さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

内田樹

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

 内田さんは、「教育」の本質をつく文章をよく書かれます。
 今回の文章も「深いなぁ…」と思いましたので、ここで一部紹介させていただきます。
全文をご覧になりたい方は、右記のホームページへどうぞー。 http://blog.tatsuru.com
                        *

「英語ができないと金儲けに後れを取る」というような動機で英語学習を勧奨する文言を一国の教育行政を預かる省庁が満天下に公言することについて、「それはどうか」とたしなめる声は庁内からは出なかったのか。
教育はその原点に還るべきだと私は思う。
子どもを成熟させるために何が必要か、それを問うのである。
それだけを問うのである。
そう問うたときに、「ほんとうの大人」であれば、自身の未熟を深く恥じるだろう。
大人がつねに自分の未熟を恥じる文化からしか、子どもを成熟に導くメカニズムは生成しない。
                        *
 今の世の中、大人がよってたかって子どもを「成熟させまい」としているように感じます。
 消費社会のシステムへ導き込むためには、成熟させずに、つまりは、「自分の頭で考える」「自分は自分と意識させる」などのことをさせずにいた方が都合がいいからでしょう。

 「子どもを成熟させるために何が必要か」・・・教育の原点に還り、それだけを問うこと。
 教育・子育てに携わる人たちにとって、このことをしっかりと胸に刻み込むことは、とても大切であり、また、それができれば、何も畏れることはないようにも感じる、大変意味の深い言葉だと、私は感じます。

 「ほんとうの大人」かどうかのものさしは、「自分の未熟を恥じる文化」からーという逆説的な定義には、「う〜む・・・」と唸るしかありません。はたして私は「ほんとうの大人」だろうかー。

 【大学で何ができるのか】より

《言いたかありませんが、子どもたちが働くモチベーションをなくしたのも、モジュール化された仕事しかやりたがらないのも、疑似家族的な企業体質が大嫌いなのも、自分の能力についての外部評価を受け入れないのも、これは私たち日本人が打って一丸となって国策的に推進してきたあの「グローバリゼーション」の輝かしい成果でなくて、何なのでありましょう。

 消費単位を細分化するために「家族解体」を掲げ、自己決定できる消費生活のすばらしさを謳い上げ、「自分らしさ」とは尽きるところ「商品購入のことなんですよ」と二十年間メディアを通じて宣伝し続けてきた企業のみなさんが、今さらそれに頬被りして、「なぜ最近の若者は自分の消費生活を最優先して、他人と共同で労働することができないのだ」などと凄まれても、こちらだって返す言葉がない。

そちらがそういう日本人を組織的につくり出すことに合意してきたという「犯意」あるいは「病識」を持っていないで、そういうことをべたで言われても、私は聞く耳を持たない。日本人みんな寄ってたかって「そういう子どもたち」をつくり出してきたのだから、政治家も企業経営者も自分の「割り前」は自分で負担していただきたい。

私は私なりに学生たちにいかにして「働くモチベーション」を持ってもらうか、自分なりに工夫して努力している。だったら、そちらもそちらで「働くモチベーションの高い若者」をどうやってつくり出せるのか、自分の頭を使って自分なりのプログラムを考えていただきたい。》


●「その通り!」と私は内田さんの論を断固支持します‥? 
 大人はみなそれぞれ、我が身を振り返った上で、自分の働き方や暮らし方を再考することなしに、若者に対してエラそうなことは言えないでしょう。エラそうなことを言う前に、彼らの話に耳を傾けるにはどうすればいいかを考えるべきでしょう。本気で考えた上で自分なりの行動をしていくこと、それ以上のことはないのではー。


 [あとがき]から

《私はとにかく「学校の先生たちが元気になるような本」を書こうと決めていました。どう考えても、教育にかかわる諸問題を解決する主体は、現に教室で子どもたちを前にしている教師たち以外におりません。

