さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

内田樹

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 【教養と専門】より

《教養教育というのは、要するに‘コミュニケーションの訓練’だということです。
 それも、なんだかよくわからないものとのコミュニケーションの訓練です。共通の用語や度量衡をもたないものとのコミュニケーションの訓練。

 そうですよね。礼や楽は「存在しないもの」とどうかかわるかの技法です。「存在しないもの」が相手では、言葉や数値は持ち込みようがありません。射や御は「人間ではないもの」(大腰筋とか胸鎖関節というのは「人間の一部」ではありますけれど、「人間」ではありません)とどうかかわるかの技法です。ここにも人間的尺度は持ち込みようがない。

 私たちがふだんなにごともなく使っている人間的用語や人間的尺度が「使えない」という条件で、何とかコミュニケーションを成立させる。その訓練が教養教育ということのほんとうの目的ではないか。私はそんなふうに考えます。
 教養教育をそう定義すると、専門教育も自動的に定義されます。教養教育の定義をひっくり返せばいい。》

 【歴史のゴミ箱】より

《教養教育というのは「自分が何をやっているのかわからない」という覚知に基づいて知性を使うやり方のことです。いささかわかりにくい表現を使えば「自分がどうふるまったらよいのかわからないときに、なお適切にふるまうやり方」を身につける訓練のことです。》

 【他者とのコラボレーション】より

《「自分にできないこと」をきちんと理解して、「自分にできること」とリンケージできること。それを先ほど私は「コミュニケーション・プラットフォーム」の構築と申し上げました。日本の教育プログラムにいちばん欠けているのは、この「他者とのコラボレーション」する能力の涵養だと思います。今の日本の教育の問題というのはもしかすると、ぜんぶがこの一つの点に集約されるのかもしれません。》


●《教養教育というのは、要するに‘コミュニケーションの訓練’》
…え〜っ、そうだったの?ーとしばし唖然としましたが、よくよく考えてみるとおっしゃる通りなのではと思えてきました。
 私はなんとなく、大学の教養課程を軽んじられてきていることをどうなのだろうと思っていましたが、やっぱりこれは大事なことなんですよね。

 それと、「他者とのコラボレーションする能力」…私は東京であじあくらぶをやり始めた頃から、ずっとこれが頭にあったのだと感じました。今こうしてやってきたことが言葉となって目の前に表れたような気がしています。

 私は、同じ人間だけで固まってしまうのがイヤなので、自分が主宰する場には、「いろいろな人が出入りするにはどうしたらいいか」が常に頭にありました。何をするにおいてもです。「他者とのコラボレーション」こそ、人生の醍醐味かもしれないと思えてきました。

 [第5講 コミュニケーションの教育]から 【君子の六芸】より

《単音の音楽というものはありえません。リズムもメロディも、その楽音に「先行する楽音」と「後続する楽音」の織りなす関係の中でしか把持されません。そして、「先行する楽音」も「後続する楽音」も、論理的に言えば、今、ここでは聞こえていない。今、ここには存在しないのです。‘今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは演奏することも聞き取ることもできない’のです。》

《音楽を愉悦するためには、できるだけ長い時間の中にいる必要がある。そうですね。もし生まれてから耳にしたすべての楽音を記憶している人がいたとしたら、その人は耳にするあらゆる音の中に、彼がこれまで聴いたすべての音楽の変奏と対旋律と倍音を聴き取ることができるでしょう。

そして、これから作られる音楽(まだ誰も演奏したことのない音楽)を先取りして想像できる人がいたとしたら(これも仮説的存在ですが)、その人が音楽を聴くときの快楽というのは私たちの想像を絶しているはずです。

音楽については、過去と未来に時間意識の翼を大きく広げられれば広げられるほど大きな快楽が約束されている。だから、音楽は時間意識の涵養のためにきわめて重要な科目とされるのだと私は思います。》


●音楽と時間との関係は、私も意識したことがあります。
 例えば、好きな音楽の演奏会に行った時、オープニングの時点で、「ああ、あと2時間でこの楽しいコンサートは終わってしまう」と意識して、「だからこの場に身を浸している1分1秒を堪能しよう」と心の中でつぶやくことはもう何度もありました。

 それにしても、《音楽は時間意識の涵養のためにきわめて重要》という説を聞いたことはなかったので、いいことを聞きました。茂木健一郎さんは「生の音楽を聴くことの大切さ」を著書の中で説いていましたが、そのことに通じるものでもあるのでしょう。


《武術の本質はこの二点に集約されると言ってよいのです。
 自分の身体をどこまで精密に意識化できて、どこまで細かくコントロールできるか。それが第一。第二が、他者とのコミュニケーション。非−自己と一体化することによって、パフォーマンスを爆発的に向上させる。これが武術の原理です。

