さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

寺脇研

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【これから求められる教育とは】より

宮台ー
《ライフスタイルの選択次第でいろんな格差が出てくるのはあたりまえ。いろんな格差を選べる社会が理想であり、選べないのが問題なんです。その意味で、僕は文科省の「ゆとり教育」は成功している部分もあると思います。昔でいう「底辺校」、いま「教育困難校」と呼ばれる高校をみると「ゆとり教育」はとてもよかったのではないでしょうか。

 底辺校の多くが制度改革で単位制になりました。かつて底辺校には無理やり押しこめられているという感じで鬱屈した子どもがたくさんいました。いまでは「自分たちが選んでその授業を受けている」ということになって、緩い雰囲気になっている。子どもたちを騙しているだけだという向きもあるけど、ガス抜きされたのはよいことですよ。

 彼らには「立身出世するぞ」とか「仕事で自己実現するぞ」なんて意欲はないかもしれない。でも、そんなモチベーションを持たない生徒にとっても、感情的安全が保障される居場所が必要です。かつて地域や家族が彼らを包摂できたのに、それができなくなったのであれば、学校が彼らを包摂することは、いいことだと思います。》

寺脇ー
《僕の経験でもこんなことがありました。
 いまは高校の教育内容が多様化しましたから、介護福祉を教える学校なんかもあります。その学校に、茶髪で山姥メイクをしているような女の子が入ってきた。他の普通科の高校は落ちてしまったんですが、せめて高校は出ていなくちゃいけないからというので、この学校に来たんです。

 介護福祉科だから当然、おじいさん、おばあさんのお世話をする。そのとき、おばあさんから「ありがとう」って涙を流して拝まれた。その瞬間、彼女は、「いままで17年の人生で、おまえはダメだ、クズだ、バカだ、とはさんざん言われてきたけれども、人に心から『ありがとう』と言われたのははじめてだ」と思ったというのです。「そうか、私はこれをやればいいんだ。これをやればみんな感謝してくれるんだ。クズと言われずにすむんだ」

 だから、成果が出ている部分もあるんです。私たちがずっと一生懸命考えてきたのは、そうやってダメだと言われてきた子どもたちでも、何か見つけるチャンスがなくてはいけない、ということなんです。》

宮台ー
《むしろ問題を感じるのは、東大に象徴されるような頂点の学校のほうです。本当の意味でのエリート教育がなされていません。寺脇さんがおっしゃったように、必要とされる能力は時代によって変わります。計算力が早いとか事務処理能力が優れているとかいうことは、必ずしもいまエリートに要求されていないんですよ。

 変化が激しい時代ですから、エリートこそ旧態依然ではなく創意工夫が求められます。これまでにないアイディアを観察によって編み出し、優れたコミュニケーション能力で周囲の人々を動員しながら自分のアイディアを実現し、モニタリングしながらたえず修正する。そういう力を持ったエリートが、残念ながらちゃんと養成されていません。

 教育困難校の改善に匹敵する大転換を、頂点の学校でこそ行う必要があるんじゃないでしょうか。くりかえしますが、どの学校にも一律の価値観を適用することはできません。だから「ゆとり教育はダメ」というのも「ゆとり教育はすばらしい」というのも頓珍漢です。寺脇さんがおっしゃるのは、両方含んだ意味でのメタ「ゆとり教育」ですね。

 「ゆとり教育」は「最低基準×フレキシブルな追加分」です。子どもの能力や適性やモチベーションを見きわめつつ教育内容をフレキシブルに構築する必要があります。社会にはいろんな人がいます。がんばらないやつはがんばらなくてもいいが、がんばりたいやつをサポートするシステムも必要です。実はそちらがうまくいっていない。》


●「頂点の学校」の問題‥今の教育体制では必然なのかもしれません。本当にもういいかげんに、「いい学校いい会社」信仰的な「受験のための学校」体制はやめにしませんか〜?ーと言いたいのは私だけではないでしょう。
 社会は大きく変化しています。単なる学歴に頼っていたら大変なことになると自覚しているのは企業の側の方かもしれません。自社の存続に大きく関わることですからー。

 「ゆとり教育」は「最低基準×フレキシブルな追加分」、これは私にとってわかりやすい定義です。この定義を基本に据えたものであったら、もっと「ゆとり教育」は理解されていた?ーいや、時代背景に大きく関わることなので、何であってもダメだったのだろうと今の私は思っています。

[第3章 ゆとり教育は間違っていたのかーミスター文部省が語る本音のはなし]から
【世界のなかの日本の学力】より

寺脇ー
《日本の子どもの学力は低下してはいません。しかし状況がいいわけでもない。
 つまり、100年経とうが200年経とうが同じ学力・能力が必要とされるという前提に立てば、学力が上がったとか下がったという議論もできます。しかし求められる能力は、現実には、10年どころか3年で変わるかもしれない。たとえば、20年前にコンピューターを運用する能力は求められなかった。コンピューターそのものがなかったからです。求められる学力は常に変化する。

