さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

内田樹

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 【「でもしか教師」でいいじゃない】より

《もしかすると、先生が教えるモチベーションが高いということと、生徒が学ぶことの間にはそれほど単純な相関関係はないのじゃないか。そんなふうに思います。
 もちろん、まったく関係がないわけではない。でも、教師がある種の「型」をきちんと演じてさえいれば、先生の側のモチベーションが低くても、教育的情熱に満たされていなくても、子どもたちはきちんと学ぶべきものをその教師から学ぶのではないか。》


●「子どもは成長したがっている=子どもは学びたがっている」ことを基本に据えて子どもと相対するのが教育の本道、ということを教育界の重鎮である村井実先生がおっしゃっていましたが、そのことにも、上記の内田さんの考えは当てはまると思います。


《教師がひとりの個人として何ものであるか、ということは教育が機能する上で、ほとんど関与しない。問題は教師と子どもたちの「関係」であり、その関係が成立してさえいれば、子どもたちは学ぶべきものを自分で学び、成熟すべき道を自分で歩んでゆく。極端なことを言えば、‘教壇の上には誰が立っていても構わない’。そうではないかと思います。これについてはジャック・ラカンが名言を残しています。

 教えるということは、非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(……)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということなど決してありません。
 (「教える者への問い」、『自我(下)』、小出浩之他訳、岩波書店、1998、56頁)

 人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている。これほど「学び」のダイナミクスをみごとに言い当てている言葉はないだろうと思います。問題は「知っている者の立場に立つ」ということです。私は先ほど「ある種の型」という言葉を使いました。教師には教師の「型」というものがある。その「型」を過たず演じていれば、先生が「知っているものの立場」に立っている限りは、子どもたちの「学び」の機会は担保される。》

《私は「よい教師」を育てるという基本の考え方そのものが間違っていたのだろうと思います。「よい教師」が「正しい教育法」で教育すれば、子どもたちはどんどん成熟するという考え方が、人間についての理解として浅すぎる。私はそう思います。》


●すごいですね、上記の言葉。「よい教師」「正しい教育法」を追い求めているような世の中にあって、それに敢然と立ち向かうような?内田さんの姿勢に私は拍手喝采ですー。

 が、塾稼業で食べていっている人間がそんなことばかり言っていても現実問題としてはやっていけないので、そのような世の中の風潮といかにバランスをとってやっていくか、時には親の要望を丸ごと受け入れる中から、それでも子どもと相対しながら伝えたいことを伝えるにはいかにしたらいいのか、そのようなマニュアルでは決してできない対応が、この仕事の醍醐味と言えるのかもしれません。

 昨日の内田さんのブログの続きを紹介します。
 この中で内田さんは、《 どのような相手と結婚しても、「それなりに幸福になれる」という高い適応能力は、生物的に言っても、社会的に言っても生き延びる上で必須の資質である》と述べていますが、みなさんはどう思われますか?

 私は「なるほどー」と膝を打ちました。結婚というのは誰としようが必ずいずれは困難な問題にぶちあたり、それは一回で終わらず続いていくものでしょう。そういった意味では誰としようがあまり関係なく?、ただ、縁で出会った相手といかに共にその困難を乗り越えていくか、そこが問われるものだと私は思います。

 私が晩婚だった?(40歳)のは、それまで自分を信じて(信じきって?)いなかったからかも、と言えるのかもしれません。

 許容範囲?が広くなったところに、価値観がある程度共有できる相手と出会う、という内田さんの言う結婚への道筋を考えると、‘お見合い’というのもアリなんだな、と今になって思えるようになってます。

 以前は、お見合いなんて絶対にあり得ない、と感じていたんですがー。年を経ると、物の見方というのは本当に変わっていくものです。そして、自分の親が子どもだった自分に対して言ったりやったりしてくれていたことがわかってくるものなんだなぁ、と思います。

 以下、内田さんのブログよりーhttp://blog.tatsuru.com/
                         *
《 午後はAERAの取材。
「婚活」について。
結婚について年来の持説を述べる。
どのような相手と結婚しても、「それなりに幸福になれる」という高い適応能力は、生物的に言っても、社会的に言っても生き延びる上で必須の資質である。
それを涵養せねばならない。
「異性が10人いたらそのうちの3人とは『結婚できそう』と思える」のが成人の条件であり、「10人いたら5人とはオッケー」というのが「成熟した大人」であり、「10人いたら、7人はいけます」というのが「達人」である。
Someday my prince will come というようなお題目を唱えているうちは子どもである。
つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。
何でも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる
最後の「誰とでも友だちになれる」は「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。
こういうと「ばかばかしい」と笑う人がいる。
それは短見というものである。
よく考えて欲しい。
どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「何でも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。
「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。
同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。
「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。
誰とでも結婚できるはずがないではないか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。
そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。
「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。
どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。
だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。
それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。
自分がその相手を選んだことによって、潜在可能性を豊かに開花させ、幸福な人生を送ったという事実によって「自分の判断の正しさ」を事後的に証明するのである。
配偶者を選ぶとき、それが「正しい選択である」ことを今ここで証明してみせろと言われて答えられる人はどこにもいない。
それが「正しい選択」であったことは自分が現に幸福になることによってこれから証明するのである。
だから、「誰とでも結婚できる」というのは、言葉は浮ついているが、実際にはかなり複雑な人間的資質なのである。
それはこれまでの経験に裏づけられた「人を見る眼」を要求し、同時に、どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」というゆるがぬ決断を要求する。
いまの人々がなかなか結婚できないのは、第一に自分の「人を見る眼」を自分自身が信用していないからであり、第二に「いまだ知られざる潜在可能性」が自分に蔵されていることを実は信じていないからである。
相手が信じられないから結婚できないのではなく、自分を信じていないから結婚できないのである。》

