さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

内田樹

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  【あなたなしでは生きてゆけない】

《ひとりひとりおのれの得手については、人の分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意な人にやってもらう。
 この相互扶助こそが共同体の基礎となるべきだと私は思っている。

 自己責任・自己決定という自立主義的生活態度を私は少しもよいものだと思っていない。自分で金を稼ぎ、自分でご飯を作り、自分で縫い物をし、自分でPCの配線をし、自分でバイクを修理し、部屋にこもって自分ひとりで遊んで、誰にも依存せず、誰にも依存されないで生きているような人間を「自立した人間」と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱりわからない。

 それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。
 私は自分で生活費を稼いでいるし、身の回りのことはだいたいひとりでできるけれど、そんなことを少しもよいことだと思っていない。

 できることなら私の代わりに誰かがお金を稼いでくれて、ご飯も作ってくれるし、洗濯もアイロンかけも、ゴミ出しもトイレ掃除も全部してくれる状態が来ればいいなと思っている。だって、そうすれば、私は誰かに代わってお金を稼いだり、ご飯を作ったり、洗濯をしたり、アイロンかけをしたり、ゴミ出しやトイレ掃除をすることができるからである。

 自分がしなければいけないことを誰かがしてくれれば、そうやって浮いたリソースで他人のしなければいけないことを私が代わりにやってあげることができる。
 それがレヴィナスの言う pour l'autre (他者のために/他者の身代わりとして) ということの原基的な形態だと思う。
 それが「交換」であり、それが人性の自然なのだと私は思う。

 ひとりでできることをどうして二人がかりでやらなければならないのか、理解できない人がいるかもしれない。その人はたぶん「交換」というものがどのように構造化されているのか、その人類学的な根本事実を理解し損ねている》

●内田節炸裂、というか、今の世間の常識的考えに真っ向からぶつかるような考え方ですね。確か日垣隆さんも同じようなことを言ってました。私が「教育人間塾」で学んでいる福澤諭吉の根本にある考え「一身独立」と「交際」の論に通じるものでもあると思います。

 「自立している」のではなく、「孤立している」という言葉が当たっている人が多いことでしょう。
 どうあがいたって、物価は上昇する一方で賃金は下がる一方のこの世の中、楽に楽しく暮らしていくために今までの考えをシフトしていきましょうよ、みなさん・・・と、私は呼びかけたくなります。

 「ひとりでできることをどうして二人がかりでやらなければならないのか」という点で、私は西アフリカのタイコ、ジンベのことを思い浮かべます。このタイコは、それぞれがシンプルなリズムを叩き続けるのですが、それが重なり合ってアンサンブルになったときに、ジンベ本来のパワーとうねりが生み出されます。でもドラムの達人であれば、一人でそれをやってしまうことだってできるのです。

 達人の演奏はすばらしい、でも、未熟であっても同じ志を持った仲間で一つのリズムを作りだしたとしたら、どちらの方がより大きな感動をその場にもたらすことができるのかーそれは体験したものでなければわからないのですが、想像はできることと思います。

  【健康って何?】

《経験的に言って、健康法を律儀に実践している人間は必ずしも機嫌のよい人ではない。というか非常にしばしば彼らは不機嫌な人である。

 理由は簡単。
「世間の人々が自分と同じように健康によいとわかっている生き方を採用しないこと」がどうしてもうまく受け容れられないからである。

 どうして、「あいつら」は平気で命を縮めるような生き方をしていられるのか。
 その理由として、彼らは「世間のおおかたの人間は途方もなく愚鈍であるから」という説明しか思いつかない(それが彼らの教化的情熱にエネルギーを備給している)。

 これはたしかに一面では真実を言い当てている。
 だが、「世間のおおかたの人間は途方もなく愚鈍であり、私は例外的に賢明な少数のうちのひとりである」というマインドセットは人間をあまり社交的にはしない》

●ここでも内田さんの考え方には学ばせられますー。なるほど、そうです、私もそうでしたーと納得させられるしかありません。「律儀に実践」というのは、なにごとにおいても、気をつけないと自分の殻に閉じこもってしまうことになりそうです。
 
《『野生の思考』の冒頭でレヴィ=ストロースが列挙しているとおり、その治療効果についての社会的合意がある限り、どんな療法も(虫歯が痛むときはキツツキの嘴を触る…というようなものでも)顕著な効果をもたらす。
 人間はそれほどまでに社会的な生物なのである。

