さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

内田樹

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 一昨日に引き続いての、内田さんのブログからの引用です。ブログとしては‘手抜き’と言われてもしょうがないのですが、昨日のものとも関連しているので、紹介しておきたいと思いました。まだ内田さんのブログをご覧になっていない方は特に、ゆっくりとご覧になってみてくださいー。

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 寛也さんが来た

水曜日は鶴澤寛也さんの講演とワークショップ。
寛也さんは今年の4月のアートマネジメント副専攻のインターンシップの受け入れ先を矢内賢二さんに探してもらったときに、「渡りに船」というか「地獄で仏」というか、そういうタイミングでインターン生たちを受け容れてくださった方である。
当日、私は別の仕事があって、打ち上げの席に後から参加して、そのときはじめてお目にかかったのである。
江戸前の、まことに粋な方で、私は衝撃のあまりブログ日記に「玲瓏なる美女」と、ふだんあまり用いない形容詞を動員したほどであった。
そのときに、今度『考える人』のインタビューに出てくださいとお願いしたらご快諾いただき、『考える人』のときには、今度大学に来てワークショップしてくださいとお願いしたらご快諾いただき・・・というふうに「とんとん」と話がまとまってその日を迎えたのである。
ワークショップにはもう少し学生たちが集まってくれるとよかったのだけれど、集まってくれた諸君は寛也さんの切れ味のいいトークとダイナミックな奏楽にふかく感銘を受けていた。
キャリアデザインプログラムの一つのねらいは「キャンパスではまずお目にかかることのない職業の方」にお越しいただき、「働くこと」の拡がりと奥の深さを、その「たたずまい」を通じて感じてもらうことであった。
津田塾の数学科を出てから芸の道に入った寛也さんは学生たちにとってのつよい指南力をもったロールモデルとなりえるだろうと思う。
義太夫に限らない。「これだ」と思ったら、逡巡せずに一気に飛び込む。「これで生活できるだろうか」とか「世間体はどうであろうか」とか、そういうことは考えずに、一気に飛び込むというのがキャリア形成の基本である。
はじめから「堅実で有利な職業選択」をしようとするような賢しらがむしろピットフォールなのである。
直感を信じなきゃダメよ。
ワークショップにご協力いただきました教務課のみなさまはじめ学生院生諸君にお礼申し上げます。
寛也さんをそのあと並木屋へお連れして、ご一献差し上げる。
並木屋の大将が寛也さんを見て、お仕事は?と訊いて、女流義太夫と聴いて、深く頷いていた。私のような無粋な男がどうして粋筋の人を連れているのか理解に苦しんだせいであろう。
美女を前にして、大将の握り方もいつもよりもだいぶ気合が入っていたようである。
おかげで美味しいお寿司が食べられた。
お寿司を食べ、燗酒を酌み交わしつつ、橋本治さん、矢内賢二さんなど共通の友人知人について語り合う。
先週の大貫妙子さんのときもそうだったけれど、「ええ、あの人、知ってるの?」的発見が多い。見えざる糸によって、「ある種の人々」がある一点に引き寄せられているのかも知れない。

