さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

教育全般

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【教育のマニュアル化・サービス化に異議あり!】よりー

《コーチングってあるじゃない。質問して相手に気づかせて…。でも、うまくいかない場合もあるよね。それは、相手を見ていないから。相手を見ずにコーチング理論を見ているから。こういう場合はどうするとか怒っちゃいけないとか。怒らなきゃいけないときもある》

《マニュアルとかコーチングにしても、「コーチングの本はああだから」って、そんな人間を一つのハウトゥでコントロールできるなんておこがましいよ。人間なんてそんなものじゃない。心を持っているんだし、人それぞれ違うんだよ。一つのやり方でコントロールできるなんて違うと思う》

《子供が喜ぶこと、やりたいことだけやらせていたら教育じゃない。嫌がることもやらさなくてはいけない。ほめてやらなければいけないし、助けてやらなければいけないが、何かを乗り越えさせて達成感を教えてやらねばならない》

●コーチングに関する話に同感。
 コーチングだってもともとマニュアルじゃなく、相手によって当然変わっていくものだったと思いますが、何でもマニュアル化してしまう今の日本の風潮?によって、「コーチング」の本質が伝わらないかたちで広がっていってしまっているようにも感じます。

●「やりたいことだけやらせていたら教育じゃない」というのもまさにその通り!と思います。
 親ないし教育に携わる者は、「子どもに何を伝えたいか」を常に考え続け自分に問う必要があるはずです。そしてそれを伝えるためにはどうしたらいいかを考えると、単に「やりたくないことを押し付ける、強制してやらせる」のではないやり方が見いだせてきます。

●「何かを乗り越えさせて達成感を教える」もの、ツール(道具)はたくさんあるでしょうし、その子それぞれに合ったものがあるでしょう。
 「達成感」という意味では、らくだ教材がどの子にも適用でき、常に試練と達成感を与えるものです。その結果として、将来何にでも応用がきく基盤としての確かな学力(学力そのものと自ら学ぶ力)がつくのですからー。
 
【「遺伝子のスイッチ」をONにしよう】よりー

《俺の考えている感性は、職人であれ、サッカー選手であれ、親子関係であれ、何でも人間として共通したことのような気がしている。人間は成長していく中で新皮質はいくらでも鍛えられるけれど、旧皮質のほうもある程度鍛えていかないと情動とかそういうものが安定したまともな人間に育たない。

 生きていくだけでいろんな刺激があった昔の社会と違って、豊かすぎて便利快適安全な今の社会は本能に刺激がない。今の社会では感性に対する刺激がなくなってきている。豊かな中でのんべんだらりとしていたら、家畜と一緒。エサを与えてもらって、体を洗ってもらって、冷暖房が効いた部屋にいる。家畜に感性なんか起こるわけがない。これは日本の豊かさゆえの大きな問題だね》

《俺は感性というのは、無意識の世界のものではないかと思っている。感性というのは、感動であったり苦しいことであったり、身の危険を感じたりという刺激を経験しないと育たないのではないだろうか?「文化」というのは生きるか死ぬかというときには起こらない。そしてスポーツもその文化の一つだと思う》

●「感性に対する刺激」を考えると、「いかに不便な環境を与えるか」ということになってくるようにも思います。便利になりすぎると、人間の持っている能力がどんどん退化していくように感じるのですがー。
 寒いときは寒い、暑いときは暑い、冷たいものは冷たい、暖かいものは暖かい、ただそれだけを感じさせるのにも一苦労する時代ですー。

【「なんとなく…感じる」感性の役割】よりー

《志岐:様々な分野で、人間の「感性」は大きな力を発揮します。もちろん、各分野での「感性の力」の発揮は、経験や知識、努力という積み重ねや情熱を同時に必要とするものであり、単なる思いつきによる行為とは異質のものです。「感性」は、確かに説明を飛ばして直接答えをくれる便利な感覚ではありますが、決して薄っぺらで簡単なものではありません。その背景にはとても深い領域が存在しているのです。目には見えないもの、言葉では言い表せないもの、耳では聞こえないものーそういうものを、「感性」は無意識のうちに感じ取り、発信するのです》