 ヘーゲルが言うとおり、人間は社会的承認を受けてはじめて人間になる。
 だから、あなたが生きる上でもっともたいせつなのは「隣人があなたに向ける笑顔」なのである。
 あなた自身を愛するように隣人を愛しなさいというのはそういうことである。

 あなたが隣人を愛することによって隣人は生きながらえており、隣人があなたを愛してくれるおかげで、あなたはかろうじて生きることができる。
 人間は自分が欲するものを他人から与えられることでしか手に入れることができないのである》

●「人間は自分が欲するものを他人から与えられることでしか手に入れることができないのである」・・・う〜ん、このことが腑に落ちて生きることができたら、人生スッキリと生きられるのではないかなぁ。それにしても深くまた味わい深い文章だー。

《お金を使うときに、使うところを見せない。どうもそれが貨幣の扱いについての成人の条件だったようである。その点で、お金の話はセックスの話に近いように思う。どちらも「大人」しかアクセスすることが許されない。どちらもその手際のよい扱い方に習熟しなければならないのだが、扱っているところを他人には見せてはならない。子どもにはそんな技術はない。だから、お金と異性は子どもには触れさせない、というのが近代前期までの常識であったように思う。

 それがどこかで常識ではなくなった。。
 それは「成熟」ということに人々があまり思い意味を与えなくなった時期と一致している。そのときに、セックスとか金から子どもを防疫的に隔離していた人類学的な障壁も消失した。

 不浄というのは、別にそれで病気になるとか、そういうことではない。
 子どもの時に金/セックスに触れてしまった子どもは、おそらく成熟を妨げられる。その子どもたちを成熟にいざなう「推力」の減殺をして「エネルギーの枯渇」すなわち「ケガレ(気枯れ)」とみなしたのではないか。

 というのは、「成熟する」というのは「金やセックスに触れてもよい人間になること」をはるかな達成目標に掲げてさまざまなイニシエーションの条件を一つ一つクリアーしてゆくことだからである。

 子どもなのに金やセックスにアクセスできるということになると、子どもは成熟のモチベーションそのものを損なわれる。だから、子どもを対象とする性行為も、子どもを主体とする性行為も、どちらもきびしい人類学的禁忌が課せられている。

 セックスについては、子どものアクセス禁止はまだ(部分的には解除されつつあるが)有効である。だが、金との接触に対する禁忌はもはやほとんど無効になった。

 子どもがお金に触れること、子どもがお金の話をすることに顔色を変えて叱責するような親はもういない。それは言い方を換えれば、とりあえずお金については「成熟なんかしなくてもいい」ということについての社会的合意が成立したからである。成熟なんかしなくてもお金を使うことはできる。「お金の使い方を知っている」ということは成人要件からは外されたのである。

 むかしはお金の扱い方を覚えるまでには、長い修業が必要であった。少なくとも「長い修業が必要である」ということについての社会的合意が存在した。
 今はそうではない。小学生に金融商品のシステムを教え、中学生にお年玉での株の売買を勧める親がいる。

 けれども、子どもがお金を扱えるほどに成熟しているという判断にも、子どもでも扱えるほどにお金は衛生的なものになったのだという判断にも、私は与しない。子どもは依然として子どものままであるし、お金の持つ(子どもの成熟を損なうという意味での)不浄性も変わらない。

 変わったのは、「人々が幼児的であればあるほどそのことから多くの利益を得られる」と思っている人間の頭数である。子どもが成熟することよりもむしろ未熟のままでいることからより多くの利益を得られると信じている人間の数がどこかで限界を超えたということである。

 だが、子どもたちが「穢れる」ことで社会に利益をもたらすということは、人類学的にはありえない。「穢れた」子どもたち、成熟のための推力を失った子どもたちはやがて私たちの社会の「もっとも弱い環」となり、私たちの社会はそこから壊れてゆくことになるだろう。