だから、たとえば分数ができるかどうか、同じ問題の正答率を30年間比べてみてもあまり意味はない。本当に問題なのは、21世紀に、あるいは、現在から未来に向かって求められる能力が、現在の教育システムで子どもたちに根づくかどうか。そして、どうも根づいていそうにないので、カリキュラムを変えようということになったんです。》


【ゆとり教育はなぜ失敗したのか】より

宮台ー
《歴史をふりかえると、文部省の「個性化教育」は、時代に即した正しい方針だったんです。しかし国民の意識が変わらなかった。これを「国民の意識を変えられなかった」といえば文部省の責任になります。でも文部省は行政官僚制の一部署にすぎません。文部省にそこまで期待するのは本末転倒。われわれが愚かだったんです。》

寺脇ー
《だから「ゆとり教育」というのは、二段構え、三段構えの改革になりました。1977年の方針がうまく行かなかったからです。
 理由のひとつは、宮台さんがおっしゃったとおりで、77年にカリキュラムの発想を変えたことをみんなが理解してくれなかったことです。もうひとつは、構造が変わらなかったことです。つまり知識重視・系統的学習重視の時代と学校の構造が同じだった。

 考えてみれば、世の中の経験がまったくない学校の先生が、「世の中はこうなんだ」とか、経験主義で行くとか言っても説得力が全然ない。しかし、リクルートで長年働いてきた藤原和博さんみたいな人が先生になって、「この街でハンバーガー屋さんをつくるとしたら、どこがいいかわかるか」と言ったら、ものすごいリアリティがある。

 それで77年のあと、92年と2002年に学習指導要領を改定していますが、とりわけ2002年は、構造まで変えてしまうことにしたのです。
 2002年以前には、藤原さんのような外部の人が校長になるなんてありえなかった。いまだったらベネッセにいた人でも塾の先生だった人でも学校の先生になれる。校長にもなれるし、講師として来るのもOKです。また、そういう決定は親や地域住民に対して情報開示され、いわばガラス張りにした。

 だから2002年の改定はハード面の改定なんです。いくら方針を決め、教育内容というソフト面を変更しても、構造を変えないとダメだとわかった。学校の構造を変え、しかももっとオープンにしたら、住民や親も、自分たちも教育の責任者だという認識をもたざるをえなくなるだろう。それでようやく「ゆとり教育」も実績があがるのではないかと思ったんですね。》


●要するに、各学校の校長の一存で、どんなことだってできる、ということでしょう。それが、藤原和博前和田中学校長により証明された、というか、彼が先鞭をつけたということになるのでしょうか。
 せっかくこのように制度的には「開かれた」状況になってきているのだから、各地域の校長先生たちには、地域の人材を活用するシステムをどんどん作っていってほしいと私は思っています。

 地域には、「子どもたちのためならやってやろう」という気持ちを持っている方々が多く存在しているはずです。どんな仕事でも、どんなボランティア活動でも、ちゃんと話を聞いてやりとりをする機会を設けることができれば、それは貴重な「学びの場」になるはずです。そのような方々の「活用の仕方」がわからない先生のために、「インタビューゲーム」はあるのですがー。

 他にも、学校図書館を地域のお母さんたちに管理運用を任せて活性化させたり子どもたちの憩いの場にするとか、隠居しているけど元気なおじいちゃんおばあちゃんたちに校庭の芝や草木の管理をしてもらうとか、学校にもっといろいろな人が出入りするようになると、閉鎖空間に風が吹き込み、それこそ学校全体の風通しがよくなるのではないかと私は思っています。

 私だって何でもやりに行っていいんですが、いきなり「らくだ教材やれますよ、ジンベなんていうタイコがあるんですがー」等と言って尋ねていっても怪訝な顔をされるだけでしょう。そもそも先生や学校全体にそのような異質?を受け入れる空気がないとどうしようもないことですからねー。校長先生が「開かれた学校」を本気で考え、地域に伝えていってくれないことには、動きようがありません。

 藤原和博前和田中校長は、任期5年で辞め、今は大阪府教育委員会顧問となっているようです。ただ、通常地域の学校の校長は、2〜3年で異動しているようです。これだと、抜本的な改革はなかなか難しいでしょうから、まずこの点を教育委員会なり何なりが考えていかないといけないんでしょうね。 

※対談者紹介
●寺脇研:1952年生まれ。東京大学法学部卒業後、文部省(当時)に入省。広島県教育長、大臣官房審議官などを歴任し、文部省・文科省の顔として「ゆとり教育」を推進。2006年に退官し、現在は、京都造形芸術大学芸術学部教授、日本映画映像文化振興センター副理事長。映画評論家としても有名。著書に、『格差社会を生き抜く教育』(ユビキタススタジオ)『それでもゆとり教育は間違っていない』(扶桑社)『官僚批判』(講談社)など多数。

