さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

日垣隆

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 【ありえたかもしれない人生】

《学校の力で「特殊な人」を呼んで話を聞く、ということができないとしても、それに代えて深く知る方法は3つある。
1、自分で会いに行く
2、そういう人や事について書かれた本を読む
3、自分でそのような立場に身を置いてみる

 何かに興味を抱いて深く知る、という行為の基本は、1と2と3の組み合わせなのだ。
 先ほどの1が取材、3が実行であるとすれば、2は疑似体験ということになる。
 疑似体験とは、ウソの体験のことではない。
 ありえたかもしれない人生を頭の中で描いてみることであり、一つの人生しか歩めない我々が、たくさんの可能性をリスクなしに検討できる場が読書なのである。 
 若い人たちがあまり本を読まなくなっている、とも言われる。
 それが本当なら、むしろビッグ・チャンスなのではないか?》

●読書の意義がよ〜くわかりますね。あ、だから自分もいっぱい本を読みたいんだ、と思いました。
 時間とお金があったら・・・ひなびた温泉場で日がな一日本を読んで過ごしたい。

 【いい時代だよなあ】

《人が読書をしなくなるには、1卒業、2結婚、3育児の三段階があると言われてきた。が、そもそも1の前に読む習慣のない人は、それより悪くなりようがない。
 もともと読まない者は、ずっと読まず、多少は読んでいた人も、いずれ読まなくなる。

 本は、エリート・サラリーマンが読んでも、普通の小学3年生が読んでも、おもしろいものはおもしろい。よほどくだらない本でも、1冊の分量のなかで「そのすべてがくだらない」というのは珍しい。俺が知る限り、どんな本でも役に立つ。もっとハッキリ言っておけば、くだらない読書は、ほとんどオノレの責任なのである。

 しかも、ただ見ているドラマや、ただ聞いている授業と違って、「終わりまで読む」かどうかは、すべて自分自身の力量にかかっている。
 もっと本当のことを言えば、読書は魅惑的な毒である。中毒性があるから、「本なんか読むな」という親や教師がいたら、それはそれで正しい。

 書物は、好奇心や探究心や「おもしろがる心」がなければ、絶対に終わりまで読めない。たくさん読むと、簡単に親や教師を超えてしまう。ベストセラー(その他大勢が代わりに選んでくれた本のこと)以外は、充分な智恵がないと自分で選べない。

 世界的指導者で、本を読んでいない人はいない。どれだけ大勢の人からレクチャーされようと、どんなに波瀾万丈な人生であろうと、たかが知れている。

 本を通して、無数の先達が智恵をさずけてくれる。要するに、「自分の小ささ」を思い知らせてくれる。自分がいかにチッポケな人間か。それを自覚せざるをえない(ただし向上の仕方が学べる)のが読書という行為である。
 自分がチッポケな人間で、長い発展途上にいるという事実を知らない人は、つまらない。そういう人との交際は、すぐに飽きる。

 早い時期から日本人の識字率(字が読める率)は世界トップクラスだった。1万円札の「顔」である福沢諭吉が書いた『学問のすすめ』(明治5年から出版開始)は、300万人もの明治の庶民が読んだ。当時の人口は3000万人でしかない。

 今は、そういう時代ではない。
 最近の若者が、本を読まなくなっているのが事実だとしたら、簡単な努力で、人より抜きんでることができる、ということになる。それに現在は、日本語で読める本だけで毎年7万点も出ているのだ。
 俺は、自分の子どもたちに「いい時代だよなあ」と、いつも言っている》

●いやぁ、読書ってこんなに「深い」ものなのだ、とあらためて思わせてくれました。
 私も子どもたちに「いい時代だよなあ」と言っていこうーっと。

 【才能の磨き方】

《平凡な者は大学へ行ったほうがいい。ただし、負を転じて正にできるパワーの持ち主(とんでもない負けず嫌い)は、どのような選択肢でも構わない。

 人と違ったことをするのは、学校を出て才能を磨き上げてからで充分間に合う。たとえ学校がつまらなくても、その内外で楽しいことをたくさん見つけられればいい。その「見つけ方」こそアイデアの源泉であり、アイデアをたくさん実行できれば、それが才能なのである》