 けれども、それは当の子どもたちの罪ではない。彼らを成熟させることより、目先の利益を選んだ人々の罪である》

●とってもとっても大事なことを言っている、そう感じる文章です。

 「そうか、そうだったんだ」と私は納得させられました。「子どもが成熟することよりもむしろ未熟のままでいることからより多くの利益を得られると信じている人間の数がどこかで限界を超えた」、ということは、なりふり構わずの金もうけ主義が跋扈した結果と考えれば、今の世の中を覆っているさまざまな事象の説明がつきそうです。

 「子どもにとっての禁忌」を改めて考え直す親が増えていってほしい、でももう減っていく一方なのだろうー。昔から言い伝えられてきたことには、やはり「人間にとって大切な何か」が詰まっているものなのだろうに。

 「目先の利益」によりそれらが失われていっている今の世の中、どう対処していったらいいものなのかー。大きく考えると目がくらみそうです。やはり小さなところ、自分の身の回りから変えていくことからしか始まらない・・・。

 私は、「子ども時代を子どもとしてしっかり過ごす」ことが、その後の人生の幸せにつながるーと、信じています。今は、「子ども時代」がどんどん短くなってしまっています。せめて自分の子どもたちには、子ども時代をしっかり保障してあげたい…ですが、親がそうしたいと考えても、周り(マスコミや電子機器の発達も含めて)が放っておかない、そんな難しい、そして哀しい時代になってしまっています。

  【「個食」のしあわせ】

《「個食」というような特権的な食物摂取が可能であった社会はこれまで存在したことがない。そして、そのような特権がいつまで継続するのか私たちにはわからない。

 だったら、とりあえずひとりでまずい飯を食うことができ、家族がたがいを不快に思っていても、それでも生存が可能な社会を「人類史上例外的な幸運」として笑顔で豊かに享受する方向に気持ちを切り替えたほうがよいであろう。
 たぶんそうした方がご飯も美味しいし》

●「最近、家族いっしょに食卓を囲む家庭が減って来ているのは確かだけど、‘食事は家族でとらなければいけない’と国が先頭を切って言い出すようになったら注意した方がいい」と言うようなことを言っている方がいました。

 私自身、「食卓を家族みんなで囲むのは家庭生活の基本」だと思っていますし、それがある程度できる生活スタイルでいられるのがありがたいと思っています。

 でも、今の時代そうしたくてもできない家庭だってあることでしょう。それができるにこしたことはない、でもできないんだったら仕方のないことですから、それに関して周りから強制されるように言われる筋合いのことではないでしょう。

 そんなことを思っていたら、内田さんの上記の言葉に出会って、「なるほど、考え方をシフトすることって大事だな」と思ったしだいです。

  【食の禁忌について】

《「牧畜と屠畜と食肉」についてはご存知の通りたいへんきびしい禁忌がある。この禁忌は世界各国さまざまな意匠をまとっているが、本質的には同一のものではないかと私は考えている。
 それは「生き物の肉を食う」という行為そのものがはらむ魅惑と嫌悪のアンビバレントな本質におそらくは由来する》
 
《Y野家の牛丼は米国産牛肉の輸入停止でメニューから消えた。
 あれだけ需要のある商品でありながら国産牛肉やオージービーフで代用ができないということから、それがたいへんに低価格の材料から作られていたことは容易に想像される。この低コストの背景には歴史的に形成されてきたアメリカの巨大食肉産業の収奪構造がある。

 アメリカの食肉産業は五大業者が支配している。牧畜、屠畜、食肉処理、ロジスティックから小売りまでが、完全にコントロールされているのであろうことから、このようなところでお話しするわけにはゆかない。

 それに、こんな話は日本だからできるので、アメリカでは触れることの危険な話題難おである。
「肉の話」は奥が深い。

 日本では屠畜は被差別部落問題と深くリンクしているので、メディアはこの問題はできるだけ回避しようとする。先年のハンナンのような食肉をめぐる組織的な犯罪が摘発されても、メディアは行政や政治家たちも巻き込んだその構造の解明には消極的である。

 それはPC(ポリティカル・コネクトネス)的な立場からの政治的糾弾におびえているだけではない。
 ジャーナリスト自身も気づいていない無意識的な禁忌が作用しているのではないかと私は思う。

 この問題にはなるべく触れないほうがいい。
 みんながなんとなくそう思っているのである。

 そして、この「触れずに済むものには、触れないほうがいい」というのは小市民的な自己防衛ではなく、もっと人類史的に奥の深いものではないかと私は思うのである。
 何でも白日の下にあきらかにすればよいというものではない。世の中には、そっと触れずにおいておくほうがよいものもある。
 長く生きてくるとそういうことがだんだんわかってくる》