木曜日は福岡日帰りツァー。
福岡女学院高校で保護者と教職員、生徒諸君を相手に「ほんとうの教育とは」というお題でお話しをする。
福岡女学院高校はミッションスクールで、音楽の専攻があり、自由な校風が本学に通じるものがあって、居心地のよい学校であった。
そもそも私のような人間を呼んで、話を生徒に聴かせてしまうという決断が無謀というか剛胆である。
校長の高島一路先生(大変スマートな先生で、昔何度かお会いしたことのある戸井十月さんとあまりに似ているので、「もしかして、ご兄弟ですか」と訊きたくなるのを抑制するのに一苦労した)と教頭の水野光先生(この方が「無謀というよりは剛胆」な本企画の立案者のようである)と進路指導の藤義幸先生とご挨拶ののち教育の現状について意見交換しているうちに時間となって会場へ。
保護者のお母さんたちが多いので、ほっとする。
どういうわけか私の諧謔は女性聴衆にはわりと受けるのであるが、中高年男性は「くすり」ともしないということが多い。
会場からは「女性の笑い声」だけしか聞こえないということもよくある。
私の「おばさんキャラ」が彼女たちの共感を呼ぶのであろうか。
「おばさんキャラ」というのは、「歯に衣着せぬ」ことと「話にとりとめがない」ことである。
ゼミ生たちと話していて感じることは、彼女たちは「話に脈絡がないこと」をまったく苦にしないということである。
それよりも会話中のあるキーワードが「フック」して、そこから話が横滑りし始めるときの「逸脱感」のほうを愛するのである。
だから、「で、話をもとに戻すと」と言うと、ひそやかな落胆の色が彼女たちの眼には浮かぶのを私は見逃さぬのである。
私は根が「おばさん」なので、ひたすらおもいつき的おしゃべりを続けていたいのだが、講演では一応お題も頂いているし、保護者のお母様たちも果てしない逸脱を愛するわりには「で、今日の夜から、子どもたちにはどう接すればいいのでしょう」というきわめて短期的かつ実用的なアドバイスも同時に要求されるので、それにもお答えせねばならぬ。
教育の目的は子どもを成熟させることであり、成熟とは、「どうふるまっていいかについてのガイドラインがない状況にも対応できる能力」のことであるという「いつものお話し」をする。
それは対人関係においては「その人がなにを求めているのか」を言い当てることである。状況においては「その状況がどこからどこへ向かおうとしているのか」、文脈と趨勢を言い当てることである。
この能力を涵養するためには経験知を蓄積するだけでは足りない。
自分の経験にはおのずと限界があるからである。
他人の経験もまたおのれの経験知に取り込む必要がある。
自分の中には自生していない想念や感情、欲望や考想は「取り込む」必要がある。
「取り込む」というのは分類したり標本化したりすることではない。
それを内側から「生きる」ことである。
「感情移入」といってもいい。
物語を読むのも、他人の話を聴くのも、他人の人生を内側から生きるための好個の機会である。
「感情移入」という言い方をすると、私の「感情」だけが身体をするりと抜け出して、他人の身体に入り込み、その感情に同調する、というような風景を想像する人がいるかもしれないが、それは誤りである。
感情移入といったって、感情だけなんか取り出すことは人間にはできない。
あらゆる感情は身体経験を随伴している。
感情は眼に見えないし、手では触れられないが、身体経験の多くは眼で見えるし、手で触れることができる。
それゆえ「再演」することができる。
感情移入とはなによりもまず他人の内側で起きていることを身体的に再演することから始まる。
そこからしか始まらない。
場合によってはそこで終わる。
それでもよいと私は思っている。
書物を読むというのは理想的にはその書き手の思考や感情に同調することであるけれど、よほどの幸運に恵まれないかぎり、そんなことは起きない。
私たちにできるのは、文字を読むことと音声を聴くことだけである。
書き手の脳内に何が起きたのかを知ることはきわめて困難であるけれど、書き手がその文字を書き記していたリアルタイムにおいて書き手が「その文字」を視認し、「その音声」を聴取していたことはまちがいない。
その文字を見つめ、音を聴く限り、読み手と書き手は「同じ経験」を共有している。
「作者は何が言いたいのか?」というようなメタレベルに移行した瞬間に、「同じ経験」の場から私たちは離脱してしまう。
あらゆる感情移入はまず身体的体験の同調から始まるべきだと私は思う。
そのためには「理解する」や「解釈する」や「批判する」より先に「見る」と「聴く」にリソースを集中すべきだと私は思っている。
たいせつなのは外部からの入力を自分の脳内に回収して、分類し、整序してしまうより前に、手つかずの外部入力「そのもの」に、「生」の入力情報に、身体的に同調してみることだと思う。
そのようにして経験知をゆっくり積み増ししてゆくことが教育の基本だろうと私は思っている。
成熟するとは要するに「さまざまな価値や意味を考量できる多様なものさしを使いこなせる」ということである。
そのような「複数のものさしの使いこなし」は「単一のものさし」をあてがって万象を考量しようとする「オレ様」的態度とはついに無縁のものである。
子どもは最初一つの「ものさし」しか持っていない。
生理的に快か不快か、それだけである。
それ以外の「ものさし」はひとつずつ自作するしかない。
現実原則についてフロイトが言ったように、「短期的には生理的に不快であるが、少し長いスパンで考えると、安定的に高い快をもたらすもの」を考量できるようになると「次のものさし」が手に入る。
それを空間的・時間的に拡大してゆく。
そして、やがて「自分にとっては不快であるが、同時的に存在する多くの人々に安定的に高い快をもたらすもの」や「自分が死んだあとに未来の人々に安定的に高い快をもたらすもの」を「自分の快」に算入できるようになる。
それが「だいぶ大人になった」ということである。
教育は子どもたちの自己利益の拡大のための機会ではない。
それは子どもたちを成熟させるための機会なのである。
というような話をする(だいぶ違うけど)。
そのあと懇談会。
かなりシビアな話題が出る(引きこもりやクレーマー親などというリアルな問題)。
どの問題も対応策は「縮尺を変えて見る」ということに尽きるようである。
引きこもりやクレーマー親は「問題」であるというよりは、むしろ別の問題の「ソリューション」として選択されているのである。
彼らがそれを解決することを忌避している「別の問題」が何であるかを見つけ出さなければならない。
「ソリューション」は解決できない。
私たちが解決できるのは「問題」だけである。