●う〜ん、これって納得。「負を転じて正にできるパワーの持ち主」は、「とんでもない負けず嫌い」ということだったのか!私は自分がそうだと自覚していないんですが、どうなんだろうかー。

 【小さな自分と格別な自分】

《確かに、自分はちっぽけな存在であるけれども、キミにとってキミは唯一の自分である。この広い地球上で、「ちっぽけだけれど唯一」などという存在がほかにあるだろうか。「自分」という存在は、どう考えても別格なのだ。

 だからこそ、自分はどういう時代に生きており(歴史の軸)、またどのような環境のなかに生きているのか(同時代の軸)を、よく知る必要がある。そうしないと、闇雲に前に進めない。教養は、海に浮かぶ船にとっての羅針盤を駆使する技術のようなものだ。

 たとえどんなに船がちっぽけでも、どのような荒波が来ようとも的確な航路をとれる者が、遭難せず目的地に着くことができる。
 教養は、半人前にはなかなか身につけづらい。だから試験がある。試験という仕掛けに頼って、勉強するというワザを人間は考え出した。
 では、試験は何の役に立つのか》

 【逃げてはいけない】

《現実の諸問題を解くための礎として、学校の試験がある。高い点数をとる必要はない。繰り返すが、肝心なことは、試験から逃げないことだ。

 試験を構成する「出題範囲」と「期日」は、仕事を構成する「注文内容」と「納期」のモデルなのである。(答えが決まっている)試験をクリアできないということは、(答えを自分で見つけ出す)仕事などクリアできるわけがない、ということになる》

●「教養」と「試験」の関係がクリアになりました。学ぶということ、勉強するということの意味も、これまで以上に深まりましたし。
 「(答えが決まっている)試験をクリアできないということは、(答えを自分で見つけ出す)仕事などクリアできるわけがない」、というのもなるほどなぁ。
 「基礎学力」あってこその「応用力」、ということもできるのではないでしょうか。なにごともそうなんだろうなー。

 5月に1回この本の紹介をしましたが、その続きをしばらくしたいと思います。

 【「自立」は正しい目標か】

《老後に、詐欺のような年金と僅かな貯金と猫の額のような土地をもっていても誰も訪ねてこない「自立した人」と、短期間ならいつでも泊まりにいける知人や友人たちをもって「依存している人」と、どちらが楽しそうか。
 どれだけたくさんの人に気持ちよく依存して生きていけるようになるか。それが教育の目的とさえ言っていいのではないか、と俺は思う》

●ものすご〜い逆転の発想というか何と言うかー。基本的に、内田樹さんの言ってることと同じですね。
 それにしても、「どれだけたくさんの人に気持ちよく依存して生きていけるようになるか。それが教育の目的」というのは実に斬新で奥深いーと、思いませんか?


 【なぜ不自由になったか】

 未成年者が酒を飲んではいけない、というのは正論である。が、大人になる途中で、厳しい義務を果たす見返りに、少々ハメを外す、という在り方が死滅し、すべてが建前と正論で学校が運営されるようになった。学校の官僚化である。
 官僚化した学校など、おもしろいわけがない。

 学校のなかでハメを外す道がなくなると、どうなるか。学校からドロップアウトするか、官僚化した学校のなかでおとなしくしているか、を迫られる。
 こういう場合に、キミならどうする?

