性というのは自分で名乗るものではなくて、他者から与えられるものでしょう。そういうことがわからないらしい。》


●「唯一無二のオリジナルな人間として自分だけにしかできない人生を生きなければならない」

・・・実は私もず〜っとそう思っていました。だから、30歳過ぎまで東京でアルバイト暮らしをしていたのでしょうね。今になって当時の自分を客観的に見ることができる感じです。まさに「純粋」だった…。

 その後、「父親の介護」が避けて通れない状況になり、「出会い」によって「結婚」をし、「子ども」を授かった結果、「見えないものが見えてきた」という実感があります。

 人生、いわゆる「普通に」生きてきたって、誰一人同じ人生はない。何もしていなくたって、困難はどんどんやってくるし、予想していないことが起きてくる。

 そんなことがわかっていれば、「個性的に」なんて無理しなくたっていい、する必要がない。実はみんながそもそも「個性的」なんだから。

 ただただそれぞれの道を歩んでいれば、それでいい。そのことに気づくには、時間がかかる。だから気づくまで、たんたんと、歩んでいればいい・・・。

 待望の?内田樹さんの新著が手に入りました。最近内田さんは本をたくさん出していますが、図書館はすぐ購入するとは限らず、また購入されても即「予約」する方が結構いらっしゃって(私と同じように待ち望んでいる?)、なかなか歯がゆい日々を送ることになります‥。

 内田さんのブログも私は定期的に拝見しており、そちらも読み応え十分です。最近は、麻生内閣「後」を予想された文章を書いており、はたしてそのようにコトが進むのかどうか、私は興味津々です。

●今回の本は、大阪大学総長の鷲田清一さんとの共著です。
 本の帯には、「いつまでも若くいたいと思うのは勝手だけど、いつまでも子どもでいたいというのはムシがよすぎませんか?」とありました。
 以下、気に留めた部分を抜粋させていただきます。


 [1章 対談「大人学」のすすめ]から
 【クレーマー天国 「失われた責任者を求めて」】より

《内田:消費によってしか自己表現ができないと信じているからこういうメンタリティーが生まれるんです。それが学ばない子どもたちや労働しない若者たちを生みだしている。彼らはあらゆるものを「商品」としてとらえようとしますから、消費者が陳列棚の前で商品を選ぶように、あらゆるものについて費用対効果を吟味する。

 でも、このマインドは「学び」を動機づけることができない。「学び」というのは、自分がこれから学ぶものの意味や価値がまだわからない。だから「学び」を通じて、自分が学んだことの意味と価値を事後的に知る、という時間の順逆が逆転したかたちの営みだからです。消費者マインドにはこれが理解できない。自分がこれから買おうとする商品の価値や有用性を知らないで商品を買う消費者というのは存在しませんから。》


●《「学び」というのは、自分がこれから学ぶものの意味や価値がまだわからない》とありました。
 内田さんは数多ある著書の中で、繰り返しこのことを伝えているように思います。このことがいかに重要か、ということでしょう。

 私もそう思います。学ぶものの意味や価値が易々とわかるとしたら、その学びは大したことがないものでしょう。なかなかわからないからこそおもしろいし、やりがいがある、そのようなものが真の学びであるし、大概それは一生かかって学びつづけるものになるのではないでしょうか。

 らくだ教材は、説明や例題などほとんど省かれ、「とにかく自分でやる」ことから始まります。
 学習であることはもちろんですが、学習というよりも、「毎日の修練」に近いものです。
 意味は後回しで「やる」ことに重きを置いています。その意味や価値は後からわかってくるという点において、内田さんの提唱する学びに近いものだと私は感じています。

 「これをやれば必ず○○高校合格のレベルに到達する」という類いのものは、結局そこに到達するだけのものでしかないでしょう。そんな狭い視野ではなく、もっと先を見通した素養ー蓄積された学力と自分で学び続ける力ーがあれば、人生を切り拓いて行く力に通じると私は信じています。

《キャッチボールはひとりではできない。私が投げる球を受け取った相手のグローブの発する「ぱしっ」という小気味良い音と、相手が投げる球を捕球したときの手のひらの満足げな痺れのうちに、私たちは自分がそのつど相手の存在を要請し、同時に相手によって存在することを要請されていることを知る。

 あなたなしでは私はこのゲームを続けることができない。キャッチボールをしている二人は際限なくそのようなメッセージをやりとりしているのである。このとき、ボールとともに行き来しているのは、「I cannot live without you」という言葉なのである。
 これが根源的な意味での「贈与」である。

 私たちはそのようにして他者の存在を祝福し、同時に自分の存在の保証者に出会う。
「私はここにいてもよいのだ。なぜなら、私の存在を必要としている人が現に目の前にいるからである」という論理形式で交換は人間の人間的尊厳を基礎づける。交換の本義はそのような相互的な「存在の根拠づけ」に存するのであり、交換される商品や財貨といった「コンテンツ」には副次的な意味しかない。

 ひとりでできることを二人がかりでやる。それによって「あなたなしでは私はこのことを完遂できない」というメッセージを相互に贈り合うこと。それがもっとも純粋な交換のかたちである。

 I cannot live without you
 これは私たちが発することのできるもっとも純度の高い愛の言葉である。
 私はこの you の数をどれだけ増やすことができるか、それが共同的に生きる人間の社会的成熟の指標であると思っている。

 幼児にとってこの you はとりあえず母親ひとりである。子どもがだんだん成熟するに従って、you の数は増えてゆく。

 たぶん、ほとんどの人は逆に考えていると思うけれど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである。

 どうして「その人なしでは生きてゆけない人」が増えることが生存確率を向上させるのか、むしろ話は逆ではないのかと疑問に思われる向きもおられるであろう。「誰にも頼らなくても、ひとりで生きてゆける」能力の開発の方が生き延びる確率を高めるのではないか。経済合理性を信じる人ならそのように考えるだろう。

 だが、それは短見である。
 「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は「私」の無能や欠乏についての事実人知的言明ではない。そうではなくて、「だからこそ、あなたにはこれからもずっと元気でいて欲しい」という、「あなた」の健康と幸福を願う予祝の言葉なのである。

 自分のまわりにその健康と幸福を願わずにいられない多くの人々を有している人は、そうでない人よりも健康と幸福に恵まれる可能性が高い。それは、「キャッチボールの例から知れるように)祝福とは本質的に相互的なものだからである。

 自分の懐で安らいでいる赤ちゃんの訴えるようなまなざしのうちに「あなたがいなければ私は生きてゆけない」というメッセージを読む母親は、必ずそれに「私もまた、あなたなしでは生きてゆくことができない」というメッセージで応じることになる。というのは、“あるメッセージを正しく受信したことを相手に伝える最良の方法は同じメッセージを送り返すことだからである”。

 私が現に「その人」がいないと直接生活に支障をきたすような多くの人に取り囲まれて生きている。
 その数はどうやら年々増えているようである。
 だが、私はそれを少しも「困ったこと」だとは思っていない。その理路は上記の如くである。

●自分の心にあって、でも、自分ではなかなか言葉にできないでいたようなことを表現してくれたーこのような文章に出会うのが、読書の一番の醍醐味ではないかと感じるこの頃です。
 
“「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである”ーここまで言い切った人が他にいただろうか?座右に置いておきたいような言葉です。

                 以上、『ひとりでは生きられないのも芸のうち』を読んでー終わり

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