さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

内田樹

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 内田樹さんは、私に常に本質を提示してくれる、そんな存在です。
 内田さんの文章は、私の知らない言葉が飛び交いますし、「むずかしい」文章かもしれません。だから私は必死でついていこうとしています。思うに、本質を語るには、その人の語彙を駆使して語り尽くすわけですから、誰でも「わかりやすく」はならないのかもしれません。読み手側に、それを読み取る力が必要とされるくらいの文章でないと、本質を語ることはできないのかもしれません。

 内田さんのブログには、多くの人に知ってもらいたい、紹介したい文章が山ほどありますから、毎回紹介していられません(?)し、読みたい方は直接ブログを見ていただければいいのですが、今回は特に紹介したいと思う文章ですので、以下に抜粋させていただきます。
                        *
 http://blog.tatsuru.com/ より

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「学び」というのは、「学ぶことの有用性や意味があらかじめわかったので、学び始める」というようなかたちでは始まらない。
それは商品購入のスキームである。
「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。
「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。
そして、「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能だけ」では私たちは困難を生き延びてゆくことができない(それが「子ども」という言葉の定義である)。
私たちの社会が組織的に破壊してきたのは、子どもたちの中に芽生えようとしているこの「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
マイケル・ポランニーはこれを「暗黙知」と呼んだ。
 (中略)
私たちの知的操作・身体操作のほとんどは「暗黙知」によって「したごしら」されている。
意味や有用性(「これを学ぶと高額の年収が得られる」というような)によって子どもの学習を動機づけるということは、「暗黙知」の発動を止めることである。
初等・中等教育課程の相当部分は「暗黙知」開発のためのプログラムであるべきだと私は思っている。
そこで「今は何の役に立つのかわからないけれど、いつか自分の命を救うことになりそうなもの」を探り当てる感覚を練磨するのである。
それが「学び」の前段ということである。
これが整っていない子どもは「今学んでいることの有用性」(それは「それがもたらす年収の増額分」としてのみ把握されている)についての確信が揺るいだ瞬間に、自動的に学ぶことを止める。
私たちは過去30年にわたって、子供たちをそのように訓練してきたのである。
「あらゆる教育プログラムの効果はエヴィデンス・ベーストで示されねばならぬ、数値的にその効果が示せないような教育プログラムは無価値である」という妄想に日本の教育行政の当事者たちも教育評論家も教育ビジネスマンも取り憑かれている。
これは「病気」を通り越して、ほとんど「狂気」と呼ばねばならないと私は思っている。
                        *
(引用おわり)
 まさに、「学びの本質」が語られている文章ではないでしょうか。

 「意味がわからないままにすることの大切さ」は、私は平井雷太さんから学びました。その結果生まれたのが「らくだメソッド」であり、言わば平井さんが伝えたいことが凝縮された教材とシステムと言えます。

 「教えられなくてもできる」ように作られているからこそ、「やったことのないことに挑戦する力」が育まれます。目先の「学力」や「教育的効果」より、「困難を生き延びてゆく力」をひとり一人の子どもに身につけさせたい、そのような思いで作られた教材とシステムを私は他に知りません。

 らくだは算数・数学教材が中心です。「困難を生き延びてゆく力」を育むものは、世の中にたくさんあることでしょう。例えば、武道、例えば、音楽、また本来の学問の世界は基本的にそういうものかもしれません。

 算数・数学は、今の世の中を生きる者にとって、誰でも通らなければいけない道と言えるでしょう。どうせ通る道であるなら、単に一般にいう「学力」をつけるだけではなくて、その先にあるもっと大きな力を身につけられるものである方がいいでしょう。

 そうじゃないと、《「今学んでいることの有用性」についての確信が揺るいだ瞬間に、自動的に学ぶことを止める》のですから。日本では多くの人が、「大学に入った瞬間に」、あるいは「大学を出た瞬間に」、学ぶことをやめてしまっています。

 もっとも、そこまでわかってもらった上でらくだ教材をやってもらわなくてもいいのです。単に「学力アップ」を望んでのことでもいいのです。今の社会では、親御さんたちが目先の学力にとらわれてしまうのも、ある意味しょうがないではないことです。世に出される情報は、そのような「不安を煽る」ものばかりです。

 らくだを続けていれば、結果的につく「学力」は、他と比べものにならないくらいのものになります。逆に言うと、そのくらいのものでなければ、親誤さんはこの教材を子どもにやらせたいとは思ってくれなくて当然です。

 例え親御さんが、「その先にあるもっと大きな力」のことまで見据えていなくても、結果的に子どもたちにそのような力がつくのであれば、それでいいわけです。そのような子どもたちが、この世の中をいい方向に変えていってくれる、そのように信じて私は日々対応しています。

 例え小さな力でも、積み重ねたら大きな力になる、そう信じています。

 【「子どもを成熟させないシステム」を突き崩すには】より

《長い歳月をかけて「子どもを成熟させないシステム」を作り上げてきたのは私たち自身なのだから。それは対談の中でも述べているように、「未成熟な人間でも経営できる、操縦しやすく安定した社会システム」を完成させる努力として進められてきた。

