さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

寺脇研

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《いまの子どもは、理科に興味をもたないと言われるが、それは科学が必ずしも善でないことが理解として定着しているからだ。50代以上の世代が「自分たちのころはみんな理科が好きだったのに、いまの子はなんだ」などと話すが、それは現在の状況を考えればむしろ当然。心配なのは50代以上の人たちが科学の功罪、とくに罪の部分について無神経なことだ。こちらの方が問題あると思う。

 たとえばiPS細胞の研究が進み、病気に冒された臓器などが全部再生できることになったらどうなるか。カネさえ払えばみんな死なない。そのとき食料はどうなるのか。医療費はどうなるのか。そうしたことを考えると、科学の有限性に気づかざるをえない。

 そこからは科学の力ではなく、哲学とか人間観の話だ。発達した延命医療装置を使ってサイボーグみたいになっても生きている必要があるのか。その意味では、理科離れは大いに結構。理科から離れて、哲学的にそうした問題を考えるべきだ。理科離れしている子どもたちのほうがはるかに健全だといえる。

 作家で平和運動家の小田実(1932〜2007)から、私は多くのことを学んだが、その晩年のエッセイで、韓国の伝統思想「文史哲(ムンサチョル)」を紹介した文章に感銘を受けた。小田によれば、「文史哲」の「文」は広範な意味での文学。「史」は歴史認識、「哲」は哲学、思想。この3つが土台にあって人間のまともな「知」は成立するというのである。

 現在のような混迷した時代には、20世紀までは通用した従来の発想を変えなければならない。そのときに、「文史哲」の土台に帰って思考することには大いに意味がある。科学も政治も経済も、まず土台から考え直してみて、その上で新しい在り方を見定めてはどうだろうか。

 科学なしで生きていけないのは当然である。だが、その科学の在り方を、文学、歴史、哲学の見地から考えていけば、21世紀における方向性が見えてくると思うのである。》


●寺脇さんは、文部官僚の仕事をしながら、プライベートでは映画を欠かさず観たり、小田実を読んだりしていたんですね。このような中で独自の視点を持ち、教育改革に邁進していったのだろうな、と想像できます。

 「文史哲」、私も頭に置いておきたいと思います。
 国会では臓器移植に関する法案が通ったようですが、この問題はまさにそれぞれに人の哲学の領域に入ってくることでしょう。党議拘束をせず、議員それぞれの自由意志で投票したとのことで、賛成にしろ反対にしろ、個々の哲学が反映されて興味深く思いました。

 『闇の子どもたち』でも臓器移植はテーマになっていることでしたが、この問題は本当に難しい。一概にどちらがいいなんて言えないことだということだけは言えるでしょう。

[講義その9 日本は科学技術立国をめざすな]から 【損得以外にある「気分のよしあし」】より

《昔、私がNHK教育テレビの『真剣10代しゃべり場』という番組に出たときのことである。若者に、「なぜ、ゆとり教育をやるのか」と聞かれた。「生涯学習社会を作って、差別のない、みんなが認められる社会を作りたい」と言ったら「ウソつき」と言われた。「あなたは男で、健常者で、育ちもよく、肩書きも収入もある。なぜそんな人が差別をなくすというのか。差別があったほうが得だろう。自分が損することを一生懸命やる人がいるなんて信じられない」

 子どもの不信感はよくわかる。日本の大人は自分さえよければいいと思っている人が多く、それに傷ついた子どもが『しゃべり場』に集まっていた。

 私はそのとき、「損得」のほかに、「気分のよしあし」のあることを説明した。得だから気分がいい、損だから気分が悪いというのは経済的価値観だ。だがそのほかに、得だけど気分が悪い、損だけど気分がいいということがある。

 文化というファクターが入ってくれば、「ボロは着てても心は錦」という状態が出てくる。金持ちでも鬱々とした思いで暮らすこともある。
 それを地球規模で考えると、貧しいうえに幸せでない人がいることをどう思うか。知らないうちはいい。だが、知ってしまった以上、目をそむけていたら、自分は豊かで幸福で得だけれども気分悪く生きていかなければならない。》


●私はこのときの「しゃべり場」を見ていたと思います。寺脇さんは子どもたちと目線を同じくして、わかりやすくまた子どもたちに共感しながら話そうとしているにもかかわらず、子どもたちは寺脇さんの話を真に受けようとしない姿に、私は少々戸惑いを覚えていました。

 そして、それほどまでに子どもたちの大人一般に対する反感は強く、またきっと傷つけられながらきたのだろうとも思いました。

 寺脇さんは、子どもたちにとっては文部科学省のいわば代表として受け止められていたのでしょうから、学校に対する反発は即、文部科学省、すなわち寺脇さんへの反発となり、寺脇さんが何を言おうと聞く耳を持たないという感じでした。

 今は、「語り場大学」という場を持って、大学生を中心とした若者たちとそれこそ「語り合う」ことのできる場を作っています。文部科学省のお役人という肩書きが取れたからこそ、若者たちに受け入れられたのかもしれませんね。