「教師はダメだ。彼らに教育改革なんかできるはずない」と主張する人だって、本気で教育改革をしようとするなら、その「ダメな先生」たちを押しのけて、「そこをどけ、私が代わって教えるから、私のやり方を見てろ」と言う以外に説得力のある対案は出せません。ほらね。「教育にかかわる諸問題を解決する主体は、現に教室で子どもたちを前にしている教師たち」以外にないと言ったとおりでしょう。》


●この本を紹介した冒頭でも、このあとがきの文章を紹介しましたが、「教育にかかわる諸問題を解決する主体は、現に教室で子どもたちを前にしている教師たち」以外にないのですから、「まず教師を応援する」、あるいは、「教師を支援するにはどうしたらいいか」をひとり一人が考えてできることから行動する、私はそれを選択します。

 【ロストジェネレーションは何を失ったのか?】より

《ミスもチャンスもどちらもグレーゾーンに発生する。この経験則が、私たちの社会で現在進行している危機と、組織的停滞の理由を説明していると私は思います。
 個人の原子化・砂粒化の急速な進行、「自己決定・自己責任」の呪文に煽られて、「モジュール化」された業務に「自分らしさ」の発現を求めている人々。

 当節の格差社会論の論理的な瑕疵については、これまで何度も書いてきたので、もうここでは詳細にはわたりませんけれど、「自己決定・自己責任」すること、「個性的であること」への病的なこだわり、「恊働」という生き方に対するつよい忌避とそれがもたらす「共同的に生きる能力」の不足が若者たちを非正規雇用や劣悪な労働条件に追い込んでいるということは、重ねて確認しておく必要があると思います。》

《今の時代が失ったいちばんたいせつなものは、この「仲間と互助的な共同体を作って、貧しい資源を分かち合う」という作法ではないかと私は思います。それはでたらめな豊かさを謳歌した80〜90年代に根こそぎ失われてしまった。だって、もう貧しくないわけですから。だれも互助も連帯も必要としていない。その20年間に、日本人は「連帯する技術」をすっかり失ってしまった。》


●そうか、あのバブルの時代に失われたものは、取り返しがつかないほど大きかったのでしょうね。そうなんだろうなとなんとなくは思っていたのですが、内田さんの言葉によりとどめを刺されたような思いがあります。

 私自身、バブルを謳歌しました。でもそれは、一般的にそこからイメージされるようなこととは違います。マネーゲームにうつつを抜かしたわけでも、夜毎六本木に繰り出したわけでもありません。もっとも仕事場は六本木でしたが、早朝6時に着いて、午後4時頃には帰るという生活でしたから、夜の六本木は知りません。知りたいとも思いませんでしたがー。

 確かに、飛ぶ鳥を落とす勢いの?外資系証券会社に潜り込んで、今では考えられない時給を得、年に1〜2度は海外旅行に行ってました。が、私の場合、それはすべて自分への投資であり、ブランドものや悠々自適に単に楽しむための旅行とは一線を画したものでした。

 バブル経済を利用して、オルタナティブな道を極める動きをしていたと言えるかもしれません。それは、自分自身を知り自分自身のネットワークを作り、心と心のつながる仲間に出会っていった、私にとってはそんな時代、そんな東京での9年間でした。

 ですから、内田さんの言うような、「連帯する技術」を養っていった時期と言えます。それをすることができた、あるいは、それを志向した最後の世代なのかもしれないーと、フト思いました。

 [第9講 反キャリア教育論]から 【何を基準に採否を決めるのか?】より

《でも、「会って五秒」でどうして決められるんでしょう。そもそも、何を見て決めているんでしょう。これが就職活動をしている学生たちには理解不能なんですね。
 でも、それはわかるんです。‘この人といっしょに仕事をしたときに、楽しく仕事ができるかどうか’、それを判定基準にしてるから。》


●就職の面接で、「ドアを開けて中に学生が入ってきた時点で採用するか否かが決まる」とは、最近よく聞きますね。雰囲気、身のこなし、言葉遣い、それらの要素で一瞬にして「その人」がわかるものかどうかはわかりませんが、仕事というのは共同作業なので、それが可能な人物かどうか、最低でも「この人はダメだろう」というのは直感できるだろうという気はします。