 内田さんのブログには毎回学ぶこと大なのですが、今回のブログにも、親として、また、教育に携わるものとして、深く学ばされました。ぜひ多くの方に読んでもらいたいと思っています。

 と、私が言うまでもなく、内田さんのブログは毎回ものすごいヒット数で、私が紹介するまでもないことなのですが、私のブログを見に来てくださる方が必ずしも内田さんのブログを見ているわけではないでしょうから、ここでも紹介させていただきます。

 一部抜粋して私がコメントしてもしょうがないですから、ぜひじっくりご覧になっていただけければと思います。「学力格差」について、「学力低下」について、「学ぶ力」について、よ〜くわかるのではないでしょうかー。

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 学力テストについて

07年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と1964年度の全国テストを社会環境を加えて分析したところ、学力を左右する要因として離婚率・持ち家率・不登校率の3指標の比重が高まっていることが、大阪大などの研究グループの調査でわかった。
いずれも、家庭、地域、学校での人間関係の緊密さに関する指標で、研究チームは「年収などの経済的要因よりも、人間関係の『つながり格差』が学力を左右する傾向にある」と指摘。(毎日新聞、11月17日朝刊)

ひさしく「学力格差は経済格差」であると言われてきた。
金持ちの子どもは「教育投資」額が貧乏人の子どもよりも大であるので、学力が高いというのである。
この「要するにすべては金の問題だ」という薄っぺらなリアリズムに過去20年ほど私たちの教育論は振り回されてきた。
それによって、学力のない子どもたちは「自分たちは学力がないのではなく、端的に金がないのだ」というふうに考えるように仕向けられた。
その結果、学力のない子どもは「金の全能性」についての信憑を深め、「学校なんかに行ってる暇」に、「端的に」金を稼ぐ方法しかたを工夫するようになった。
きわめて合理的な推論である。
日本の子どもの学力が低下しているのは「金の全能性」イデオロギーのせいで、「学力を高める動機」よりも「金をもうける動機」の方が選択的に強化されているからである。
誰が考えても、短波放送で株式市況を聴いたり、競馬新聞を熟読したり、パチンコ屋の開店を待つ方が「金を儲ける」という最終目的のためには学校に通って因数分解やサ行変格活用を覚えるよりは即効性がある。
そういうふうに「合理的に」推論する子どもたちの学力は集中的に劣化する。
それはこれまで繰り返し指摘してきたとおりである。
「合理的に思考する子どもたち」は、勉強するに先だって「どうして勉強しなくちゃいけないの?」というラディカルな問いを立てる。
「どうして義務教育を受けなくちゃいけないの?」「数学とか古典とか勉強すると、どういう『いいこと』があるの?」
平たく言えば、「勉強すると金になるの?」と訊いてくるのである(子どもにも多少の遠慮はあるので、そこまでストレートには訊かないが)。
残念ながら、このような問いには答えるわけにはゆかない。
つねづね申し上げているように、学校教育というのは、「そこでなぜ学ばなければならないかの理由を子どもたちは知らないが、大人たちは知っている」という「知の非対称性」に基づいて構造化されているからである。
「いいから黙って勉強しろ」というのが学校教育にかかわる大人たちの基本文である。
自分がなぜ学ばなければならないのか、その理由がうっすらとはわかるが完全にはわからないという「グレーゾーン」に子どもを置くのが学校教育の目的である。
そうすると、どういうわけだか知らないけれど、子どもの学力は向上することが経験的に知られているからである。
「学力」というのは「学ぶ力」のことである。
何を知っているかではない。
知識や情報や技芸のことではない。
「学びたい」という抑えがたい欲望のことである。
「学びたい」という欲望は、自分が何のために何を学んでいるのか「すこしわかりかけているのだが、全部はわからない」ときに亢進する。
だから、学校教育は「そういう状態」に子どもを置くためにもろもろの「仕掛け」を凝らしてきたのである。
何千年か子どもを育ててきた人類学的経験から、「こういうふうにすると、子どもは成熟する確率が高い」ということがわかったので、学校における諸制度を整えたのである。
残念ながら、現在の学校制度は「成熟の装置」としての社会的機能をほとんど失ってしまった。
教育行政も保護者も、もちろん子どもたち自身も、学校にそのような機能を期待してはいない。
今学校は「換金性の高い知識や情報や技能を習得する場」というふうに単純に理解されている。
そして、「換金性の高い知識や情報や技能」よりは「金そのもの」の方がさらに「換金性が高い」(だって金だから)ということに気づいた子どもたちは(誰でも気がつくが)、「勉強よりも金儲け」を優先させるようになり、「別に金なんか欲しくないし・・・」という非活動的なタイプの子どもたちは底なしの無為のうちに沈むことになった。
そんなふうにして、日本の子どもたちの学力は急降下で劣化したわけであるけれど、それは「学校教育の意味を経済合理性で説明したことの帰結」である。
今回の統計によって、「学力格差は経済格差である」というこれまで信じられてきたテーゼの根拠が失われた。
今回の研究によれば、学力格差は「学ぶ意欲」(インセンティヴ)の格差であり、それは親族・地域・学校という場への定着度に相関する。
さまざまな「しがらみ」のネットワークの中に絡めとられているせいで、自己利益の追求ばかりでなく、同時に帰属集団の公共的な福利をも配慮しなければならない子どもたちは学力が高い。
というのは当たり前で、さまざまな集団のステイクホルダーであり、そのつどふるまい方や話し方を適切にシフトしなければならないという条件があれば、子どもは成熟せざるを得ないからである。
そして、「学ぶ力」というのは、まさに「成熟しなければならない」という内圧の同義語なのである。
「学ぶ力」は成熟への意欲と相関する。
成熟への意欲は、子どもが多様な集団において、そのつど適切な役割を演じることの必要性と相関する。