 内田樹さんのブログで、「学校」というもののあり方について言及していました。これを読んだら、内田さんの勤める大学に行きたくなる人が増えるのではないでしょうか。

 「心身の感度を上げる」という言葉、私にはとてもしっくりときます。らくだメソッドやジンベ&ダンスは、まさに「心身の感度を上げる」ためのツールだと感じますし、書くこと自体そのようなものだと思います。

 以下、内田さんのブログより抜粋ーhttp://blog.tatsuru.com/
                        *
学院標語と結婚の条件

《新学期が始まる。
6日に入学式。
飯新学長の「ことば」を聞く。
学長就任の挨拶でもそうだったけれど、本学が「キリスト教のミッションを実現するために建学された」という基本理念をつよく訴える内容であった。
この時代に大学新入生に向かって「自己利益をどうやって増大させるか」については一言も触れず、「神と隣人を愛し、敬し、仕える」ことを、ほとんどそれだけを説いたスピーチを行うということは、「反時代的」だととる人もいるかもしれない。
でも、私はそう思わない。
これはすぐれて「今日的な」メッセージだと思う。
私たちの社会がこの20年で失ったのは「隣人と共生する能力」と「私の理解も共感も絶した超越的境位についての畏敬と想像力」である。
「愛神愛隣」というのは、そのことだと私は理解している。
学長は「学風」「校風」ということにスピーチの中で何度か言及した。
それは具体的な教育プログラムのことではないし、もちろん設備や規則のことではない。個々の教師の教育理念や教育方法のことでもない。
そのようなものすべてを含んで現にこの学校という「想像の共同体」を生かしているもののことである。
私がこの共同体に含まれて20年になる。
この場所は(それまでさまざまな共同体から排除されてきた)私を受け容れてくれただけでなく、私に働き場所と、生きがいを与えてくれた。
新入生たちが私や私の同僚たちやここに学んだすべての学生たちと同じように、この共同体に親しみ、そこで安らぎと癒しと、生きる知恵と力とを得ることができますように。
火曜日、新入生オリエンテーション。
教師1人が新入生10人とお昼を食べるイベントである。
学生たちに自己紹介してもらい、お手伝いに来てくれた上級生(フルタくん、ヤナイくん、ありがとうね)に大学生活の心得についてお話ししてもらう。
私からのメッセージは簡単で、「できるだけ長い時間をこのキャンパスで過ごすように」ということだけ。
最初のうちに単位をかき集めて、あとはバイトと就活で学校に寄りつかないというような学生がいるけれど、これはほんとうにもったいない大学生活の過ごし方だと思う。
時間割はゆったりと組んで、ひとつひとつの科目について、課題や下調べに十分な時間が確保できるようにすること。
授業が終わったら山をかけおりてバイトに行くようなことはせずに、授業のない時間帯もできるだけ大学の中にいること。散策するもよし、図書館で勉強するもよし、講堂でパイプオルガンを聴くもよし、クラブ活動をするもよし。
このキャンパスに設計者のヴォーリスはたくさんの「秘密の小部屋」や「秘密の廊下」を仕掛けた。
自分で扉を開けて、自分で階段を上って、はじめて思いがけない場所に出て、思いがけない風景が拡がるように、学舎そのものが構造化されているのである。
自分が動かなければ、自分が変わらなければ、何も動かない、何も変わらない。
これはすぐれた「学び」の比喩である。
このキャンパスにいる限り、感覚をざわつかせるような不快な刺激はほとんどない。
それは自分の心身の感度をどこまで敏感にしてもよいということである。自己防衛の「鎧」を解除してよいということである。
感度を上げれば上げるだけ五感は多くの快楽を享受することができる。
そんな環境に現代人はほとんど身を置く機会がないのである。
「心身の感度を上げる」ということは「学び」という営みの核心にあり、その前提をなす構えである。
それを可能にする場所であるかどうかということが学校にとって死活的に重要であると私は思う。
本学はそれが可能な例外的なスポットである。
その特権をどうか豊かに享受してほしいと思う。
というようなことを述べる。》