●たとえ学校に行っている間はおとなしくしていられたとしても、その反動はどこかで出てきてしまうものではないだろうか?
 何もドロップアウトすることもないでしょうが、「その人がその人らしく」いるために、個々が感じてちゃんと考えることをしていってほしいものです。
 そして考えた末にドロップアウトするのはアリかな。そのくらいの方が大物になりそうです。大物というのは、「自分らしく生き生きと生きていける人」と私は考えていますが。

 この本は、実際に今「学校がアホらしい」と思っているような中高生の若者向けに書かれていましたから、文章も短くとても読みやすかったです。ぜひ、学校に行く気力の湧かないような子どもたちに読んでもらいたいなぁ、と思います。もちろん大人が読んでも、「目からウロコ」のような文章に出合うと思います。

【先生はつまらない】よりー

《日本の学校でいま教えている内容は、一つの例外もなく、答えが決まっている。社会に出たら、答えの出ない問題ばかりなのに。いやいや、小学校や中学校に通う子どもだって、皆いろいろ悩んでいる。その悩みに答えてくれるような授業はない。

 学校の先生になる人はおもしろみのない人間だ、などと言っているのではなく、現代日本の学校は構造的に、おもしろいこと(つまり本当の謎解きや解決)に挑戦できない仕組みになっている、という意味である。

 「でもしか」時代には、プロ(絵描き、小説家、スポーツ選手、歴史学者、科学者など)になりきれなかった落ちこぼれが、学校の先生になった。そういう屈折した暇な人たちが、子どもにとって、おもしろくないわけがない。最初から優秀なレッスンプロを目標にしてきた人は、未知の世界に挑戦する習慣がないので、本質的につまらないのである。
 だから、キミたち自身が、おもしろい人間になろう》

●「未知の世界に挑戦する習慣がないので、本質的につまらない」という指摘、そしてその言葉は、鋭く胸に突き刺さる感じがします。
 なるほどーと、深く感じ入ってしまいます。日垣さんの思考回路と感覚に敬礼したい気分?になりました。
 でも、ということは、「つまらなくない=おもしろい」先生に出会ったらラッキーと思えばいいんですね。その確率は低いのでしょうがー。

【いじめをめぐる誤解】よりー

《いじめはコミュニケーション不全であり自治の問題である。大人社会にも、地球上のどこにでもある。良いことではないが、良いことばかりで社会を塗り固めようとして「地上の楽園」ソビエトや北朝鮮をつくってしまった。無菌室に子どもを押し込めれば幸せになるわけではない。滑らかな会話と美しい挨拶しか存在しないコミュニティは不気味だ。

 他方、犯罪としてのいじめは、即刻110番すべきなのである。恐喝、強要、詐欺、窃盗、強盗、暴行、傷害、強制猥褻、強姦、監禁、放火、殺人は、学校の中で起きても教育問題ではない。犯罪である。

 どこに線を引けばいいのか?
 簡単なことだ。
 通報に値するかどうか。それだけを子どもたち自身に判断させればいい。
 「とおせんぼをされた」では警察は動かない。「3万円を脅し取られた」なら必ず動いてくれる。

 先頃、イタリアのトリノ市でも暴行によるいじめが発覚し、すぐに当局が動いて加害生徒らの身柄を拘束した。日本のいじめ騒動には、何が最も欠落しているのか。

 教育委員会や学校や親が、日頃「いじめはない」という間違った認識に立っていながら(ゆえに)、自殺騒動が起きると「いじめは絶対あってはならない」と言い募る。要するに、彼らは二つの極端な在り方しか想定できていない。無菌室か、さもなくば、いじめ自殺の元凶。そこには自治の概念がスッポリ抜けている。

 ボローニャやパリなどヨーロッパでは11世紀から大学が運営されているが、日本の大学は19世紀の終盤に誕生した。日本では戦後いきなり「教授会の自治が重要だ」となり、自治と警察の排除を同一視してしまった。高校以下の学校にも長く警察が入らなかったのは、特殊日本的な現象にすぎないのである》

●これは他の誰からも聞いたことのないような「いじめとの共存、あるいは解決法」で、「目からウロコ」でした。しかし、必要十分な知識があった上で冷静に考えれば行き着くところのことなのかもしれません。

 上記の日垣さんの見解以上のものがないとしたら、それに向けて文部科学省を中心に動き出すこと以外にないでしょう。
 しかしこういった見解、どうやって文部科学省に伝えていけばいいのかー。日垣さんが「教育再生○○会議」みたいなものに参加するのが一番でしょうけれど…。

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