同じ新聞の別の欄は、大阪府教委が全国学力テストの市町村別平均正答率の開示を指示したことを伝えていた。
市町村別の正答率の開示は、要するに「学力による序列化」をめざすものである。
序列化し、格付けし、学力の高い地域には報償を与え、学力の低い地域には罰を与える。
そのようなシンプルで幼児的なシステムを完成させれば、子どもたちはますます幼児化し、学力はますます劣化することになる。
この理路が教育行政の当事者たちには理解できないのである(子どもだから)。

 内田樹さんのブログから、これもまた、ぜひ多くの方に読んでもらいたい、紹介したいと思ったものです。これを読むと、今の日本の主立った「少子化対策」論議の底の浅さが見えてしまいます。
 日本社会でひとり一人の人間をいかに「成熟」させるシステムに根本的に変えていくかーそれこそが本質的な問題だと私は思いました。以下、内田さんのブログよりー

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  増子化対策

共同通信の取材。
テーマは少子化・未婚化・婚活。
同じテーマで何度もしゃべっている。
同じことを何度も書くのも疲れるけれど、基本的なことなので、繰り返す。
「少子化問題」というものは存在しない。
例えば、新石器時代に「少子化問題」というものは存在しなかっただろう(その時代に生きたことがないので想像だが)。
その時代の集団において、「最近、みんな結婚しないし、子供が生まれないのはまことに困ったことだ」というような問題があったとは思えない。
そんな問題をかかえた集団は数世代で(はやければ一世代で)消滅してしまったはずだから、そもそもそれが「問題」として意識される暇さえなかった。
「親族を形成する」というのは人間が人間である基礎条件の一つだからである。
それは「労働する」とか「言語を話す」ということとほとんど同レベルの「当為」である。
「最近、みんな労働ないので、困ったものだ」というような悠長なことを言っていた集団はたちまち全員餓死しただろう
「最近、みんな言語を発しないので、困ったものだ」というような集団はコミュニケーションができないのでたちまち瓦解しただろう。
人間たちがほんとうに「親族を形成したくない」と思い始めたら、それはもう人間集団である条件を失っている。
何かうごめいているものがそこにいたとしても、それもう人間ではない。
だから、今起きているのは、「親族を形成したくない」という集団解体めざす流れではなく、「子供の数を減らす」ことが集団の維持にとって必要だという判断に基づいた行動である。
私はそう理解している。
親族形成が「したい」という人はするし、「したくない」という人はしない。
一見すると、それぞれの人の自由意思の結果のようであるけれど、親族形成が類的宿命である以上、それに逆らう行動をとることには、個人の意思を超えた強い規制力が働いていると考えなければならない。
人口の増減はその社会の「キャリング・キャパシティ」によって決定される(これは人口社会学の古田隆彦さんに教えてもらった)。
carrying capacity というのは一定の環境の中に一種類の生物がどれだけ棲息できるか、その上限数のことである。「環境収容力」とも「環境許容量」ともいう。
グッピーの雌雄50匹を栄養の十分な養魚鉢に入れておくと、卵が孵化するたびに成魚が幼魚を食べ、個体数の増加を抑える。さらに成魚同士が共食いを始め、九匹になったところで個体数が安定する。(古田隆彦、『日本人はどこまで減るか』、幻冬舎新書、2008年、47頁)
人間もこの法則から自由ではない。
列島の環境収容力は1億3000万人で上限に達した。
だから、これから安定的な個体数になるまで減り続けるであろう。
古田さんの予測では2042年に1億人を割る。
いろいろな予測値が他からも示されているが、どれも人口が減ることについては意見が一致している。
人口減少が始まったということは、私たちの集団がその集団の意思として「人口が多すぎるから個体数を抑制しよう」と判断したからである。
この個体数抑制行動を促したのは、グローバル資本主義である。
資本主義というのは、その本性からして、すべての労働者とすべての消費者の均質化・標準化を要求する。
標準的な労働を行うことのできる能力をもつ労働者が増えれば増えるほど、賃金は安くなる。
いくらでも換えが効くからである。