 学歴や学力などよりも、それらのことが就職面接においては重要視されているのですから、日頃から「自分を見つめ、磨く」ことの大切さは、家庭でも学校でも伝えておくべきことでしょう。

 
 【労働のルール】より

《だから、就活の面接のコツは簡単と言えば簡単だよといつも学生には言っています。「自分をよく見せよう」と思わないで、その場にいる人たちが(いっしょに面接を受けている競争相手も含めて)気分がよくなるようにふるまうことです。

集団面接でディベートなんかやるときに、周りの人間を黙らせて、ひとりで滔々と自説を述べるような人間はまともな組織は「ノー・サンキュー」です(そんな学生を優先的に採るような企業はじきにつぶれますから、ご安心ください。そういう点では「マーケットは間違えない」というのはほんとうです)。

むしろ、みんなが気分よく話せるように「ファシリテイト」するタイプの人間が高く評価される(こういうとすぐ間違える人がいますけれど、「ファシリテイト」するというのは「仕切る」とは違いますよ。むしろ「受ける」です。誰も理解できないジョークにもにっこり笑ってあげるとか、そういうことです)。

 ともかく、就職活動で、学生たちはそれまで自分たちが「競争」の過程で教わってきたこととはぜんぜん違う基準で選別されるという経験をします。もし「キャリア教育」というものが必要であるとすれば、私は私が今したような話を学生たちに聞かせるのが、いちばん現実的だと思います。労働するとはどういうことで、その場ではどういう種類の人間的資質が評価されるのか、それを教えるのが「キャリア教育」であるなら、私は「キャリア教育」の充実には大賛成です。》


●学歴と実際に社会の現場で働くこととは相関しないとは、最近よく聞きますが、私の身近で実際にこれに類することがあったことを最近知りました。

 北海道で一番の進学校へ行き、北海道で一番の大学へ行き、さらに大学院へも進み、一流と言われる本州の企業に就職した知り合いの子どもさんが、就職後ほどなく会社へ行かなく(行けなく?)なり、自宅へ戻り、今は外に出ず、いわば「引きこもり」状態にあるというのです。

 私は、誰もが知っているような大企業にその子どもさんが就職したと聞き、身近にいたお子さんだったのでびっくりしたものでした。

 しかし、まさかその後、このようなことになっているとは想像しませんでした。もっとも最近は、「3か月で会社をやめる」ような若者が増えている、とは聞いていましたが、上に記したようないわば「超エリートコース」を辿ってきた知り合いの子どもさんにそれが起こるとは…。勉強を強いてやらせていたような家庭であればまだわかりますが、決してそのような家庭ではなく、他の兄弟はそれぞれの道を歩んでいるのです。

 詳しい生育状況を聞いたわけでもないですし、彼自身と話すような機会もないですから、想像でしかないのですが、エリートコースを歩んでくるだけで、社会体験やコミュニケーション能力が身につかないままに育ち、仕事の現場では挫折を糧に育っていけるような人間的資質が備わっていなかったのでしょうか。仕事に挫折はつきものですからね。

 今回の件では、本当に考えさせられました。大学(大学院)まで一流の道であっても、社会生活を地道に営んでいく力がなければ何にもならないーと痛感する出来事でした。

 「引きこもり」の時期があったっていい、いや、あった方がいいかもしれません。私も大学時代の一時期そのような状態にありました。でも、そんな中で、自分のこと、自分の行く末を一所懸命に考えました。

 彼も、今このときを、これまで考えることもできなかったようなことを考える時間として、未来にはばたくための時間として使ってほしいと思います。そして、きっかけをつかみ、社会へあらためて出ていってほしいと切に望みます。

『街場の教育論』(内田樹、ミシマ社)を読んでー19

 【「いじめ」の集団力学】より

《小さな子どもたちを放っておくと、必ずいつのまにか近づいて、同じ遊具を、相手の身体に触れて遊び始めますけれど、それは集団の形成が自我の拡大をもたらすからです。

 子どもたちに「個性的であれ」と教えるのは、その後の仕事だろうと私は思います。もちろん子どもを個性的に育てることはたいせつです。けれども、その前にしなければならない仕事があると思います。それは他者と一つの共ー身体を分かち合うという経験です。

