さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

内田樹

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 【残るものは何か】より

《それは教育の本質が「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」との回路を穿つことにあるからです。「外部」との通路を開くことだからです。

 勉強しているときには、子どもたちも一瞬、無人島という有限の空間に閉じ込められていることを忘れて、広い世界に繋がっているような開放感を覚える。四方を壁で取り囲まれた密室の中に、どこからか新鮮な風が吹き込んできたような爽快感を覚える。そういうことがきっとあるはずです。

‘「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること’。それが教育というものの一番重要な機能なのです。

 さきほど例にあげたイギリスの児童労働の場合を考えてください。もし、過酷な労働に苦しんでいた子どもたちを救済して、学校に通わせることができるようになったとします。さて、彼らは何を学ぶことを願うでしょうか。機械工学や金融を学んで、自分たちも紡績業やマッチ製造業の経営者になって、今度は他の子どもたちを収奪酷使する立場になって「見返してやろう」と思うでしょうか? 

私は違うと思います。彼らはむしろ歴史や外国文学の方に惹き付けられるんじゃないかと思います。自分たちが知っているような人間たち、自分たちが呼吸してきた社会の空気、自分たちの上に大気圧のようにのしかかっていた価値観、そういうものにはもううんざりしているので、できることならそれとは「別の人間、別の社会、別の価値観」に触れたい、というのがつらい目に遭ってきた子どもたちのいちばん自然な願いではないでしょうか。》


●「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること’。それが教育というものの一番重要な機能なのです。

 上記の言葉は私の胸にとても響きました。「教育で一番重要な機能」として、《「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること》という言葉を発する人が他にいるでしょうか。

 とても素敵な、とても可能性の広がる言葉だと私は感じました。そして、私がやってきたことすべてがこの言葉に繋がるような気がしています。

 どうして私は20代半ばで東京に出て、人と出会って場を作って、そして自らの感心のおもむくままに、さまざまなことを学び続けてきたのか、そして今もこれからも学び続けていこうとしているのか、その答えがこの言葉にあるように思いました。

 【義務教育は何のためのものか】より

《どうして、親に子どもに教育を受けさせる義務が発生したのか。これは教育史をひもとくとわかりますけれど、‘子どもたちを親による収奪から守る’ためです。

 私たちはもう「児童労働」というものを実感としては知りませんけれど、産業革命以来、子どもたちは労働力として消耗品に近い扱いを受けていたのです。》

《ですから、日本国憲法でも「義務教育」を定めた第26条のあとに、第27条3項では
「児童は、これを酷使してはならない」とあるのです。「義務教育」はつねに「児童労働の禁止」とワンセットになって存在する制度なのです。》


●「親から子どもを守る」ことが学校の歴史的使命であったという発想は、私にはありませんでした。が、考えてみれば、現代でも地球上で貧しいと言われる地域では、「児童労働」が通常のこととして行われています。

 そしてそのような地域に「学校」ができれば、子どもたちは学校に通うことを最大の楽しみとして、目を輝かせて学習に励みます。
 今の日本では、学校に言って学習するのが嫌だから居心地のいい家庭に留まっているケースがありますから、まるで正反対の現象が現代では起こっているわけです。

 私は、親はある程度うるさくて煙たがられる存在でいてちょうどいいと思っているのは、このような観点があるからです。家が居心地よすぎると自立心が削がれることになりはしないでしょうか。もちろん、生まれてからある程度大きくなるまでの‘家庭の温かさ’が前提としての話ですがー。

 思春期を迎えて親をうざったく思い、「こんな窮屈な家は早く出て一人で自由に暮らしてやる!」と思うような子どもであったら、ちょうどいいのでは…。

 今度中2になるウチの娘は「中1時代は最高に楽しかった〜」と言う「学校大好き人間」?で、家では決められたルールをまま守らずに怒られてはふてくされ、「早く一人暮らしして好きな犬を飼いたい」とつぶやいています。