【どん底で入った“遺伝子のスイッチ”ととらわれを捨てた「平常心」】よりー

《こだわりとか、仏教だったらとらわれっていうけど。今現在我々は生きているけど、「こんなことをしたらこう思われる」「こう言ったら嫌われる」など、いろんなとらわれを持って生きているんだよね。で、それを捨てたときが悟り、無の状態。なかなかなれないんだけど、できる限りとらわれを捨てた状態じゃないのかなあ。

 平常心の語源って、選手は「普段の気持ち」っていうんだけど、違うんだよ、あれは。禅ではとらわれを捨てた状態、「無」ってことなんだ。

 でも、平常心というのは、そう簡単になれるものではない。では、どういうことがポイントかというと、どん底を経験している、というのが、一つのポイントになる》

《指導者に限らず、どん底を知るということは、挫折を知るということは、ものすごく大事なこと。
 経営者でも腹の据わった経営ができる人は倒産、投獄、闘病、戦争を知っているといわれる。そういうのを経験していると開き直れる。強いんですよ。開き直って余計な雑音抜きでカンでした決断はだいたい当たるんだよ。ところが「こうしたらああなるんじゃないか、ああ言われるんじゃないか」って考えた決断ってあんまりうまくいかないんだよね》

●「開き直って余計な雑音抜きでカンでした決断はだいたい当たる」っていう言葉に出合えたのもよかったなぁ。私も人生の転機は何度か(何度も?)ありましたが、その度にそれを繰り返していたように思います。

※『岡田武史監督と考えた「スポーツと感性」』(志岐幸子・日本経済新聞出版社)

●「“生きる”ということは、“独りで生きること”」?

 岩渕青年は、雨宮さんが「フリーター」の人たちのために行動したり、熱心にデモに参加したりするのを見ても、「それで何かが変わるとは思えないし、助け合おうとも思わない。独りで(自立して?)生きていきたい」というようなことを言っていました。

 もっとも、雨宮さんがその成果として、「派遣労働にも有給休暇がついたり」「派遣請け負い会社に差し引かれていたお金が戻って来たり」「寮費が1万円程安くなったり」したことを話すと知らなかったようで驚いたような顔をしていましたから、これから変わっていくのかもしれませんが。
 
 いずれにしろこのような考え方が若者の間に広まっているとしたら、これも「教育の成果」であるように私には思えてしまいます。何でもかんでも「教育の成果」にしても意味がないことかもしれませんが、学校だけにとどまらない広い意味での「教育」と考えるとどうでしょう。

 小さい頃から人と競争して勝ち残っていくか、さもなくば落ちて(堕ちて?)いくか、その二者択一しかないような形で育ってきているとしたら、「人に助けを求めるのはよくないこと」と思ってしまうし、周りも「自立(自律)して生きていくこと」のみを求め、それ以外の生き方はないと刷り込んでしまっている可能性はないでしょうか。

 もちろん自立して生きていくにこしたことはありませんが、それしかないのだと(暗黙に)強制しているとしたら、何て窮屈な世の中なんだと私は思ってしまいます。
 また、競争に破れ追い込まれてしまったら、もう生きて行く価値はないのだと信じ込んでしまう人もいることでしょう。

 “「助けて」と言える人が大人”とも言えませんか?これを言うには多大の勇気を要することでしょう。でもだからこそ、“大人”と言えなくはないですか?「そんなことはない」と言うのでしたら、これからは「それが大人」という風潮を広めていったらいいではないでしょうかー。

 私がこんな考えに至ったのは、いろんな人たちに助けられて来た実感があるからと言えるのですが、私が勝手に師事している?内田樹さんも同じ様なことを言っています。なにせ最新刊のタイトルは、『ひとりでは生きられないのも芸のうち』なのです。とても味わい深いと思いませんか?

●岩渕青年の今後に期待!