「敵と戦って、倒す」ということは武術の目的ではないのです。武術の原則は「敵をつくらない」ということです。的も馬も、身体運用の精度を上げ、運動能力を飛躍的に高めるための「きっかけ」ではあっても、「敵」ではありません。射は自分自身との、御は馬との、コミュニケーション能力開発のことです。私はそう理解しています。

 そして、残ったのが書と数。「読み書きそろばん」です。生身の人間相手の、「浮世の勧工場」でのやりとりのための技術です。
 ご覧の通り、現代の教育では六芸のうち、礼、楽、射、御は必須カリキュラムには含まれていません。最下位に置かれた二教科だけが集中的に教えられているのです。》


●武術の本質、う〜んやっぱり深いですね。
 「君子の六芸」のうち、現代の教育では最下位に置かれた「書と数」の二教科だけが集中的に教えられているということ‥。これはやっぱり偏っていますね。音楽と武術の本質を学ぶことは、人生においてとても大切なことなのだと改めて教えてもらいました。
 書と数に秀でている人、音楽と武術に秀でている人、世の中はいろいろな人がいて成り立っているのですから。

 【理想のキャンパス空間】より

《彼らが大学に求めているのは「巻き込まれる」ことなんです。そのことが少年少女たちにも無意識的にはわかっている。彼らが大学に期待しているのは、カタログを見て買い物をするように、シラバスを読んで、「学ぶ」前からすでにその意味や有用性が知られているような「教育商品」を124単位分集めて学士号を手に入れることではないんです。》


●私の大学時代を振り返ってみても、何をするにおいても、私は「巻き込まれる」ことを渇望していたなぁ、と内田さんの文章を読んで感じました。特に新しい土地に暮らし始めた時、「これからどんなことに巻き込まれるんだろう」と心高ぶっていました。ちょうど今の季節ですね。青森県弘前で、そして東京で味わった感覚です。


 【ブレークスルーとは何か】より

《「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。この「巻き込まれ」(involvement)が成就するためには、自分の手持ちの価値判断の「ものさし」ではその価値を考量できないものがあるということを認めなければいけません。

自分の「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることはできない。知識は増えるかもしれないし、技術も身につくかもしれない、資格も取れるかもしれない。けれども、自分のいじましい「枠組み」の中にそういうものをいくら詰め込んでも、鳥瞰的視座に「テイクオフ」することはできません。それは「領地」を水平方向に拡大しているだけです。

「学び」とは「離陸すること」です。

 それまで自分を「私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない」というふうに規定していた「決めつけ」の枠組みを‘上方に離脱する’ことです。自分を超えた視座から自分を見下ろし、自分について語ることです。自分自身の無知や無能を言い表す、それまで知らなかった言語を習得することです。》


●自分の「ものさし」そして、自分に対する「決めつけ」を私自身意識して手放した時期があります。
 インタビューゲームの講座や、自分自身インタビューされた経験を繰り返すと、何が本当の自分なのかに戸惑うことがありました。そんな体験を経る中で、「人は自分というものがわからなくて当然」という気持ちになりました。

「人が自分に対する感想はどれも本当で、自分で自分に対する感想は決めつけに近いこと」に気がつきました。だから、「人が自分に対してどう思おうと、その人の自由」だと今は思っています。そうなると‥生きるのが本当にラクになります。どんな自分でも自分なんですから。
 
 そして、自分のものさしを捨てると、他人のどんな考えにも耳を傾けることから始めるようになります。そうなると、人とのコミュニケーションがラクになります。自分の考えを押し付けようとすると疲れますが、聴くことに徹しようとすると、相手の方からこちらの話に耳を傾ける時がやってきますから。

 必ずしもそうならないときもありますが、それはそれで縁がなかったと思って諦めれば済むことが大半なのではないでしょうか。

 ちなみに、らくだ教材を続けることは、できないことを乗り越える練習を日々続けることで、自分自身に対する「決めつけの枠組み」を取っ払うことであり、私はその援助をする役割だと思っています。

 [第3講 キャンパスとメンバー]から 【キャンパスに到来するもの】より

《「学び」というのは、教室で授業を聴くだけのことを言うわけではありません。どういう授業を、どんな仲間と、どんなふうに聴くことで、限られた大学生活の時間を愉快にかつ有意義に過ごすことができるか、それを探り当てるのもすでに重要な(しばしば授業そのものより重要な)知的技術なのです。