 [第6講 葛藤させる人]から 【教員はいつでも反権力】より

《先生の言うことは論理的には「おかしい」のだけれど、実感としてはきわめて切実である。それでいいのです。‘教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない’。言うことが矛盾しているのだが、どちらの言い分も半分本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としてはいちばんよい感化をもたらす。そういうものです。

 きれいに理屈が通っている、すっきりしている先生じゃダメなんです。それでは子どもは育たない。‘成熟は葛藤を通じて果たされる’からです。》

《子どもは学校に通うようになって、まず最初に、先生の言うことと親の言うこと(あるいは近所の大人たちの言うこと)が食い違うということを知ります。それが最初の葛藤。やがて、その先生も親もそれぞれがやっぱり言っていることが首尾一貫していないことを知る。これが第二の葛藤。

 それでいいんです。子どもたちが長い時間をかけて学ぶべきなのは「すっきりした社会のすっきりした成り立ち」ではなく(そのようなものは存在しません)、「ねじれくれた社会のねじれくれた成り立ち」についての懐の深い、タフな洞察だからです。

 ですから、先生たち自身が「ねじれた」存在であることは教育的にはまったく問題がない。それこそがノーマルなんです。》


●こういうことを聞くと、親も教師も安心します…よね?理想を追求しすぎたり完璧を目指したりすると、どこかでどこかがおかしくなるでしょう。
 人生や社会は「矛盾」していることを、大人はみんなわかっているはずなのに、それを脇において「教育」に血眼になっても、いいことはないのではー。

 また、「両親の教育方針は一致していないといけない」という説は一般的で、私もそうなのかと思っていましたが、一概には言えないような気がしてきました。無理して一致させるとしたらどこかで歪みが出るでしょうし。

 違っていたとしても、お互いが補い合うような関係であって、ある程度寛容であればそれでいいでしょうし、「あ、お父さんとお母さんって違うんだ」と子どもが思うことができるのは、いいことなのだとも感じます。

 【競争を強化しても学力はあがらない】より

《日本の子どもたちの学力低下は、大学進学率の上昇と、グローバル化の進行とほぼ同期しています。これはある意味当然です。競争が激化し、単一の度量衡による全員の格付けが行き渡るようになれば、「どうやって競争相手の学力を下げるか」という戦略の方に知的リソースの分配が偏るのは当然だからです。

自分の学力を上げる努力が自分ひとりにしか関係しませんが、他人の学力を下げる努力は(例えば私語をして教師を怒らせると)クラス全員の学力を妨害することができます。費用対効果から見れば、「ライバルたちの学力を下げる」方が圧倒的に経済的です。何でも「創造するのは困難だが、破壊するのは簡単」なのです。

 重ねて申し上げますと、‘競争を強化しても学力は上がりません’。少なくとも、今の日本のように閉じられた状況、限られたメンバーの間での「ラット・レース」で優劣を決めている限り、学力は上がりません。下がり続けます。

 学力を上げるためには、自分たちのいる場所とは違う場所、「外」とのかかわりが必須です。『荒野の七人』では山賊が、『大脱走』ではドイツう軍の看守が、主人公たちの活動を阻んでいます。だからこそ、「自分にできないこと」の検出に真剣になるのです。

その欠陥を埋めておかないと、「外」を相手にしたプロジェクト(山賊退治、捕虜収容所からの脱走)は成功しないからです。ですから、当然、「自分にできないこと」を「自分に代わって引き受けてくれる仲間」に対しては深い敬意が示され、できる限りの支援を行うことが必須になります。

 本来、子どもたちに最初に教えるべきなのは、「このこと」のはずです。どうやって助け合うか、どうやって支援し合うか、どうやって一人では決して達成できないような大きな仕事を共同的に成し遂げるか。そのために必要な人間的能力を育てることに教育資源はまず集中されるべきでしょう。
 しかし、今の日本ではそうなっていない。

 むしろ、どうやって仲間の足を引っ張るか、どうやって仲間の邪魔をするか、どうやって一人だけ他人を出し抜いて「いい思い」をするか、そういう「えげつない」作法を子どもの頃から教え込まれている。「競争に勝て」というのは要するにそういうことだからです。親や教師があからさまにそういう言葉づかいをしなくても、子どもにはわかります。そうやってきた結果、「こういうふう」になった。
 だったら、もう「そういうこと」はやめる潮時でしょう。》


●全く同感…。私は、学校での主要教科の時間および内容は、最低限基礎的なものに習熟することに大半を割き、後は内田さんが上記に記したような「このこと」に費やすことができれば言うことなしと思いました。

 すでに「教育」においても親の収入により格差が生じているのが現状です。それを踏まえた上で何を為すべきかを議論していくことが大切なのではないでしょうか。


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