 勝手に期待されても困るでしょうが、今後も上映会などを通して多くの人たちにもまれて(説教もされて?)いくであろう岩渕青年ですから、これからどのような映画を撮り、どう変わっていくか楽しみです。岩渕青年のみならず人は変わっていくものですし、あの雨宮処凛さんがいい例ですからね…。

 こうしていろいろなことに思いめぐらせてくれた岩渕監督に感謝です。この映画は、少人数で見て感じたことを交換し合うような形もいいでしょうね。見た人それぞれ何かを話したくなるような映画だと思います。
 また、今回の催しはさっぽろ自由学校「遊」が企画運営を行い、司会進行も若いスタッフが行ったのがよかったと思います。

●『勝手に絶望する若者たち』(新井千暁・幻冬社新書)

 最近上記のタイトルの本を読みました。私が辿ってきた道はこういうことだった、と感じた部分を以下に抜粋します。

《若いうちからやりたいことを想定してしまうことほどつまらなく、またもったいないことはないのではないでしょうか。やりたいと思っていることを大切に温め、それに近づいていくような生き方をしながら、徐々に絞り込んでゆけばよいのだろうとわたしは思います》

●この本は、日本という国の基本的なこと、その成り立ちなどがわかりやすく書かれており、とても参考になりました。
 高校生くらいの時にこのような本を読むことができていれば、その後の人生変わっていたかも…なんて思ったりもしました。

●もっとも、「今」を後悔しているわけではないんですが、「まえがき」に書いてあるように、「この国のしくみや歴史を知り、いまの状態がどうやってできてきたかを理解」しているといないとでは、その後の進むべき道の見え方が違ってくるのではないかと感じるからです。

●こうして書いていて気づきました、高校の授業は、受験優先で近代史を疎かにされているので、「この国のこと」を知ることができなかったんだ!これはやっぱり大きな弊害ですね。

 いやもしかしたら、この国の為政者は、近現代史をちゃんと学んでちゃんとこの国のことを知られるとヤバいことになると思っているので、ちゃんと学ばせないようなカリキュラムになっているのではーと、勘ぐりたくなるのは私だけでしょうか…。

●みなさんもぜひ読んでみてください。中学生以上の若者向けに書かれた「よりみちパン!セー寄り道は、ハッピーに生きるための近道」シリーズの一冊なので、大人もとても読みやすいです。もちろん子どもたちにもご紹介いただくといいですね。

 目次を見るだけである程度内容を類推することができると思うので、以下に記しておきます。
                     *
第一部 明治のはじまり
 第一章 なんで学校に行かなくちゃいけないの
      なぜ「学問のすすめ」?
      国を強くさせるために勉強させる
 第二章 「侵略される国」から「侵略する国」へ
      「東洋」と「西洋」
      「東洋」を脱して「西洋の国」の仲間入り
 第三章 学歴社会ができるまで
      江戸時代の教育
      親が学校を焼き討ちにする
      学歴社会の成立
      国に「尽くさせる」ための教育

第二部 戦後日本の道のりと現代
 第四章 戦争がもたらした惨禍
      日本が戦争でうけた傷
      アジア諸国の被害
 第五章 占領改革と憲法
      アメリカの占領政策
      憲法は「押しつけ」だったか
      「国の誇り」だった第九条
 第6章 アメリカの〈家来〉になった日本
      アメリカの方針転換 
      サンフランシスコ講和条約
      「独立国」にはなったけれど…
      複雑なアメリカへの感情
      戦後賠償のあり方
 第七章 これからの日本は
      冷戦の終わりと戦後補償要求
      靖国神社の問題
      アメリカの自衛隊海外派遣要求の高まり
      世界の潮流に逆行する自衛隊 
      在日米軍はなぜ減らない 
      「おかしい」日本のナショナリズム
      今後の「日本という国」
                       *
(以下飯田)
●中でも、第一章の「なんで学校に行かなくちゃいけないの」で、義務教育の成り立ちについて知ることができて、なるほどなぁと思いました。以下に抜粋しますー

《この「義務教育」というのは、英語の Compulsory Education の翻訳で、明治時代には「強迫教育」と訳されてもいた。つまり、国中の子どもは、「強迫」してでも学校に通わせるというわけだ。この訳のほうが、君たちの実感にちかいかもしれない。