[講義その12 マスコミは弱者の敵である]から 【メディアが書き立てるルサンチマン】より

《メディアは、解決しないほうが儲かるから、解決しようとはしない。ドキュメンタリーを作って不安をあおるが、NHKや日テレからは解決策が1つも出てこない。評論家も不安はあおるが解決策を提示しない。結局、不安をあおる方がカネになるのは、【講義その1】で書いた百マス計算で商売する出版社と同じことだ。》

《それに比べて巨大組織メディアの側には、貧乏を楽しむという発想は皆無であり、貧乏は苦しいことだとなっている。それはそうだろう。金持ちの側からすれば貧乏は忌むべきものでしかない。メディアはひたすら深刻さを伝え、負け組をどんどん追い込んでいる。そして、思考停止の視聴者たちは、半分が「かわいそう」、半分は「彼らワーキングプアにも問題がある」とか「甘えている」とかの反応で終わってしまう。》

 【メディアに思想なんてない】より

《百マス計算で頭がよくなるはウソ。もちろん百マス計算をやるとそれによってバカになるというのもウソ。この一連の講義で私が言いたかったのは、百マス計算で頭がよくなるとか、百マス計算は子どものためになるとか、他人やメディアに乗せられて自分の頭で考えずに信じきっていると、思考停止=バカになってしまいますよ、ということなのである。

 だから、この本にあることも、1つの情報として受けとめ、自分の頭で整理していただきたい。寺脇の言うことを信じきってしまったりしたら、それも思考停止=バカにつながるのだから。》


[あとがき 講義を終えて]から 【さぁ、常識を捨てよう】より

《イスラエルのガザ地区攻撃も、ハマスの放ったロケット弾でイスラエル人が亡くなったことへの報復で始まった。それはまた、自衛のために先制攻撃をする発想につながっていく。過度な報復感情は、裁判の問題だけでなく、戦争につながる危険性をも持つのである。

 報復感情は怖い。私は、たとえ自分の最愛の人が殺されても、「犯人が憎い」とか「死刑にしてほしい」とか言うつもりはない。そう京都造形芸術大学の授業で話したら、間髪を入れず質問を発した学生がいた。「じゃあ、先生は何て言うんですか?」。いいタイミングの、いい質問だ。私は答えた。「そうだね……。『悲しい! 悔しい! 残念だ!』と言うだろうね」。学生は納得してうなずいた。それでいいのではないか。憎しみや報復感情は、自分の心をも荒ませる。

 常識人を気取って、被害者の報復感情に同情し「かわいそうに」などと言っていると、戦争を起こしてしまうことにさえなりかねない。

 本書は、そうした常識人に染まった大人たちに贈る「物事の考え方」の本である。願わくば、本書を読んで冷静な判断力をつけていただければ幸いである。さぁ、まずは常識を捨てることから始めよう。

 そして最後に、自分にではなく、他人に何ができるか、そのことをみんなが常に考えていれば、この国はもっとよくなるはずだと強調しておきたい。》


●「常識」と言われているものを一旦捨て、「自分の頭で考える」…私がしようとしてきたことであり、多少はしてきたことでありー。それは自由に生きるためのプロセスなのではないか、と感じるこの頃です。

 【低賃金が「かわいそう」なのではない】より

《日雇い派遣労働者で問題なのは、やりたくもない仕事をやらされていることや、仕事の継続性を持たせてもらえないことだ。やりたくもない仕事を一生懸命やり、昨日よりうまくできるようになっても何の評価もされない。正社員なら仕事ができるようになれば褒められ、給与・人事などの待遇に反映される。しかし、日雇い派遣労働者は周囲から「不足の労働力を補う作業員」としか見られておらず、働く意欲を維持向上させる満足感を得る機会がまったくない。

「ワーキングプアはかわいそう」という人たちは、カネの話だけに焦点を当てがちだが、はたして問題はそこにあるのだろうか。給与手取額が10万円しかないから「かわいそう」だと言うが、そうではないだろう。働く喜びは給与の多寡と必ずしも相関関係にない。考えてほしい。仮に月給100万円もらったとしても、毎日、朝から晩まで穴を掘り、ある程度掘ったらそれを埋め返し、終わったら再び穴を掘る…という不毛な作業をやり続けることは、はたして幸福だろうか。

 江戸時代研究の第一人者である田中優子さんは、著書『カムイ伝講義』のなかで、貧しいとされる江戸時代が実は「いつでも仕事があり、汗水流して働き、多くの人が収入を得られるという豊かさ」を持っていたと書いている。その収入は少なかったろうが、幸福感は現在のワーキングプアより大きかっただろう。田中さんは「格差社会とは、自分の生まれ育った環境に拘束され、他の暮らしを想像できないようになる社会だ」とも書いている。