●「あなたにとっての幸福とはどんなことですか?」ともし私が尋ねられたら、「(自分以外の)ヒトが幸福になることが、結局自分の幸福」と、今現在四十数年生きてきた私は答えるかもしれません。

 自分自身が満たされることはもちろん必要で、その前提の上に成り立つ答えなのかもしれませんが、幸福であることの本質はそのようなところにあるのじゃないか、と感じます。

 こんなこと、若い人にとっても通じませんね。「何カッコつけてんだ〜」と思われるのがオチでしょう。でも、そうなんだなぁ。ここらへんは、寺脇さんの考えと共通しているかもしれません。それが傍から見て損をしていると思われたとしても、自分自身にとっては心の糧となり、決して損とはなっていないはずです。

[講義その8 平等なんて、くそくらえ]から 【必要なのは最低生活保障】より

《所得格差が問題になっているが、これはそもそも不平等の問題だ。不平等を平等にしようとする声が強くなるあまり、社会はどんどん不自由になっている。
 たとえば、生活保護受給者に対し、「働いている自分よりカネをもらうのはけしからん」という意見がある。働いているA氏の年収より、生活保護を受けているB氏のほうが年間受給額が多い。それが不平等だと言うのである。

(東京の最低賃金)
・1日 5597円
・月額 12万3134円(22日労働)、手取り額9万8000円
・年額 147万7608円(22日×12か月労働)、手取り額117万6000円

(東京の生活保護費)
・月額 14万1184円
・年額 169万4208円

 数字だけ見ると、生活保護費のほうが年額が高い。だが本当は人間には働く自由というものがあり、A氏はその自由を享受しているのだから現在の所得でよしと思うべきだ。生活保護受給者(不正受給者は除く)は、体が不自由であったり、母子家庭だったりして働く自由を享受できない。その代償としてカネをもらっている。

 働いたらそれがどんな仕事でも常に賃金を平等にしろという意見まである。あれはおかしい。憲法に「勤労の義務」が明記されているから、日本国民は全員働かなければいけない。だが、賃金は違っていいはずだ。もちろん働いていても賃金が低く生活できない場合がある。それは生活最低保障という考え方でやっていく。すなわち低賃金が問題なのだが、賃金を一律に一定程度引き上げて平等にするのではなく、賃金があまりにも低くて生活できなかった場合の生活保障をきちんと考えるべきだ。》


●「働くよりも生活保護費の方が高いのだから、ヘタに働くのは損」という意見を私も聞いたことがありますし、実際にそのようなことになっているので、私もどうなんだろうと思っていました。その意見を反映するかたちで、生活保護費を下げる自治体も出てきていると聞きます。

 確かに、働くより生活保護費の方が高いのであれば、働かないという選択をする人もいるだろうと思いつつ、生活保護費を下げることに関しては、引っかかりが私の中にありました。でも今回、寺脇さんの考えを知り、「働くよりも生活保護費の方が高い場合もある、でもそれはそれでいいのだ」と思えるようになりました。

 寺脇さんはベーシック・インカムについて特に触れていませんでしたが、やはり私はベーシック・インカム的な制度がきちんと整っていることが一番重要であり機能的なのではないか、という思いを深く持ちました。議論をこちらの方にシフトしていかないと、この国は便乗してどんどんと弱者に対する配慮を切り捨てていこうとします。

 私は昨年の収入が前年を下回りました。当然、国民健康保険料も下がるものと思っていました。しかし、2〜3日前に届いた国民健康保険料の通知を見て驚きました。昨年より上昇しているのです。まだ詳しく見ていませんが、保険料の計算方法が変わったとしか思えません。

 収入が決して多いと言えないであろう私のような者から、国民健康保険料としてその収入の2〜3割を納めなければいけないというこの国はいったい何なんだろうと思います。聞くところによると、札幌はまだマシで、大阪あたりは4〜5割持っていかれるとのことで驚きます。そんな費用を納められない家庭が出てきて当然であり、その数は増えていっているはずです。

 今回は本当に怒りが湧いてきました。この怒りをどこにぶつけるかー。選挙しかありません。

[講義その5 団塊世代は時代の徒花]から
 【団塊世代はぜひしゃかい貢献してほしい】より

《団塊世代を糾弾する気はない。だが、カネを出せと言いたい。税金を払うのはもちろんだが、あらゆる場面で自分がカネを出すという考え方に立つべきだ。
 学生のころは親のカネで学生運動をやりに行き、バブルのころは会社のカネで遊んだ。ならば、いまこそ自分の金を出せと言いたい。

 最近、団塊世代が東京周辺にガレージハウスを買っているという。そこに自分の趣味を持ち込む。たとえば鉄道模型を楽しんだり、DIYをやったりしている。つまり、パーソナルな金の使い方が始まっている。

 団塊世代が自分のために金を使ったら、もう日本は終わりだ。人のためとまでは言わないが、自分も含めたみんなのためにカネを使うべきだ。悪口めいたことばかり言ってきたが、団塊世代はそれより少し年少の私たちにとってはお兄さんお姉さん世代だ。あなた方がここでカッコよくお金を使ってみせてくれたら、同じく戦後の経済成長の恩恵を受けてきた私たちだって喜んで見習う。

