さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

内田樹

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 【子どもたちの砂粒化】より

《教壇から見ると無秩序でだらけて見えるクラスも、実は、全員が絶えず相互参照しながら、人と違うことをしようと懸命になっている。例えば、教師が教室に入ってくると「起立、礼、着席」ということをやりますね。今でもちゃんとやっている。

でも、「『下流志向』にも書きましたように、その動作を彼らは実に緩慢に行う。のろのろと立ち上がり、いやいやそうに礼のようなものをして、のろのろと座る。これはかなり精密な身体操作なわけです。「のろのろ起き上がり、のろのろ座る」というのは、ふつうに「すっと起き上がり、すっと座る」より筋肉や関節への負荷が大きい。

つまり、彼らは「だらだらしている」のではなく「『だらだらしている』ように見せる」ためにそういう動作をしている。その緩慢な動作を通じて、教師に「私はあなたに敬意を示したくない」というメッセージを送っている。その記号操作のために投じるエネルギーを彼らは惜しまない。

 そして、さらによく見ると、その「のろのろだらだら」が全員の体位が決して同調せず、最高度の無秩序を達成するように、ひとりひとりが自分の身体をかなり細かくコントロールしていることがわかります。もし、クラス全員がぴたりと呼吸を合わせて「のろのどだらだら」動いたら、それはピナ・バウシュのダンスのような劇的感動をもたらすことでしょう。
 もちろん、そんなことは起こりません。40人の生徒たちが‘ひとりとして呼吸が合わないように’動いている。

 私はこの努力こそ「個性化」の兆候だろうと思います。彼らは集団でひとつの共ー身体を構成し、呼吸を合わせ、同時に笑い、同時にため息をつき、同時にのけぞるといった、昔の子どもたちが熟達していた非言語的コミュニケーションの術をあきらかに意図的に放棄しています。ランダムであること、秩序が構成されないこと、共同的な一体感が立ち上がらないこと、それが強く希求されている。
 奇妙な話だと思いませんか。

 共ー身体の形成、それが共同的に生きるための基本的な生存戦略だと私は信じているのですが、このことに対して強い抑制がかかっている。‘隣の人間と共感しないことが集団的な努力目標となっている’。そして、少なくとも、その「集団的な努力目標」においてはみんな一致している。お互いに似ないようにふるまうということにおいて、みんながそっくりになっている。‘相互模倣を忌避する仕方を相互模倣している’。模倣の次元が一つメタレベルに移行している。》


●子どもがダラダラしているのは、「親に対して敬意を示したくない」というメッセージ、と考えると、実に合点がいく気がします。子どもは親を腹立たせることが実にうまい。意識的か無意識的かわからないように、親が嫌がる行動を取りますね。そこで単に腹立たせたら子どもの思うつぼでしょうから、私はなるべくそうならない方法で対処しようと頭をひねります…。

 もっとも、このような行動を取るようになるまでには、それなりの理由があるのでしょうから、それを聞いていける関係、あるいは、そのような時間を持ってきていたかどうかを振り返る必要はあるかもしれません。

 それにしても、私はピナ・バウシュを知りませんが、「それはピナ・バウシュのダンスのような劇的感動をもたらすことでしょう」には笑えます。なんとなくどうなるか想像できますからね。いやはや、なんという「個性化の兆候」だろう・・・。

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 【火事場の馬鹿力】より

《トップ・ダウン・マネジメントは「平時のマネジメント」「好天型マネジメント」です。大震災のようなカタストロフや「教育崩壊」はトップ・ダウンではマネージできません。現場の人間が「もらっている給料分の仕事」をしている限り、状況は打開できません。
 現場の人間が「馬鹿力」を出すしかないのです。

「火事場」では「火事場の馬鹿力」に期待する以外に道はないのです。だから、ここでのマネジメントの問題は、組織をどう整備し、上の命令をどのようにそのまま現場で実現するかではなくて、どのように現場の教員たちがオーバー・アチーブできるような環境を整備するか、ということになります。20万円の教員が200万円の働きをしない限り、「教育崩壊」は食い止められない。そして、オーバー・アチーブというのは上司が「やれ」と命令することのできるものではなく、「やるしかない」という士気が自発的に高まることでしか達成されないのです。》

 【叡智の境位】より

《現在の教育危機は、「地殻変動的」規模で進行中の社会全体の変化の一つの相に他なりません。私はこれを学校教育の中に社会システムが入り込みすぎてきて、コントロールを失った状態だと理解しています。

 何度も申し上げたように、学校というのは、子どもたちを「外界」から隔離し、保護することをその本質的な責務とするものです。学校と「外の社会」の間には「壁」がなくてはならない。子どもたちを外から守る「壁」がなくてはならない。学校は本質的に「温室」でなければならない。これは異論のある方も多い(半数以上の日本国民が私に反対するでしょうけれど)と思いますけれど、私の譲ることのできない教育観です。》

