さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

田口ランディ

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○森達也さんとの対話よりー 【加虐の側に思いを馳せる】

《森:当時のドイツ人たちも、決して特殊な男たちではなく、よき父であり優しい夫であることを知ることです。ヘスの絞首台を残すなら、彼が家族と過ごした家も残すべきだと僕は思う。矛盾や二律背反を整理してはならない。愛情溢れる普通の生活が、夥しい殺戮と隣り合わせにあったことを知ることです。

森:僕はね、最初の映画である『A』撮影時に、初めてオウムの施設にはいって信者たちの日常を撮ったとき、事件直後だから世間では、「凶悪な殺人集団」とか「洗脳されて自分の意思を持たないロボットのような集団」などと言われていた彼らが、とても優しくて純粋で善良であることに衝撃を受けたんです。

 だからこそ考えねばならない。邪悪で凶悪だから人を殺すわけじゃない。むしろ善良で純粋で優しいからこそ、人を殺す場合があるんです。それも大量に。悪意が燃料になった場合は数人を殺戮します。なぜなら摩擦係数が少ないから。だからホロコーストでも、あるいは文化大革命とかポルポトとか、これほどの規模の戦争や虐殺を考えるときは、悪意よりも善意を射程に置くべきだと僕は思っている》

●「邪悪で凶悪だから人を殺すわけじゃない。むしろ善良で純粋で優しいからこそ、人を殺す場合がある」
ーここですよね、問題は。

 純であればあるほど、他人にとっては「押しつけ」になる、というのは子育て・教育の世界でもまったく当てはまることでしょう。そういった意味で子どもを殺している親は、数限りなくいるでしょう。

 それによる悲劇は、何度も繰り返されて来ているはずですが、「学ばない人は学ばない」。というか、自分ごととして捉えることができないのが人間なのでしょうか。

 少なくともそれを自覚していなければ、進歩がないと私は思うのですがー。邪悪な心がどこかに共存しているのが人間。それを認めた上でコトを進めていきたいものです。

《田口:作らない親が多くなっているみたいね。うちの近所の高校の近くのコンビニで、子どもたちが朝、カップヌードルを食べているんですよ。ペタンと座って、カップヌードルを食べて、残った汁を他人のマンションに流して、タラッタラッて歩いている姿を見ると、うわあだるそうだなあと思う。

玄田:ニートというと贅沢な親が甘やかすから悪いというイメージがある。でも事態は逆で、経済的に余裕がない、親は子どものことにかまっていられない、朝ごはんも作れない、学校の先生が子どものことで親と連絡を取りたくても取れない、取れたとしても「子どものことは子どもに任せています」というような家庭からニートが生まれる傾向は強くなった。もちろん、そういう苦しい家庭の子がもれなく人と人の身近なつながりがあったけれど、いまは経済的に苦しい家庭ほど孤立している状況が進んでる。

田口:わかります。老人福祉とか幼児虐待の問題をここ二年ぐらい取材しているけど、貧富の差がすごい勢いで日本のなかに広がっていることを実感する。
(中略)
 社会への不満は社会へ向かわず、とても身近で個人的な問題に向かうんです。社会はとても遠い。自分の投げた石は絶対に国会まで届かないという諦めがある。いま、そういう層をどんどん作っているんです。不全感とねたみ。これはまだこのまま加速するので、かなり鬱屈したタイプ、わりと高学歴の、それでもってあまり頭のよくない、たいへん手におえない層を作っちゃうだろうなという感じがある》

●「社会への不満は社会へ向かわずー」というのは、先の秋葉原の事件そのものですね。「不全感とねたみ」か・・・。


 【人間関係が痛い】

《田口:だけど、この私の一生懸命さをもってしても、最近の摂食障害の子たちのひたむきなまでの人間関係に対する過敏さは痛々しいです。ほんとうに緊張した人間関係のなかでびくびくしながら気をつかって生きてきたのかなと思う。これは、それを体験していないとわからないと思う。子どもは家族が平安でいてほしいと全身全霊で願っているから。

玄田:90年代から変わったなと思ったのは、モテるのがそんな過敏な要素をどこかで持っている人たちになった。こういうことを言ったら傷つくだろうなとか、こういうことを言わない方がいいなという繊細な子でないと、人気者になれない。

田口:いまってそうなんですか。

玄田:そう。人づきあいも、絶対に出しゃばらない、かといって引きすぎない。でもそんなことをつねにどこかで意識していたら、しんどいし、どこか痛々しい。全然違うようで、モテる条件とニートの条件って実は一緒》


「安心した状態にいてはじめて、落ち着いて自分と向き合える」

 【「癒し」より「安心」】

《田口:「安心」ですよね、やっぱり。「癒し」なんてない。まず人は安心した状態に置いてあげないと。どんな病人も子どもも痴呆老人も、すべて安心した状態を作ってあげてから次のステップに進む。安心した状態にいてはじめて、落ち着いて自分と向き合える。それだけですよね。ここでは危害を加えられない、ここでは私になにかを強く要請しない、無理になにかをさせられない。肉体レベルでも精神レベルでも安心した状態が一ヶ月続けば、人はそこから勝手によくなっていく。