 たとえば私は2008年、1000万円近く出して芝居をやった。大好きな芝居がありそれを観たいし親しい人たちにも観せたいのだが、小さな劇団の公演だから資金が乏しい。ならば自分の観たいもののために自分がカネを出して成立させようと思ったのである。

 結果として、喜んだのは私だけではない。資金難で公演ができなかった劇団の面々は張り切り、その芝居「激弾BKYU」の『グレイッシュとモモ』を観た大勢の人たちにも感動してもらえたのである。アルバイトで食いつなぎながら芝居への夢を捨てずにやっている役者たちから、まだ芝居を続けていく勇気が湧いたと言われたのも、うれしい。公演を手伝ったり、応援ダンサーとして出演したりした京都の学生たちから、一生の思い出だとか、人生が変わる契機になったとかの言葉を聞いたのも、予想外の成果だった。

 団塊世代諸兄姉も、ガレージハウスのなかで1人で鉄道模型を楽しんでいるのではなく、小さな鉄道博物館を作ったらどうだろう。バブルのときに、絵を買って自分だけで見て、ほかの人には見せない人がいたが、そんなのは愚の骨頂。そうではなく、絵を買ったらギャラリーを作って無料で人に見せるのだ。》


●「自分がやっているからみんなもやれ!」というふうに聞こえなくもないので、そこのところはどうなのかと思ったりもします。でも自分で実践もしないで他人にとやかく言えないでしょうし、多少挑発的に言うのは寺脇さん流のやり方なのかもしれません。

 確かに、おカネを儲けられた方々には、文化的なことに多くの出資をしてほしい。昔から文化というのは、そのようなかたち(持つ者が持たない者へ援助する)で培われたきて側面があるとも思います。

 でもやっぱり、寺脇さんの文章を読んで、「じゃあオレも出資しよう!」なんて思われる方はいないのでは? そう思われる方はすでにやられていることでしょうし。

《頭がよいということは、自分の経験や習慣の上に立って相手の状況を判断する力を持つと言い換えてもいい。異質の存在を知り、それを理解して、互いに違った者同士が意思疎通する行為を文化という。皆同じという画一性の下では、そもそも文化なんか成立しない。仲間内の論理しかないうちは、文化の広がりはない。

 その意味でいえば、一律に行う作業である百マス計算は非文化的行為だ。文化的行為はスピードなどに価値をおかない。作文を10分で書くという授業が一部でウケているが、それで作文が上手になるわけではない。締め切りを何日も過ぎても、いい小説なら編集者はそれを獲得しようと待つ。文化とはそういうものだ。文化は効率と関係ないところにある。

 忘れてはならないのは、21世紀は文化を重視しない限り生き抜いていけないということだ。そのときに非文化的行為の典型である百マス計算をやることにどれくらいの意味があるだろうか。

 20世紀までのように人類が常に進歩し経済成長していたころは、貧富の差はあっても、貧のほうも上がっていけると思っているから、さしたる文句もなく暮らしてきた。ところが、進歩や成長はもう頭打ちだ。

 格差問題は、日本社会でも深刻になってきた。世界規模では、貧しい国々が自分たちも我慢して頑張ってアメリカのような豊かな国になろうと思う時代は終わり、もうアメリカのようになるのはとうてい無理だろうととうに気づいている。9.11同時多発テロが起こった背景の大きな要因の1つには、その意識変化がある。

 20世紀の日本は、景気がいいときには文化にカネをかけるが、不景気になったら文化どころではないという意識でやってきた。だが、実は不景気なときこそ文化が必要なのである。経済で元気になれないのなら、文化で元気になるしかない。「ボロは着てても心は錦」とか「貧しいけれど楽しいわが家」みたいな発想がないとこれからは生きていけない。》


●「ボロは着てても心は錦」、「貧しいけれど楽しいわが家」・・・
 まさに私はこのような生活をしている、あるいは目指していますがー。だからこそ、私はジンベ&ダンスをかれこれ20年来続けてきているのかもしれません。

 これは文化的行為なのかー? 「互いに違った者同士が意思疎通する行為」を文化と言うなら、まさにそのような行為をしているし、それが目的と言えるかもしれません。
 確かに、世は不景気でも、仲間との練習は変わらず続けていられるし、街おこしや地域おこしのイベントへも呼ばれることが多くなってきています。そしてそのような場で、「互いに違った者同士が意思疎通する」ことが最高の喜びです。

 昨日日曜日も、メンバーの住む静内へ行って、今月28日に迫った名寄でのイベント演奏の練習をしてきました。1時間叩いて踊って、私たちの持っているものすべてを出し切るライブとなります。さすがに練習でもヘロヘロになりましたが、これだけ全力を振り絞ってやると爽快感があります。

 名寄およびその近郊の方がいらっしゃいましたら、ぜひお出でください。

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