 さきほど「どうしていいかわからないときに、どうすべきかの目鼻をつける」というわかりにくい言い方をしましたけれど、こういうことは私たちの日常においてはしばしば起こることです。しばしばどころか、私たちの人生で決定的に重要な場面というのは(プロポーズされるとか、親の死に目に遭うとか、いきなりハイジャックに出会うとか)、すべて「こういう場面ではどういうふうにふるまうのが適切であるかについてガイドラインもマニュアルもない局面で、なお適切にふるまうこと」を私たちに要求します。

「どうしていいかわからないとき」に適切にふるまうことができるかどうか、それがその人の本源的な力がいちばんはっきり現れる瞬間です。生き死にかかわる局面というのはすべて「そういうもの」です。


●私はある時はたと気がついたことがあります。それは「人生は初体験の連続である」ということ。
 何を今さら、と思われるでしょうか。当たり前のことと言えばそうなんですが、このことを意識したことがあるかどうかで、人生違ってくるように思うのですがー。

 何を言いたいのかというと、何においても「初めからうまくいかなくて当然」ということ。
 そう思っていれば、人生における出来事で、うまくいかないことがあってもいちいち落ち込むことはないでしょう。といっても、そのときはそんなこと考えてもいないでしょうから落ち込むことはあるでしょうが、そのうち立ち直るはずです。

 私はどうもこのことを意識したことがない人が多いのではないかと感じます。あるいは、もしかしたら物心ついたときから、その人にとって簡単にできることばかりやってきた結果、ハードルが高いことにぶつかってすぐにできないと、自分を卑下して落ち込んでしまうー。

 「人生は初体験の連続である」と思っていれば、それをうまくなりたかったら続ければいいし、自分にとって優先順位の低いことならやらなければいいし、単にそれを自分で決めるだけの話になります(もっとも「自分で決める」ことをしてこないで大人になってしまう人もいるようですがー)。

 内田さんの伝えたいこととずれてしまったかもしれませんが、彼の文章を読んでフト思ったことを書いてみました。

 人生において「どうしていいかわからないとき」は必ずやってきます。生き死にかかわるそんなときに備えていると思えば、身近な小さな「わからないとき」こそ大切に味わう姿勢が大事なのではないでしょうか。

 前日紹介した文章からの続きです。

《教育の中心はこの「教えるものと学ぶもの」の出会いにあります。
 そこにおいて‘その両者のどちらにも属さないもの’が立ち現れるからです。教師にも子どもにも属さないもの。それを「外部」と言ってもいいし、「他者」と言ってもいいし、「第三者」と言ってもいい。

 教師以外のどのようなステイクホルダーも、子どもとの対面状況において、そのような「第三者」を呼び出すことができません。教師と子どもの対面状況においてのみ、「第三者」が立ち現れる。そこだけが「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ」に繋がる回路が開く奇跡的なスポットなのです。教師がそれ以外の教育のステイクホルダーとまったく機能を異にするのは、まさしくこの役割ゆえなのです。

 教育を取り巻くすべてのもの、それは「ここ」に属するものです。文科省も教育委員会も親も地域社会もメディアもマーケットも、すべては「ここ」を支配している同一の価値観に領されています。

 例えば、今の日本だったら、「大きな権力、高い威信、豊かな財貨、多くの情報や文化資本を獲得して、社会の序列の上位に格付けされること」を目的とする苛烈な競争に勝ち抜くことをすべてが子どもたちに要求しています。親に教育を全面的に委ねたら、おそらく「ここ」の価値観にジャストフィットした子どもをつくり上げようとするでしょう。

 教育の場だけが、教師と子どもが顔と顔を向き合わせている場面だけが、「ここ」の支配を免れた「逃れの街」たりうると私は思います。》


●《教育の中心はこの「教えるものと学ぶもの」の出会いにあります》

 この言葉も、私にとてもジャストフィットします。
「何を学ぶか」ではなく、「何で学ぶか」が大事、ということは、らくだメソッドの平井雷太さんから私は学んだことです。

 私はらくだメソッドの教室を開いていますが、「らくだを学ぶ」ことよりも「らくだで学ぶ」ことの方が大切と考えてきました。つまり、「らくだを学んだ学力」以上に、「らくだで学んだそれ以外のさまざまなこと」の方にずっと大切なことが含まれているということです。

 これは、子どもに対する大人が、「何を伝えたいか」が明確になっていないとできないことです。単に学力をつけたいのなら、単に教えてもらったことを学べばそれで済みますが、長い人生を生きていく上で必要なものも含めて基礎学力というならば、単に教えてもらうだけの勉強では身につきません。指導者がひとり一人の子どもとどう対応するかが大切になってきます。

 内田さんが伝えたいことからちょっと脇道に逸れてしまいましたか…。
それにしても、内田さんの論はどうして私の胸にこうも響いてくるのでしょうかー。


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