 客観的に見れば「ちょうどいいくらい」の反抗期の娘ですが、当事者となり日々ぶつかり合うのは、なかなか骨の折れることです。自分もこんなだったよな〜と思うこの頃ですが、バランスを取って対処することは大変なことだなぁと思います。

 [第2講 教育はビジネスではない]から 【「時は金なり」】より

《正直に言うと、教育というのは「差し出したものとは別のかたちのものが、別の時間に、別のところでもどってくる」システムなのです。喩えて言えば、キーボードを押すと、ディスプレイに文字が出る代わりに、三日後に友だちから絵葉書が届いたとか、三年後に唐茄子を二個もらったとか、そういうどこをどう迂回したのかよくわからないような「やりとり」が果たされるのが教育というものの本義なのです。

 ビジネスマンはそのようなシステムが存在すること自体が信じられませんし、許せません。それはビジネスマンの生理と倫理に反するからです。その判断は当然だと思います。けれども、申し訳ないけれど、教育というのは「そういうもの」なのです。》

 【変化を望まない人々】より

《教育は入力から出力までのあいだに「時間がかかる」。それはそこを行き交うものが商品やサービスではなく、人間だからです。

 惰性が強いというのは、わずかな入力によっては変化しないということです。そして、わずかな入力では変化しないという点が、学校という制度の一つの手柄でもある。私はそう思っています。

 例えば、「学校文化」というものがある。「校風」と言ってもいい。これは変化を嫌います。
 本学には三万人の会員を擁する同窓会がありますが、彼女たちの願いの一つは「自分の出た学校が、自分が通っていたときのままのものであってほしい」というものです。》

 【教育のステイクホルダーは誰か?】より

《ご存知のように、江戸時代にも教育はみごとに機能しておりました。当時の日本の教育水準は、識字率を指標にすれば世界最高でした。もちろんその時代に、あるべき学校のすがたを発令する中教審や、学習指導要領を決める文科省が存在していたわけではありません。

 幕末の最強の教育機関といえば、異論の余地なく吉田松陰の松下村塾です(なにしろ高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎を輩出したのですから)。これももとは松蔭の叔父の玉木文之進が狭い自宅で開いていた小さな私塾でした。

 緒方洪庵の適塾も、『福翁自伝』を読むと、西日の当たる狭い部屋に暑苦しい成年たちがひしめいていて、裸で輪読をしていたそうですから、今日の大学設置基準に照らせばまず開学は不可でしょう(校地面積不足と消防法違反で)。

 中央集権的な教育行政がなくても、教育機関の条件を規定する法律がなくても、教育が成立するには何の支障もありません。
 これは大事な前提ですので、ぜひ覚えておいてください。

 では、保護者たちはどうでしょうか。
 これもはっきり言って、教育に不可欠の要素ではありません。親がいなくても教育には何の支障もありません。というか、近代の公教育について言えば、学校の歴史的使命は「親から子どもを守る」ことにあったからです。》


●「中央集権的な教育行政がなくても、教育機関の条件を規定する法律がなくても、
                             教育が成立するには何の支障もありません」
ーこの言葉と、
「狭い自宅で開いていた小さな私塾」から数々の歴史を動かす人物が育っていった
ー事実は、私をとても勇気づけてくれます。

 歴史的背景は違いますが、今の世の中も動乱の時代と言えるでしょう。私も、吉田松陰や緒方洪庵に通じる志を持って、子どもたちに対応することが大事だと思っています。

 自由な発想と恐れを知らぬ行動こそが歴史を作っていくのではないでしょうか。

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 [第1講 教育論の落とし穴]から【教師たちをどう支援するか】より

《私たちの国の教育に求められているのは「コスト削減」や「組織の硬直化」ではありません。現場の教員たちの教育的パフォーマンスを向上させ、オーバーアチーブを可能にすることです。それに必要なのは、現場の教師たちのために「つねに創意に開かれた、働きやすい環境」を整備することに尽くされる、というのが私の意見です。