標準的な欲望をもつ消費者が増えれば増えるほど、商品は高く売れる。
全員が同一の商品に殺到すれば生産コストは最低になり、売り上げは最大になるからである。
資本主義は年齢、性別、国籍、人種、信教、政治イデオロギーにかかわらず、標準的な労働をこなし、標準的な欲望をもつ個体をできる限り大量に供給することを制度的な宿命としている。
みんなそっくりの個体が地上を覆い尽くすのがグローバル資本主義の理想郷である。
その流れの中で、まず性差が解消された。
一方の性に特化した職種はほとんどなくなった。
これを雇用機会の拡大と考えた人もいたようだが、繰り返し書いているように、財界や政府が男女雇用機会の均等化を推進した最大の理由はそのような人道的なことではない。
それが劇的な労働条件の切り下げをもたらすからである。
一ポストあたりの求職者数が二倍になるのである。
より良質な労働者をより安い賃金で雇用することが理論上は可能になる。
実際にそうなった。
それから年齢差が解消された。
これは気づいていない人が多いけれど、実際に私たちの社会で起きていることである。
子供の成熟が急速に遅くなった。まったく成熟しないまま成年に達し、さらに中年に達し、ついには老年に達する人々が大量に出現してきた。
それは小学生から老人たちまでが「同一の商品」の顧客たりうるということである。
年齢別に商品展開するコストと、年齢にかかわりなく同一商品がつねに売れるという場合のコストを考えれば、資本主義が成熟を忌避する理由はよくわかる。
そして、その場合に「成熟した消費者」ではなく、「未成熟な消費者」を標準とする理由もわかる。
なにしろ「子供だまし」という言葉があるくらいで、無価値でハリボテで装飾過多な商品に子供はたちまち魅了される。
成熟した消費者を対象にものを作るより、「赤子の手をひねる」方がずっとコストが安い。
とりあえず、グローバル資本主義の進行とともに、市場内では、男女の性差が解消され、子供と老人の年齢差が解消され、すべての個体がどんどん標準的な社会行動をとるようになった。
そんなふうにして、「同一種(子供)の個体数」が爆発的に増えたのである。
私たちの社会システムはグッピーの養魚鉢ほどシンプルな構造ではない。
一定比率の大人がいないとシステムは回らない。
子供だけではシステムは崩壊する。
しかたがないので、とりあえず「子供の数を減らす」ことで比率を挽回することにしたのである。
「外側は中高年だが、頭の中は子供」を今さら「大人」にするにはコストがかかりすぎる。
だから、生物学的な意味での子供を減らすことにして、出生数を抑制したのである。
子供の数が減ったのは、子供の数が増えすぎたからである。
簡単な理路だ。
少子化ではなく、実は今起きているのは「増子化」(@古田隆彦)なのである。
だから、私たちが緊急に立てるべきなのは「増子化」対策である。
どうやって、子供たちを大人にするか。
どうやって集団内部に、それぞれ生態学的地位と社会的行動を異にする多様な種を作り出し、それによって環境負荷を軽減するか。
それが最優先の課題であると私は思う。
私が思うんじゃなくて、私たちはすでに無意識的にそう判断して、それに添うように行動し始めている。
しかし、行政やメディアが前提にしているのは、単に労働者と消費者と納税者の数を維持しなければならないということである。
「マーケット」を巨大化し続けることが彼らの目標なのである。
だが、それが不可能だということはもういい加減にわかっていいはずである。
「マーケットを巨大化し続ける」ために資本主義は個体の差を消滅させるということに全力を尽くしてきた。
その結果、同一種の個体数が増えすぎて、「喰う成魚」と「喰われる幼魚」の間の残酷で血腥い「格差」が生じたのである。
少子化対策と称して「子供を産んだら金をやる」というかたちの利益誘導をするということは、要するにその施策を企画している当の本人たちが「子供はいずれ金になる」と思っているということを露呈している。
もし、「子供を産んだら金をやる」と言われて、「それなら産む」という親がいたら、そのような親から生まれた子供は誕生の瞬間に「金が人間の生き死にを決める」という「金の全能性のイデオロギー」を焼き印されたことになる。
この「金の全能性のイデオロギー」を内面化したせいで成熟を止めてしまった「標準的な個体数」があまりに増えたことが「増子化」(すなわち行政のいう「少子化」)の実態だということに人々はいつ気がつくのであろうか。