 【「砂粒化」する社会】より

《「クリエイティウ゛」というのは、自分の仕事に固有名の「タグ」がつき、それがもたらす報酬はすべて自分に占有権がある、そういう仕事のことです。つまり、「クリエイティウ゛」という言葉は「モジュール化された」とほとんど同義として理解されている。

 非正規雇用というのは、まさに「モジュール化された仕事」です。マニュアル通りにやれば誰でもできる(はずの)仕事であり、指示された作業以外については自由裁量権はない。その代わり、「自分以外の人」と緊密な連絡を取り合い、責任を分かち合い、利益を分かち合うということはしなくて済む(してはならない)。私の仕事については私が責任を取り、他人の仕事については責任を取らない。私のリスクは私が一人で引き受け、私が上げた利益は誰ともシェアしない。それが「やりがい」を求めて、モジュール化された人間が求める「クリエイティウ゛な仕事」の実相です。》


●人間は、共同で一つのことを成し遂げたときにこそ、とてつもない幸福感に包まれるもの、だと私は思っています。
 もっとも、生きていくこと自体、一人で為せるものではないですから、生まれ出てからの宿命?と言えるものかもしれません。

 「教育」は、そこらへんのことを子どもたちに伝えていかなければならないはずですが、「いい学校、いい会社」優先のシステムでは、それがなせるはずもありません。家庭で伝えていくよう努めなければいけないことでしょうが、現実的にそれがかなわない家庭もあるわけで、そこが問題ですー。

  [第8講 「いじめ」の構造]から 【「この問題は簡単だ」という人を信じるな】より

《「日本の教育制度を破壊してやろう」というような悪意をもって教育にかかわっている人間は一人もいません。ダッチロールする文科省だって、学校にクレームをつけて先生たちを苦しめている親たちだって、「教育問題を解決するのは簡単だ」と言って、さらに事態を抜き差しならぬところに追い込んでいる教育評論家だって、どなたにも悪意はないのです。‘純然たる善意によって事態をさらに悪化させている’。全員が善意で「教育をよくしたい」と望んでいるにもかかわらず、さっぱり事態は好転しない。これをまず認めるところから始めなければならないと私は思います。》

 【われわれ全員が犯人】より

《教育再生会議に私が批判的なのは、「一気に解決できる方法」を必死に探しているからです。教育のような惰性の強い制度が不調になっているときに、短期的な解決などありえない。長期にわたる忍耐づよい継続的、多角的な努力がなければどうにもならない。そのためには「誰が犯人だ」というような他責的な議論は有害無益なのです。

 そういうと、「では、あなたはどうすればいいと思うのか?」とみんな訊いてくる。さきほども教育関係の取材がありましたが、やはりインタビュアーは最期に「では、どうしたらいいんでしょう」と訊いてきました。私はこう答えました。「私は私の仕事をする。あなたはあなたの仕事をする。それしかないでしょう」。

 教育の現状は私たち日本人全員がコミットして作り上げたある種の「作品」のようなものです。アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』といっしょで、われわれ全員が犯人なのです。全員が少しずつ犯人なのです。だから、全員が自分の犯した分について、自分がもたらした災厄については、それを自分の責任で取り除く。日本の教育を「こんなふう」にした責任について、自分の割り前だけ汗をかく。それに尽きると思います。》


●何事にも、「一気に解決できる方法」なんてないと思って生きていく方が、よりいい人生を送れるように私は思っています。
 人はそれぞれのフィールドで、それぞれにできる限りのことをやっていく、それしか全体が幸福になる道はない…。

 【師の師】より

《ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えるということです。「自分で設定した限界」を超えるのです。「限界」というのは、多くの人が信じているように、自分の外側にあって、自分の自由や潜在的才能の発現を阻んでいるもののことではありません。そうではなくて、「限界」を作っているのは私たち自身なのです。

「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価が、私たち自身の「限界」をかたちづくります。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は自分の「自己評価の客観性」をずいぶん高く設定しています。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、と。そう前提している人だけが「私にはそんなことはできません」と言い張ります。

でも、いったい何を根拠に「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言いえるのか。これもまた一種の「うぬぼれ」に他なりません。それが本人には「うぬぼれ」だと自覚されていないだけ、いっそう悪質なものになりかねません。

 ブレークスルーとは、「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価より上に置くということです。それが自分自身で設定した限界を取り外すということです。「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくることです。

 他者が「私の限界」を決める。これは孫悟空における「禁箍児(きんこじ)」の機能に似ています。この金輪が頭にはまっているせいで、孫悟空は三蔵法師が「ダメ」というまでは自分の能力を無制限に発揮することが許されます。だから、自分で自分の限界について考える必要がない。やり過ぎたら、「先生」が「止めどき」を教えてくれる。実際には、人任せの「止めどき」などというものはないのです。でも、それが「ある」と想定すると、人間のパフォーマンスは爆発的に向上する。そういうものなのです。》