《肉と屠畜の問題は世界史の中のどこでも、濃密な政治的=宗教的幻想を帯電している。
 イスラム教徒やヒンドゥー教徒をはじめとして、多くの社会集団が食肉に関するなんらかの宗教的禁忌をいまも固く保持している。明治以降、そのような食肉についての禁忌を棄てたはずの私たち日本人の場合でも、それは変わらない。

 牧場でのんびり草を食べる家畜の姿に私たちは何の不快も感じない。
 パックされた食肉を食べる場面にも何の不快も感じない。
 だが、このどちらかといえば「愉快」な二つの風景を架橋するプロセスは私たちの視界から厳重に隔離されている》

《今のところ地上でもっとも大量の家畜を殺し、それを食しているのはアメリカ人たちである。だとすれば、彼らは人間が犯したその罪をつぐなうために、「罪深い人間」たちを探し出して殺すことに世界でもっとも熱心な人々でなければならない。
 現に、私の眼には、たしかにそのように見えるのである。

 私たちが「人間が動物を殺す場面」から必死で目をそらそうとするのは、おそらくその経験が、「その罪を相殺したければ人間を殺して食わねばならぬ」という受け容れがたい結論に私たちを導くからである》

●「肉」に関する一連の話、「禁忌」と言われればなおさら知りたくなるものですがー。
 前回紹介した、「西へ向かって、自然を破壊せよ」も私にとって衝撃的でしたが、この文章もそれと同じくらい私にはインパクトがありました。まだまだ知らないことはいっぱいあるし、知らないことを知るというのは「快楽」があります。「知らないことを知りたい」というのは、人間が本質的に持っているものの一つなのでしょう。

《ご本人たちは気づいていないようだが、求職者が「やりがいのある仕事」として「モジュール化された仕事」を求めるほどに、彼らを雇う賃金は安くなるのである。
 このシステムを雇用者たちは最大限に活用した。

「職能給への切り換え」や「独立事業部制」を求める若い人は今も多い。彼らはそうやって仕事を他者たちから分離し、誰からもあれこれ指図を受けない独立の労働圏を確立したら、「働く自由」が手に入ると思っている。

 だが、その代償に彼らは同じ立場の労働者と連帯する機会を失い、労働条件を切り下げ、労働のモチベーションそのものを損なっていることに気づいていない。
 彼らが手に入れたのが実は「過労死する自由」かもしれないということに気づいていない》

●子どもたちに「自由」の意味を考える機会を、学校でも作ってほしいー。
 家庭でももちろんそうなのですが、親の認識はまちまちなので、学校で考える時間を持つことが大事かな、とー。それも一方的に教えるのではなく、それぞれの子どもの考えを引き出す形でやっていくとおもしろい授業になるのはまちがいないはず。

【メディアのマナーについて】
《レヴィナス老師はかつて哲学の本務は「難問に回答することではなく、難問の下にアンダーラインを引くことである」と述べられたことがある》

●大切なのは、答えを発見することではなく、問い続けること、ということに通じるかー。

【配架の愉しみと語彙について】
《子どもの語彙の貧困は、その子どもの生活圏でゆきかう言語の貧困をそのまま映し出している。
 それは子ども自身の責任ではない。
 日本語が痩せているということがすべての問題の底流にある》

《勘違いしている人が多いが、「現代人は情感が乏しいので、情感を表す語彙が貧困になった」のではない。「情感を表す語彙が乏しくなったので、情感が乏しくなった」のである。
 ことの順逆が違う。
 言語の現実変成能力がどれほど強力なものか、それをほとんどの日本人は理解していない。

 とりわけ言語についての理解の遅れた人々が現代日本の「国語」を宰領している。
 私がメディアからの寄稿依頼を断り、それに倍する量の文字をブログに書き付けているのは、ここには「使用語彙の制限」がないからである》

●「言語の現実変成能力」という言葉は初めて聞きました。「情感を表す語彙が乏しくなったので、情感が乏しくなった」のだとしたら、読書の習慣をつけるというのはやはり大事なことですね。それが親にあるかどうかということにもなりますね。

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