 これまでにも内田さんが教育に関して記した言葉を紹介してきましたが、今回もまたとても本質的なことを語られていると思います。興味のある方はご覧になってみてください。

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  教育のもたらす利益について

経済協力開発機構(OECD)は8日、加盟国の06年国内総生産(GDP)に占める教育費の公財政支出割合について調査結果を公表、比較が可能な28カ国で日本は3・3%と下から2番目だった。
平均は4・9%。1位はアイスランドの7・2%、デンマーク、スウェーデンが続き、北欧が上位を占めた。日本は最下位だった05年調査の3・4%より0・1ポイント減少。
日本は小中高までの初等中等教育は2・6%で下から3番目、大学などの高等教育は0・5%と各国平均1%の半分で最下位。
全教育費に占める私費負担の割合は33・3%と韓国に次いで2番目に高く、平均の2倍以上だ。

日本は、高等教育への財政支出対GDP比率が先進国最低の国である。
文科省はこれを5%にと要望したが、財務省に一蹴された。
教育は私事であるから、公的支援には及ばないというふうに考えておられるのであろう。
教育は自己責任で行え、と。
行政を頼るな、と。
別にこれは財務省の創見ではない。
これは公教育という制度が発足した当初から、ずっと言われ続けてきたことである。
すべての子どもたちにできるかぎりの教育機会を提供するのは国家の義務である、という考え方を提示したのは、18世紀のフランスの啓蒙思想家たち、なかんずくコンドルセである。
理論ではフランスが先行したが、制度的に定着したのはアメリカが早かった。
しかし、そのときにアメリカの市民たちの中に、公教育制度につよく反対したものがいた。
ブルジョワたちである。
彼らはこういうロジックを立てた。
公教育を受けるのは貧乏人の子弟である(私らの子どもは高い授業料をとる私立学校に通っている)。
貧乏人が貧乏であるのは、能力がないか努力が足りなかったか、いずれにせよ自己責任である。
なぜ、自己責任で貧乏になった人間の子どもたちの面倒を私らが納めた税金でせにゃならんの。
ブルジョワたちはそう言って公教育制度の導入に反対した。
勉強したい人間は自分の金で勉強しろ。金がないならあきらめろ、と。
これに対して公教育制度の導入を求めた思想家たちは苦肉の説得を試みた。
いや、それは短見というものである。
ちょっとお考えいただきたい。
みなさんがここでちょっと我慢して税金で公教育を支援してくだされば、文字も読めるし、四則計算もできるし、基礎的な社会的訓練もできている若い労働者がそのあとどんどん供給されるようになります。
高いスキルをもった若年労働者がこの先のみなさんのビジネスにどれくらいの利益をもたらすと思いますか。
ここで1ドル損して、あとで10ドルにして取り返す。それがイタチボリのアキンドつうもんでしょうが。
まあ、そういうふうなことを言ってブルジョワたちを説得したわけである。
さきゆき自己利益を増大させるという保証があるなら、公教育に税金を投じるにやぶさかではない。そういう経済合理性に基づいて、アメリカのブルジョワたちは公教育の導入を受け容れたのである。
その図式をわが国に適用すれば、どうして文科省が支援の増額を求め、財務省が反対するのか、そのロジックがわかる。
文科省は古典的な啓蒙理論の立場から「教育は公的な仕事である」と考えている(だから、あれこれわれわれのやっていることに口を出しもするのである)。