 共ー身体の形成によって、自分が「大きなネットワークの中の一つの結節点」であるという感覚を子どもは学びます。「個性」が出現するのはその後です。ネットワークの中で自分があるふるまいをすると、ネットワークの運動や機能が変化する。自分の投じた一石がネットワークを動かす。その経験を積み上げることによって、子どもたちは集団のメカニズムを理解するようになる。誤解されやすい比喩ですけれど、「組織の歯車」になることによってはじめて「組織を動かす」歯車装置の成り立ちがわかる。

 しかし、今の教育現場では、子どもたちに「集団の形成」の術を学ぶと同時に(あるいはそれより早く)「個性の発現」が課せられている。本来ならば、まず同学齢の仲間たちと集団を形成して、彼らと呼吸を合わせ、感覚を共有して、ひとつの共生態を作り出すことに専念すべきときに、「集団を作るな。他人にうかつに共感するな。個別化せよ。自分のタグをつけろ。自分の受け取るべき報酬を他人と分かち合うな」というグローバル資本主義の「人事ルール」が幼い子どもにまで浴びせかけられている。

 子どもたちだって、そんなことを言われたら、どうしていいかわからない。際立って有微な個体であれば、「いじめ」の対象になる。際立って無個性的な個体であれば、やはり「いじめ」の対象になる。このダブル・バインド的状況を生き延びるために、子どもたちはそれなりの生存戦略を見いださなければならない。

 先ほど言ったような、「相互模倣をしない仕方を相互模倣する身体運用」とか「コンテンツを共有してピッチを変える話法」といった徴候的なふるまいは、この抜け道のない状況の中で選択されたある種の「ソリューション」だと私は思います。そして、これが諏訪さんが言われた、80年代からの「生徒たちのすることの意味がまったくわからなくなった」という状況の底にある構造ではないかと私は思います。

 だから、問題は「いじめ」そのものをどうこうするということではない。教室全体、学校全体に、広く社会全体に「準ーいじめ状況」が瀰漫している。あと一滴試薬を入れると、飽和して結晶ができるように、子どもたちの集団にわずかでも適応不足であっても、わずかでも適応過剰であっても、その子は「いじめ」の標的になる可能性がある。潜在的には全員が全員にとっての「獲物」であり、かつ「捕食者」であるという信じられないほどにストレスフルな状況が今の教育現場を浸食している。そういうことだと思います。

 そういうふうな大枠の構造に同意していただければ、このあと現場がどう取り組むべきかということも、だいたい見通しが立つのではないかと思います。今、学校が果たすべき最優先の仕事は、子どもたちが共同的に生きるための術を体得するより先に、「原子化、砂粒化、個別化せよ」という圧力をかけているグローバル資本主義の介入に対する「防波堤」となることです。》

 【グローバル資本主義と原子化】より

《初等中等教育が荒れだしたのは、まさに「自分らしさ」イデオロギーが官民挙げてのキャンペーンの中で展開しはじめたときと同期しています(思えば、それは中曽根内閣が全国民に「1000ドル外貨を使って商品を変え」と獅子吼したとき、臨教審が現在の「教育改革」のグランドデザインを完成させたとき、バブル経済の始まったときでした)。これを「シンクロニシティ」と言わずしてなんと言えばよいのでしょうか。

 改めて私たちの直面している問題を定式化すると、もう一度さきほど述べたことを繰り返すことになりますが、それは「グローバル資本主義が私たちに要請する生き方をどうやって学校の外へ押し戻すか」ということに集約されるだろうと思います。
 でも、どうやって学校を「俗情」に対する防波堤として構築するのか。それについてはこのあとまだ時間をかけて考えなければ済まなそうです。》


●グローバル資本主義の介入に対する「防波堤」となることーそうですよね、学校くらい、そういったものとは一線を画したものとなっていてほしかった。上からの圧力はどんどんそっちの方向へ行っているのですから、現場の教師が個として立ち向かうしかないのか? いや、それはあまりに大変なことです。さてどうすれば…。


.
tomoto
tomoto
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事