ヴィジョンのない政治家、自己利益と自己保身しか考えない官僚、思考停止に陥っているマスメディア…。

これら劣悪な人的資源環境の下で、なおこれだけ高いパフォーマンスを示すことのできる社会システムを完成させた国は歴史上存在しない。これはたしかに世界に向かって誇ることのできる成果だと私は思っている。

 しかし、この「子どもだけでも経営できるシステム」が不調になったときに、いったい「誰が」メンテナンスを引き受け、「誰が」制度設計の青写真を描き直すのかという問題は答えのないまま残されている。私たちが今緊急に考えなければならないのはこの問題だろう。

 これまでのやり方を変えて、「日本人を一気に成熟させるシステム」などというものを考案してもしかたがない。国民全員を斉一的にある方向に向けるようなプログラムがなければならないという考え方自体が子どもの発想だからである。

 少数でも一定数の「大人」が継続的に供給されていれば、システムの「メンテナンス」や「再設計」の仕事は果たせる。その少人数の「大人」の育成をどうやって制度的に担保するのか。それが喫緊の問題だと私は思っている。》


●《その少人数の「大人」の育成》、そう、自分が根本的にやっていきたいのはそれなのだ、とこの言葉を読んでビビッときましたー。

 言うなれば、‘すくーるhana’という小さな場から、少しずつでも、微力でも、「大人」を継続的に供給していきたいのです。この国を揺り動かしていくようなことにつなげていくには、そんな小さな営みを続けていくことからしか始まらない、そう思います。

 さて、「大人」とは・・・「自分の頭で考えて行動する人間」、それだけだと思うのですがー。
 人間は、本当に自分自身の頭で考えることさえすれば、「戦争」につながる行為はしないーそんな信念が私にはあります。

《今、結婚に際して多くの若者たちは「価値観が同一であること」を条件に掲げる。二人で愉快に遊び暮らすためにはそれでいいだろう。だが、それは親族の再生産にとっては無用の、ほとんど有害な条件であるということは言っておかなければならない。

というのは、両親が同一の価値観、同一の規範意識を持っている完全に思想統制された家庭で育てられた子どもは、長じても教えられた価値観に整合する事象以外のすべてを「存在するはずのないもの」あるいは「存在してはならないもの」として意識から排除するようになるからである。

 スターリンや金正日の統治が非人間的であるのは彼らが「間違った社会理論」に基づいて社会を構築したからではない。「正しい唯一の社会理論」に基づいて社会を構築したからである。

そこでは、公式の価値観に整合しないもの(例えば支配者に対する異議申し立て)は「存在しないもの」として無視されるか、「存在してはならないもの」として排除される。「両親が同一の価値観を持つ家庭」というのは、比喩的な言い方を許してもらえれば、「北朝鮮化された家庭」のことである。

 思想統制された国家から知的なイノベーションや創造的な芸術が生まれることがきわめて困難であることに人々はすぐに同意してくれるが、構成員が同一の価値観をわかちあう家庭からイノベーティウ゛で成熟した市民が育つ可能性はきわめて低いということにはほとんどの人は同意してくれない。

 しかし、原理的にはこの二つは同じことなのである。
 私たちの社会から成熟した大人が消滅しつつあるのは、その当たり前のことを私たちが忘れたからである。》


●この文章を読んで、「ムムムムム…」と思ったのは私だけではないでしょう。
 一般的には、価値観が同じ両親の方が「子育てをしやすい」と信じ込まれているのではないでしょうか。ところが、「それは親族の再生産にとっては無用の、ほとんど有害な条件」と言い切られてしまうとはー。それどころか、「北朝鮮化された家庭」とまで言われてしまうとはー。

 でも確かに、そうかもしれない。両親共にいわゆる教育熱心で、例えば受験競争に煽り立てるような家庭であったら、子どもは息つく暇もないでしょう。

 私も子どもたちに対して、両親共に連れ立って責め立てることはなるべくしないように心がけています。時おりどうしてもしてしまう(やらざるをえない?)時もありますが、なるべく異なったスタンスで子どもに接する方がいいとは感じています。

 らくだの生徒たちに対しても同じです。親御さんが熱心な場合と、そうでもない場合、また全然そうでない場合、それぞれに応じて子どもとの距離、伝えることも異なってきます。

 例えば、やることになっていたプリントをあまりやってこなかった場合でも、子どもをいつも怒ってしまうような親御さんだと私は違う対応を取りますし、あまり怒らず平気でいるような親御さんだと私の方が少々怒りめで?接したりすることもあります。

 両親の「生きて行く方向」は同じ方向を向いている必要があると思いますが、「価値観」は同一ではない方がいい、そのことは今後も頭に入れて子どもたちに接していきたいと思います。