 これは政治家やメディア知識人や文科省の考えとはおそらく逆のものです。彼らはどうやって教師を不安にし、怯えさせ、弱気にし、卑屈な存在にするか、そのことを考えています。

 私が教師として現場にいた過去三十年間に限って言えば、文科省の行政指導の中に「教師に自信を与え、勇気づけ、自尊感情をもたらす」ことを目的として立案された政策は一つもありませんでした。もしかすると立案した官僚の頭の中では「これで教師のパフォーマンスが向上する」という見通しがあったのかもしれませんが、その思いは残念ながら現場には伝わりませんでした。

 私は現行の教育制度がさまざまな欠陥を持つものであること、現に能力の低い教員、意欲のない教員、モラルの低い教員がいることをもちろん認めます(現場の人間ですから)。けれども、私たちにはこの(不出来な教員も含めた)「手持ちの人的資源」でやりくりするしかありません。

「手持ちの資源」でやりくりするというのは、とりあえず現に教育の崩壊をフロントラインで防いでいる「能力があり、意欲があり、モラルの高い教員たち」のアクティウ゛ィティを支援し、そのオーバーアチーブによって、制度上のもろもろの瑕疵のもたらす否定的影響をカバーするということです。

 教員たちが発明の才を発揮し、新しい教育方法を考案し、実験し、議論し、対話し、連帯することができる、そういった生成的な労働環境を作り出すこと。それが私たちに許された唯一可能な「教育改革」の方向だと私は思っています。》


●これまで一貫してこの国の教育行政は、教員を管理し、雑務を押しつけ、自由な時間を与えないという方向できていますから、内田さんのいう「教育改革」の方向に向かうには、個人個人の努力ではむずかしいでしょう。

 この国の危機を感じ取った政治家が思い切った改革をする人物を抜擢するなどする必要があるでしょうが、それはいったい誰なのか? あの寺脇研さんは文部科学官僚で地道に実績を積み上げて、「思い切った改革」をしようとしたわけですが、時代にマッチせず受け入られませんでした。

 それを考えると、一般市民側から、ボトムアップのかたちでの流れを作り出すことができることが、本当はいいのかもしれません。

 先を見据えた教育こそが、その国を維持、発展するためにいちばん大切なことなのだと私は思うのですが、そのような長い目でみた教育が、この国ではいちばん立ち後れているように感じてなりません。

 この本には、内田さんの教育に関する考えのすべてが網羅されていると言ってもいいのではないでしょうか。もっとも、教育をテーマに大学で講義をした内容をまとめたものなので、当然かもしれませんが。

 教育に携わる人たちはもとより、より多くの人に読んでもらいたい本だと思うのですが、なかなかそうもいかないでしょうから、少しでも多くの人に知ってもらうために、私から紹介させていただきたいと思います。

 内田さんは、「学校の先生たちが元気になるような本」を書こうと決めていたのだそうです。今時、そのようなことを伝えたいと思われる方がどれだけいるでしょうか。先生批判の本は数多ありますが、先生たちにエールを送るような本はあまりないでしょう。それだけで貴重な本と言えるかもしれません…。

 ということで、まずはあとがきから紹介させていただきます。


《私はとにかく「学校の先生たちが元気になるような本」を書こうと決めていました。どう考えても、教育にかかわる諸問題を解決する主体は、現に教室で子どもたちを前にしている教師たち以外におりません。「教師はダメだ。彼らに教育改革なんかできるはずない」と主張する人だって、本気で教育改革をしようとするなら、その「ダメな先生」たちを押しのけて、「そこをどけ、私が代わって教えるから、私のやり方を見てろ」と言う以外に説得力のある対案は出せません。ほらね。「教育にかかわる諸問題を解決する主体は、現に教室で子どもたちを前にしている教師たち」以外にないと言ったとおりでしょう。》


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