財務省は財界の言い分を代弁して、「教育は私事であり、教育目的は自己利益の増大であるなら、『受益者負担』の原則を貫くべきで、公的資金を投じるべきではない」と考えている。
この言い分もそれなりに筋が通っている。
教育にこれまでずいぶん国費を投じてきたけれど、その結果が「このざま」じゃないかと言われると、われわれはつい絶句する。
学力も先進国最低レベル、校外学習時間も最低、高等教育まで受けたが、英語が読めない、四則計算ができない、漢字が書けないという「学士」が現にたくさんいる。
あれだけ税金使って、これかよ。
そんなものにこれ以上金は出せん。
勉強したければ自己責任でやりなさい。
自分の金で学校に通うようになれば、少しはまじめに勉強するようになるであろう。
そう言われると、それなりに筋が通っている。
そもそもの最初に「公教育にいま金を出しておくと、あとでがばっと回収できますよ」というロジックで納税者を納得したのであるから、「『がばっ』とならないじゃないか」と言われるとプラグマティックな公教育論者は立場を失う。
もちろん、反論は可能である。
「出し方が足りないから、『こういうこと』になったのである」という反論である。
高等教育は予算逓減のせいで、「勝ち組・負け組」の二極化が急速に進行し、危険水域に向かっている。
これは事実である。
いまここで教育に投資しなければ、わが国の明日はない。
というのも、かなりほんとうである。
財務省の反論は「おい、それは破産する前の企業の言い分だろ」というものである。
「おたくが融資してくれないから潰れかけている。潰したくなかったら、追加融資してくれ」という言い分を許してどれほどの不良債権を抱え込んだか、おいらは忘れていないぜ、と財務官僚は悪夢のバブル崩壊を思い出して目の前が怒りで暗くなっている。
どちらの言い分も私には理解できる。
しかし、これはこの「教育はペイする」というロジックそのものが内包していた背理であると私は考えている。
教育をビジネスの語法で語ってはならない、というのは私の年来の主張である。
公教育導入のときにも、ほんとうは「教育を国家的な事業として行えば、あとで私人の自己利益が増大する」という利益誘導型ロジックを利用すべきではなかったのだ。
このロジックを使う限り、「オレは公教育制度から何の利益も受けていない」と言いだした人間がいて、「オレ的には公教育なんか要らないね」と言いだしたときに、これを抑止することができなくなるからである。
教育は私人たちに「自己利益」をもたらすから制度化されたのではない。
そのことを改めて確認しなければならない。
そうではなくて、教育は人々を「社会化」するために作られた制度である。
私人を公民に成熟させるために、自己利益の追求と同じくらいの熱意をもって公共の福利を配慮する人間をつくりだすために、マルクスの言葉を使って言えば、人々を「類的存在」たらしめるために作られた制度なのである。
私たちの国の教育支出の対GDP比がきわめて低位であるのは、これを非とする人も是とする人もどちらも教育の意義を「利益」という語で語ろうとすることに由来する。
教育は利益をもたらさない。
教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。

ー以上、内田さんのブログからの引用でした。

 内田さんのブログはこれまでも何度か紹介してきました。単なる転載はなるべくしたくないと思いつつ、今回のものもぜひ多くの方々に読んでほしいと思ったので、転載させていただきましたー。
                         * 
河合塾でお話 7月13日