 福沢は、1883(明治16)年の『学問之独立』という本で、こういっている。
「我輩は素より強迫法を賛成する者にして、全国の男女生まれて何歳に至れば必ず学に就く可し、学に就かざるを得ずと強ひて之に迫るは、今日の日本に於いて甚だ緊要なりと信ず」。

 しかも、「強迫教育法の如き必ず政府の権威に由りて始めて行はる可きのみ」ともね。子どもを無理やりにでも学校に行かせるのは、「日本という国」にとって「緊要」な問題であると同時に、政府が権威で強制しなければできるものではない、というわけだ。
 それじゃ、なぜそうまでして、国民を教育する必要があるんだろうか?》

ーこの次から、「国を強くするために勉強させる」という話になっていきますー。
 ちょうど、「教育人間塾」で学んでいる福澤諭吉のことが絡んでくるというのも、おもしろいものです。

娘の卒業

 娘が小学校を卒業しました。

 私は式に出席できませんでしたが、先生たちも子どもたちも涙顔でウチの娘も泣いたそうです。
 私は小学校の卒業式も中学校の卒業式も覚えていませんが、娘はずっと覚えているのでしょうかー。

 最近は学校へ行かない子も増えて来ているので、ウチの子はどうなんだろうと思ってみていましたが、ほとんど休むことなく行っていました。

 たぶんウチにいると、手伝いをさせられたり勉強時間を増やされたりということが目に見えているので、それよりも学校へ行って友だちと遊んだり話したりする方がずっといいと感じていたのでしょう。親のどちらかがほとんど在宅していますし。

 娘が小1になった時点でらくだ教材を導入したのは、もしも学校へ行かなくなっても大丈夫なようにーとの思いもあってのことです。

 “基礎学力(実際の学力と学ぶ習慣づけ)”とともに、“壁を乗り越える力”がつきますから、社会で自立(律)して生きていくには困りません。

 でも、たまたま運良く学校には楽しく行ってくれました。親としてはその方が楽ですからね。

 それに、「学びたくないことを学びたくない人といっしょに学ぶことができる」のが学校ですから、社会の荒波を生きるためのトレーニングにはなったでしょう。

 娘はこの調子で中学校にも行ってくれるのではないかと思っています。今の時代、何かのきっかけでいつ学校に行かないと言い出すかはわかりません。どんな子でもそうだと思います。

 ただ、最初から「そういうことだってあり得る」と思っていたら、親は何があってもどっしりと構えられるでしょう。

 問題は下の子の方だと思っています。娘に比べて繊細?な息子ですから、私に似て…?

 先日購入した佐藤学氏著『「学び」から逃走する子どもたち』の中に、「勉強」と「学び」の違いが記されていました。私はその言葉のもともとの意味を知らなかったので、大変興味深く読みました。以下に紹介します。

《それにしても「勉強」という言葉は意味深長です。「勉強」という言葉には、もともと「学習」という意味は含まれていませんでした。たとえば、中国語にも「勉強」という言葉がありますが、辞書をひいて意味を調べてみると「1、無理をすること」と「2、もともと無理があること」の意味しかありません。

 日本においても、明治20年代に「学習」の意味で「勉強」が使われるようになるまでは、「無理をすること」「もともと無理があること」の意味以外で使われることはありませんでした。商売で「これ以上まけられません」という意味で「勉強しときます」と言われることがありますが、それ以上の意味を持った言葉ではなかったのです。

 「勉強」という言葉が「学習」を意味するようになったのは、おそらく明治20年代以降です。欧米文化一辺倒の明治の学校の学習や受験のための学習には「無理がある」という意味で「勉強」という言葉が使われたに違いありません。その「無理」がいつのまにか当たり前になってしまったのが、「勉強」に象徴される日本の学校文化であると思います》

(以下飯田)
 なんと、「勉強」とは、「無理をすること」という意味であったとは…。私はビックリですが、みなさんはいかがお感じになるでしょうか。

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