 【古典を学べ】より

《何度も言っていることですけれど、人間は自分が学びたいことしか学びません。自分が学べることしか学びません。自分が学びたいと思ったときにしか学びません。
 ですから、教師の仕事は「学び」を起動させること、それだけです。「外部の知」に対する欲望を起動させること、それだけです。そして、そのためには教師自身が、「外部の知」に対する烈しい欲望に現に灼かれていることが必要である。》


●このことは、まさに私だらくだ教材によって、子どもたちに伝えたいことです。
 「やったことがないからできな〜い」というのは、子どもたちの口ぐせのようなものになっています。学校に行っているからこそ、「学校で習っていないからできない」と言います。らくだは学校で習っていないところまで進んでからが、本当の勉強と言えます。そこからは、常に「やったことがないことへの挑戦」になりますから。

 《「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくること》ができれば、個々の可能性は無限に広がりますね。そういった意味で、常に他人の提案に乗ってみることは大事ですし、自分では発想しないようなことを「やってみない?」と言ってくれる人が傍にいれば、それはとても貴重なことです。

 「師」というのはそのような人のことを言うとしたら、私にとっての師は、ジンベドラムの砂川正和さんであるし、らくだメソッドの平井雷太さんです。どちらの師からも、常に自分の限界(と考えていたもの)以上のことをやらざるをえないような状況にさせられましたから。そして、ジンベの教室を開くことも、らくだの教室を開くことも、私にとっての限界への挑戦でしたし、それは今も続いています。

 それにしても、自分で自分の限界を設定するのは「うぬぼれ」だと内田さんは断言しているのですから、これを知って心にグサッとくる人は少なくないことでしょう。そして、反発も覚えるかもしれません。

 「プライドがじゃまをする」ことはどんな人でもあることでしょう。でもその「プライド」が、自分の可能性を狭めていることになります。年を取れば取るほど、内にこもっていくことでしょう。私の父親もそうでした。プライドにこだわっていたら自分の将来を閉ざしてしまう、私はそのことを父親から学びました。そんな生き方しかできなかった父親です。

 しかし、結果的に私が「できない言い訳をしないでやってみる」生き方を選択することになったのは父親のおかげとも言えます。「そんな生き方しかできなかった父親」は、年を重ねるほど私にとって尊敬に値する存在となってきています。

 [第7講 踊れ、踊り続けよ]から 【学びのシステムは存在するか】より

《教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。》

《‘学びの場というのは本質的に三項関係なのです’。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。さきほどの発表者が「教育におけるインプリケーションのためのシステムの構築」ということを述べたときに言い落とされていたのは、「(その場にいない)師の師」のことです。そして、この「(その場にいない)師の師」こそが、学びを賦活する鍵なのです。》

●「学びの当事者であり続けること」は、私も自分に課していることですから、この内田さんの言葉を目にしたときには、自分がやっていることが肯定されたようで、本当に勇気づけられました。

 らくだメソッドの指導者は、自分自身が教材をやり続けることが必須です。小学教材から中学教材、そして私は今高校教材に挑戦しています。これは一筋縄ではいきません。問題が難しい云々よりも、「時間がかかる」ことが一番大変なことです。「一日のうちで、どこにその時間を作るか」、それを決めることが、毎日やるためには必要なことです。

 自分自身が毎日やっていれば、子どもたちが毎日やりたくなくなる気持ちが痛いように?わかります。また、どこでつまづきやすくて、どこでいやになってしまうのか、だいたいわかってきます。そういった意味で、親御さんもいっしょにやると、らくだ学習は「強制」にならず、「共感」をもって子どもとコミュニケーションをするための一つのツールとなりますから、子どもと親といっしょにすることのメリットは大です。

 らくだ学習で伝えたい最大のポイントは、「やったことがないことに挑戦する力=自分の可能性にフタをしない」ということです。これが備われば、それぞれの可能性を無限に引き出し、社会の荒波を行きていく力となるからです。

 そういった意味では、学びつづけるためのツールはもちろんらくだに限りません。ただ、大事なのは自分がやったことのないこと、あるいは、やることがある程度大変なことであるものでないと、自分の可能性を引き出すことはできませんし、継続することも難しいのではないかと思います。
 
 誰でもできることの一つとして、「毎日書くこと」があります。やってみればわかることですが、これはなかなか大変です。私の場合厳密に言うと、「毎日ブログに発信すること」ですから、「書いたものを例えば三日間に分けて発信できるようにまとめる」こともあります。

 「毎日書くこと」は、自分のまだ目に見えない能力をかなり引き出すことができることを実感しています。そういった意味で、誰でもできる(だけど実際は難しい)学びのツールと言えるでしょう。

 やっていることの本当の意味は、やり続けてみないとわからないことが大半です。深い学びというのはそういうものであり、一生続けてもわからないことがあるかもしれません。それは音楽や武道に通じるものだと思います。

 私は、らくだにしろ書くことにしろ読書にしろ、そういうものだと思っています。意味は発見となって少しずつ見えてくる、そこが学び続けることの醍醐味だと感じています。

 大人がらくだをする意味は? 意味がわからないことこそやってみる価値がある、極論すればそう言えると私は思っています。


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