 また、「両親の価値観は同じじゃない方がいい」と聞くと、別な意味で「安心」もできますね…?。

 [5章 大人の作法 鷲田清一]から
 【陽水さんの「あいまいな」メッセージ】より

《そういえば、いい介護施設というのは、大声がしない。だれかを呼んだり、何かを指示したりする大きな声が聞こえない。そこには場面が煮つまりだしたときにかぎってたまたまだれかが通りかかり、ふと場面が変わるといった僥倖のようなことが起こりやすいのだろう。

 そういう場をどのように作るかに腐心したほうがいい。ちょうど子育てや教育において、子どもをどのように育てるかではなく、子どもが勝手に育つ環境をどのように作ったらいいかと腐心することのほうが大事なように。

 陽水さんは、何がなんでも白黒つける、そういう思考の危うさをこそはぐらかしていたのだと思う。》


●「いい介護施設というのは、大声がしない」ー
 この言葉で思い出すのは、ある児童養護施設でらくだ教材を導入してから、「館内放送することがほとんどなくなっていった」と施設の職員の方に聞いたことです。

 らくだは自律的な学習ができるような対応をしていきます。らくだをしに来る時間も何分やって終えるかも子どもそれぞれが指導者と話し合って決めます。

 らくだ学習が定着するにしたがって、子どもたちは学習のみならず、園内における生活面においても、自主自律的に行動していったことが、「館内放送をしなくてすむ」ことにつながっていったのではないかと思います。

 このことは、職員の方があるときふと気づいたことなのだそうです。そして、「いつのまにかとても静かで落ち着いた雰囲気の園になっていった」と感じられているそうです。

 「子どもが勝手に育つ環境」を、らくだを媒介として作って行ったと言えるのではないでしょうか。
 というか、らくだはもともとそのようなツールであるということでしょう。

《すべての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。
 私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する「敬意」がなくてはすまされぬのではないのか。

 発語は本質的に懇請である。私はそう思っている。聞き届けられることを望まないで語られる言葉というものは存在しない。そして、もし、その言葉がチョムスキーの言うように「すべての人がそれを耐え難いものとみなすような見解」であるならば、それだけ一層、それを提示するときに、受信者に対する敬意がなくてはすまされないと私は思う。

 言論の自由が問題になるときには、まずその発言者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。というのは、受信者に対する敬意がなければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。》


 【「受信者への敬意」あるいは「ディセンシー」】より

《言論の自由とは「場の審判力」に対する信認のことである。言論において、私たちが共有できるのは、それぞれの真理ではない(それは「それぞれの真理」であるという時点ですでに共有されていない)。共有しうるのは、私たち「それぞれの真理」の理非が判定される「共同的な場」が存在するということについての合意だけである。

 そのような「場」は「ある/ない」という事実認知的な言葉遣いで語られるものではない。「あらしめる/あらしめない」という主体の決意として、遂行的な命題として語られるものである。それは私たちが今ここで、身銭を切って、額に汗して、創りださなければならないものである。

 だからこそ、「日本には言論の自由がない」と書いた社会学者の言葉に私はつよい違和感を覚えたのである。

「言論の自由」とは「場の審判力に対する信認」のことであり、「私は私が今発している当の言葉の成否真偽を査定する場の審判力を信じる」という遂行的な誓言を要求する。

「言論の自由」はどこかにかたちある制度として存在しているわけではないし、誰かに向かって「作って、ここまで持って来い」と命じられるものでもない。そうではなくて、今ここで、私たちが言葉を発するときの、「場に対する敬意」を通じて成就するものなのである。

 正しさを担保するのは正しさではない(それは「私は正しい。なぜなら私は正しいからだ」という原理主義的な同語反復にしか帰着しない)。正しさを担保するのは成否の判定を他者に付託できるという人間的事実である。

この付託によってのみ、真偽成否の判定を下しうるような知性と倫理性に「生き延びるチャンスを与える」ことができる。信認だけが、人間を信認に耐えるものにする。

 そのことを私は「受信者への敬意」、「受信者への予祝」、あるいは端的にディセンシー(decency=礼儀正しさ)と呼んでいる。それは「呪い」の対極にある。》


●一読するだけでは難しい内容です(私にとって?)。でも、「受信者への敬意」という言葉は、私にもピンとくるものがあります。
 
 私は文章を書く際に、「これを目にするすべての人に配慮」しながら書いているつもりです。「配慮」は「配慮」ですが、私の文章を読んで傷つくような人も中にはいることでしょう。そんな場合は真摯に対応するだけです。

 文章というものは、読みたい人が勝手に解釈して読むものだとも思っていますから、誤解はつきものです。「それでも自分は書きたいのか?」を常に自分に問い続けなければいけないと思っています。

《「私は私が今発している当の言葉の成否真偽を査定する場の審判力を信じる」》ということにも共感します。自分で自分を判断するのではなく、「場の力を信ずる」こと、それは私も何事においても第一義的に考えているからです。


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