日曜は河合塾で講演。
去年も同じ頃に河合塾で予備校生たちを相手に講演をした。
先生たちの間に読者がけっこういて、お呼びくださったのである。
300人ほどの予備校生たちを前に「脱=市場原理の教育」というお題で2時間半近く話す(このところどこでもタイトルはいっしょである。中身はばらばらだけど)。
生徒たちは食い入るようにこちらを見つめている。コワイくらいである。
当然である。
彼らは日々「こんな勉強やることに何の意味があるのか」という身を切るような問いを自分に向けている。
そこに私のような人間が現れて「『こんな勉強をやることに何の意味があるのか』という問いそのものが市場原理に侵された思考なのである。いいから黙って勉強しなさい」というようなことを言い出すわけであるから、これは頭がぐちゃぐちゃになって当然である。
けれども、私はべつに有用な知識や情報をお伝えするために登壇したわけではない。
教育者が教場で行う仕事は一つだけである。
それは子どもたちの知性のパフォーマンスを向上させることである。
それに尽きる、と申し上げてよろしいであろう。
子どもたちの知的な不調の原因の過半は彼ら自身が自分の脳を活性化する術を理解していないからである。
学校ではなかなか教えてもらえない。
というのは、「機嫌のよい教師」「いつもにこにこしている先生」にあまりお目にかかる機会がないからである。
まことに理解に苦しむことであるが、「機嫌のよい教師」「いつもにこにこしている先生」を組織的に生み出すことの教育上の有効性について理解している人は教育行政の要路者の中にも教育について語る知識人の中にも、ほとんどいない。
脳の機能についてまじめに考えればすぐにわかるはずである。
私の知人友人の中には脳科学の専門家が養老先生、茂木さん、池谷さんと三人いる。
三人に共通しているのは、「オープンマインド」ということである。
いつもにこにこしている。
これは「たまたまそういう人だった」ということではない。
この方々は、人間は「理解しがたいこと」を受け容れ理解しようと願い、それを受け容れるために脳の容量を押し広げているときに脳の情報処理能力が最高速になることを体験的にも理論的にも熟知しているからである。
「心を開く」ときに、脳の演算能力は向上し、「心を閉ざす」ときに、脳の機能は劣化する。
怒ったり、憎んだり、嫉妬したりしているときに知性の機能が上がるということはない。
これは確かである。
だから、「怒っている知識人」とか「不機嫌な研究者」というのはそもそも形容矛盾なのである。
怒ったり不機嫌になったりしていたら脳のパフォーマンスが下がることを知らないのなら、彼らは知的職業に就くべきではない。
知っていてそうしているなら、彼らは自分の脳の機能を最大限まで向上させなければ対処できないようなチャレンジングな課題に直面していないということになる。
つまり、平たく言うと、「怒っている知識人」とか「不機嫌な研究者」というのは定義上「バカ」か「怠け者」か、その両方だということなのである(というようなことを書いてまたまた人を怒らせたら元も子もないじゃないか・・・というご叱正の声が聞こえてはくるのであるが)。
ともあれ、若い人たちは「自分の脳の機能をどう向上させるか」という課題に最優先で取り組んでいただきたいと思う。そして、それは「オープンマインドで生きる」ということである。
というわけで、実践的な教訓をいくつかご教授しておこう。
他人と意見が違ったら、とりあえず「キミの言う通りだ」と言ってみる。
そして、自分と意見の違う人の頭の中ではどういう推論がなされているのかを想像的に追体験してみる。
これは脳の容量を拡大するきわめて効率的な方法である。
他人が言っていることの意味がわからなかったら、とりあえず「にっこり」笑って、「ふんふん、で、それって具体的にはどういうことなの」と訊いてみる。
これは他人の知性のパフォーマンスを上げるよい方法である。
どう考えても、「バカと話す」よりは「賢い人と話す」方が愉快であるし生産的でもあるので、自分と話す相手の知性を向上させるためには不断の努力を怠ってはならぬのである。
とりあえずそれくらいから始められてはいかがであろうかと思う。


●ということは、教育に携わる場においても、常に「オープンマインド」であることは、とても大事なことなのではないでしょうかー。
 私は常に生徒がリラックスできる場になるように心がけていましたが、これは内田さんのいう「オープンマインド」につながることだと感じます。何事も、本来の力はリラックスしていないと発揮できませんよね。

 また、西アフリカのタイコ「ジンベ」のマスタードラマー(世界的達人)であるアブドライ・ジャハテ氏は、「ジンベを叩く上で一番大事なのは“オープンマインド”である」、と明言していました。それは私にとって結構衝撃的なことでしたから、よく覚えています。氏の口からこの言葉が出た時、私は「え〜、やっぱりそうなのか!」という思いを受けました。

 以来私は、「オープンマインドであるかどうか」を、自分自身の有り様として気にかけていました。が、最近はもしかしたら、この言葉は頭の隅に追いやったままだったかもしれません。
「オープンマインドであるかどうか」を自分の胸に問いかけていくことは、何かの壁にぶつかったときこそ必要だと感じます。そこから道が開けていくのだとも思います。


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