 ただ、その安心を提供できないんですよ。これがむずかしい。家庭だって子どもが安心していれば勝手に育っていくし、学校だって子どもが安心していれば好き勝手に生きていくんですけれども。

玄田:スピードが早くて。大人が落ち着いていないと子どもは安心しない。

田口:この子たちが、こころ穏やかで安心していられる環境を自分たちが作っているか、というフィードバックを常にしていることが、介護者、教育者にたたき込まれないといけない。それが仕事化していくと、すべてが変わると思います》

●自分は安心した環境を作れているだろうか、と問わざるを得ませんね。
 仕事ーらくだの教室ーに関しては、それを第一に考えているので、それなりにできているかなと思いますが、家庭というのはむずかしい。
 基本はど〜んと構えていようと思っていますが、子どもたちの行動を見ていれば、言いたくなることは山ほど出てきます。

 どこまで言って、どこまで見て(観察して)いるか、そのバランスをいつも考えます。「子どもがやることはおもしろがって見ていれば大丈夫」と言う方がいます。その考えに共鳴はするのですが、現実的にどうなんだろうーとも思います。「おもしろがって見ている」ことを基本に据えて、伝えるべきことは伝える、というスタンスがいいのかな。

 【意味は問えば問うほど苦しくなる】

《玄田:必要なのは意味よりもリズムだと思う。ニートでいちばん苦しいのは、生きるリズムがくずれているときです。意味を問うことも、意味を問うというリズムがあればいい。意味のない意味を問うことをリズムよくやっていれば、それはそれでとっても楽になる。問うていることにリズム感を感じない人たちは苦しい。

田口:リズム感というのがちょっとわかりずらいんだけど、もうちょっと説明してもらえますか。

玄田:自分で決めて行動しなければならないといったプレッシャーから少し自由になって、自然の流れのなかで勝手に動き出す感覚とでもいうんでしょうか。悪いときもあれば、良いときもあると、開き直れたり。迷ったときには思いきって何かに身をまかせてみたり。

 さっきの小田原の八対二の人は「考えすぎない」「人の話にのってみる」「ただ働きができる」ができれば、リズムよく働けると言ってました。実際、仕事も調子がいいときなんかそうだけど、考えないほうができるときがある》

●「考えすぎない」「人の話にのってみる」「ただ働きができる」…これって私、よくわかります。20代半ばで東京に出てからの、私の中のモットーと言えるかもしれないと感じました。

 「小田原の八対二の人」は、私も知っている方で、東京時代にその方のやっている夏の催しに参加したことを思いだしました。

 子どももいっしょに合宿をしながら、いろんな人の話を聞いたり、いろんなことを体験したりというものでした。私はそこで初めて、能の太鼓の大倉正之助さんの演奏を聞いたり(緑深い山の中で)、整体というものを体験したりした記憶が甦りました。
 

 「仕事で大切なのは、ちゃんと『そこにいる』ということ」

《田口:そうですね。自分でもそういうときあるけど。

玄田:よく仕事に求められる条件なんていわれたとき、資格が大事とか、英語ができるとかいいますけど、実際は違う。仕事で大切なのは、ちゃんと「そこにいる」ということ。仕事なんて、きまった時間に会社にいければ、だいたいほとんど終わったようなもんです。それがリズムになれば、仕事ってほとんどできるでしょう。そんなものだと思う。

 その意味でも、子どもたちはやはりできるだけ学校には行ったほうがいいと思う。勉強がどうのこうのよりも、きまって学校に行って帰ってくるというリズムを身につけるのも大切なんです。それに、大人のリズムが崩れると子どものリズムもあっという間に崩れる。ニート状態になると、昼夜も逆転するし、朝ごはんを食べてないことも多い》

●「仕事で大切なのは、ちゃんと『そこにいる』ということ」、これもよ〜くわかるような気がします。仕事というのはそんなものでしょう。ちゃんと毎日そこにいさえすれば、仕事は覚え、できるようになっていくものです。

 そこで余計なことを考えるのが、それこそ「余計なこと」なのです。自分の考えを置いておいて、「身を任せることができる」ことこそ大事だと思います。

○玄田有史さんとの対話よりー 【宗教によって救われている部分】

《玄田:小田原に親子三代にわたって他人の子どもたち同士が共同生活する場所を営んでいるところがあるんです。ログハウスを自分たちで作らせたりとか、子どもの個性を尊重する。

 その一方で有無もいわさずにやらせることも、とても大事にしている。たとえばとにかく朝6時30分に起きて、みんなでとにかく座禅をして五分間内省をする。

 何十年もやってわかったというんだけど、そのバランスは八対二なんだそうです。個性は八尊重させて、二は有無を言わさずという感覚が必要。八対二と言い切る。

 いまの若い人たちって、働く意味をすごく問うでしょう。生きる意味もすごく問う。でも意味だけじゃないんです。もっと意味すら超えたものなんです》


 「親が嫌われることは大事」?