 つまり、賃金が少ないことが「かわいそう」なのではない。労働の喜びを味わえないことこそが正されなければならないのである。》


●労働の喜びを味わえなくても、それなりの賃金を得ることができれば、幸福感はあるーかな?
でもそんな労働は長く続ける気力を失わせてしまうことでしょう。

 私の場合、低賃金であっても、労働の喜びがあれば、きっと満足に暮らしていくでしょう。
ただそれは、生活をしていくに困らないだけの賃金でありさえすればです。

 今はそのどちらも失っている人が多いこと、そのような社会に日本がなってしまったということが、大問題なんだと思います。


 【体験することで価値観は変わる】より

《今後の対策として、厚労省が何かやるとしたら、若者たちに一部上場企業の正社員以外の職業がたくさんあることを知らせ、それらの職業への道筋を示すことだろう。たとえば、農水省と連携し、農業、漁業、林業への就業支援をすることもその1つだろう。職がないからそこへ行けではなく、自ら「やりたい」と感じる仕組みを作らなければならない。と同時に、その仕事で一本立ちして生活できるようになるまでの具体的支援の仕組を作る必要がある。

 パソナ仕事大学校に来ている若者は、1週間程度の農業体験をするだけで大きく視野が広がる。現在はたまたま農業を体験しているが、もちろん漁業でも林業でも、あるいは福祉施設での介護の仕事でも、そのほかどんな職業でもいいから体験してみるといい。

 そうすることで、いままで自分とはまったく縁のない仕事だと思っていたものが、実際には素晴らしい仕事であることに気づく。1週間の体験でも価値観は転換する。一部上場企業の正社員しかないと思い込んでいたのが、ほかにもいろいろあるのだと気づくだけの話だ。》


●さまざまな仕事に飛び込んでいく若者は、増えているのではないでしょうか。でもそのような情報は限られているかもしれないので、いろんな仕事で生き生きと働く若者たちをもっともっと紹介する媒体があっていいように思います。

 以前、『THE BIG ISSUE』で、林業の現場に飛び込んでいった若い女性の記事が載っていて、大型機械を操る姿に結構驚きました。「へ〜え、こんな仕事をしている人もいるんだ」とー。

 そうやって、自分の身近にいろんな仕事をする人が実際に増えていったら、「いい学校に行っていいところに就職する」ことだけが人生じゃなく、さまざまな人がいろいろな生き方をしていっていいんだと自然に思えるようになるのかな、と感じています。

[講義その11 日雇い派遣は「かわいそう」か]から
 【「かわいそう」は死語にしろ】より

《「かわいそう」という言葉が日本中に蔓延している。何を見ても「かわいそう」「かわいそう」である。私は以前から言っているが、この世の中にかわいそうな人なんていない。

 たとえば、障害者はかわいそうではない。不自由なだけだ。その不自由さを取り除けばいい。目の不自由な人がかわいそうなのではなく、不便なのだから目が不自由でも歩けるよう、点字プレートを取りつければいい。手助けをすればいい。

 かわいそうというのは感情だ。かわいそうだからバリアフリーにしてあげる、と考える。しかし、「してあげる」わけではない。

 もっと論理的に考えるべきだ。不自由な状態はよくないから自由にすべきだと論理的に考え、行動に結びつける。「人が自由に町を歩けるようにするためにはどうしたらいいか?」「それには段差をなくすことだ」と考える。バリアフリーにするのは、目の見えないかわいそうな人を救う行為ではなく公共の福祉なのだ。すべての人にとってよい行為だ。そういう考えを持つ子どもたちを育てるために総合学習を始めた。百マス計算では、この考えは育たない。

 現在の日本では、結局、優位なポジションに立つ者が下位の者に対して「かわいそう」と言って勝手に哀れんでいるにすぎないのである。そのうちの多くの人は「かわいそう」と言うだけで、「かわいそう」な人たちのために、具体的に何か考えるとか、何かすることはない。言っただけで終わり。すなわち「かわいそう」とは都合よく思考停止できるスイッチのようなものだ。
 それでは、何の解決にもならない。》


●喘息で苦しんでいる自分の子どもを見ているとき、私はどんな気持ちになっているかー?
 「かわいそうだなぁ、こんな小さいのにこんなに苦しんで…」と、思う。
 でもやっぱり、「かわいそう」で留まっているわけにはいかない。
「これはお前さんに与えられた試練なのだから、乗り越えていかないといけないことなんだよ。
 だからいっしょに乗り越えていこうよ」
 そんな気持ちでできる限りのことをするだけ、かな。

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