●「意味わかんな〜い」「意味ねぇじゃん」・・・今の子どもたちの口ぐせとも言える言葉です。
 私も「意味のないことが大切」と、常々思います。「意味のない」と言うとわかりにくいかもしれませんが、「意味」よりも「やる」ことが先であり、「意味は後からついてくる」ということです。

 私は自分の子どもたちに、「意味なんか聞いて来るな。とにかくやれ」と言うことが多いかもしれません。
 そういった意味でも?、小さい頃、それこそ意味もわからないうちからの「しつけ(し続け)」「生活習慣」がとても大事に思えます。

 そんな親であるということは、「友だち親子」にはなりえないということです。いや、まず間違いなく「嫌われる親」であることでしょう。
 子どもを持つ前は、「子どもに理解のある親」でありたい、と思っていたような気がします。それはいいとして、そのことと「子どもに好かれる」とは別のことだと思うようになりました。

 子どもに好かれていつも仲良く暮らしたい、それができれば楽だろうなーとは思います。でもやっぱり、それだけではダメなのです。子どもに対する愛情が本当にあるならば、厳しくあたることも必要で、そうすると「嫌われる」ことになるのは必然です。

 親というのは因果な商売だなぁ、と思うことしばしばです。これが報われるのは?子どもたちが親になってからでしょう。ある方は、「子育てが成功したかどうかは、その子どもの子どもを見るまでわからない」とまで言っています。

 「嫌われることは大事」だと今は思います。正確に言うと、「自分が伝えたいことを伝えていくためには、嫌われることを厭わないことが大事」。

 「個性は八尊重させて、二は有無を言わさずという感覚」、今後の参考になりそうです。

○竹内整一さんとの対話より 【つきつめないあいまいさ】

《田口:世の中には優秀で、効率を追求させれば天下一品みたいな人たちがいるんだと思う。そういう人たちにはどんどんそれをやっていただいていいんだけれども、それをすべての人に対するモデルケースにするのはやめたいんです。

 エリートと呼ばれる知識階級の人たちは、自分たちが使う言葉で自分たちの優位性を強調するだろうけれど、世界はもっと多様ですから。

 別の言葉を使って物事を語る人たちの集団があるんです。なにが優れていて、なにが劣っているかなんて比べることはできません。働くということについていろいろな定義の仕方をする集団がもっとあればいいと思う。

 モデルケースのようにして、べてるの家のような組織がたくさん出てくればいいという発想をする人がいるんだけれども、私はそうは思わない。あそこは重度の統合失調症の人たちの施設であって、そうじゃない人たちがあれをやったって、やっぱりストレスが溜まるのですよ。

 やり方は自分たちがそれぞれ作ればいいことであって、大切なのはそれが自分たちで作れると信じることだと思う》

●「べてるの家」は、北海道浦河町にある精神障害のある方たちが集う場です。とはいっても、全国的に有名になってきてからは、必ずしも障害のある方たちばかりが集っているわけではないようです。

 私は広く知られるようになる少し前頃まで、浦河町をよく訪れていたので、必然的にべてるの家の方々と出会うことが多々ありました。また、いわゆる一般町民の方々のべてるの家に対する声なども聞く機会がありました。

 今べてるはどうなって、土地の方々はどう思っているのだろうか、と思ったりします。

 べてるをモデルにした施設などを作るような話を聞くこともありますが、その場その場に適した形で試行錯誤しながらのものを作り上げるということなら、いいのではないかと感じています。

 「自分たちで作れると信じること」、これができればどこにいようが関係ないですね、きっと。


《田口:人は生きている間は死を体験できない。絶対に。このリアリティがたぶんないんです。

竹内:それも近代が死を隠蔽してきたということの問題だよね。具体的な生身の死を見ないようにしてきたということです。

 前に学生にアンケートしたんですが、彼らは、おじいちゃん・おばあちゃんの死をふくめて、さらには動物の死体なんかにもあまりふれてない。核家族とか衛生観念とかということもあるんだろうけど、死というものに具体的な手触りを感じていない。

 養老孟司さんが面白いことを言っていたんですが、「死にたい、死にたい」という青年が首吊りをして失敗して落ちたときに、ああ苦しかった、死ぬかと思った、と。

 だが当たり前のことだが、その苦しくてグッと息がつまっていくのが死なんで、「死にたい、死にたい」の「死」はまったく死ではないんだ、とー。ネットの集団死には、そんなことを感じます。いまの状態をリセットしたいだけ。肉体で死ぬことではない。

田口:今その話を聞いて、私はすごく変なことを考えちゃいました。「死にたい、死にたい」は死じゃないんだとすると、「死にたい、死にたい」っていうのはポエムなんだ。だから死と詩は同じんだと》

●ウチの子どもたちもまだ「死」に出会っていないでしょうね。いずれまずは祖父母の死に出会うことにはなるのでしょうが、それはもしかしたら成人してからになるかもしれません(まだまだ健在ですから)。

 そんな意味でも、お盆くらいは私の父親の遺影を居間に降ろして手を合わせる機会を作る方がいいかな、と最近思うようになりました。

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