さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

教育全般

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第3部 成熟社会のための教育システム

〔1 学校を作る自由〕 [学校を作る自由を]から

《現在、日本で一番クリエイティブな層は、点数をつける教育、競争的な教育を望まない人たちだと思う。教師たちにも、親たちにもいる。この人たちに道がつかないといけない。教育内容が自由で、上から数値目標が与えられたり、達成競争が起こったりしない学校を作れないといけない。

 標準的な教育とは別枠で、人権侵害(精神面も含めて)以外は法的に規制しないとい学校制度を用意すべきである。ただし、その学校を選んだ人は自己責任ですよ、という原則は必要である。すべての学校が成功するとは限らない。そのとき、自己責任原則がないと、その学校を許した当局が悪いということになってしまうから、当局が規制をかけようとする。

 教育の自由があると、数十年後には、新たな“日本型”というような教育システムができてくると思う。日本は、華道・茶道とか漫画・アニメを生み出したほどの国である。自由さえあれば、いろいろな教育を生み出す力はあると思う。日本の文明の一番よいところは、「これが日本だ」という固定したものがなくて、いいと思えばなんでも野放図に取り入れるところにある。それで仏教も、中国文明も、西欧文明も取り入れて、やってこれたのである。

 日本で教育の多様化が進行しなかった最大の理由は、入試制度にある。文科省は入試制度の根幹をいじらずに、受験教育を抑えようとした。そのため、私立学校の教育内容はきびしく規制された。その結果、新しい教育が沸き起こらなくなってしまった。》


●タイトルに上げた言葉は、ものすごく刺激的で、私にとってもとても勇気づけられる言葉です。
「教育の自由」さえあれば自ずとその場に適したシステムができてくる、ということを私も信じたいと思っています。ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、というような否定的思考でものごとを考えるのではなく、もっと人の心の根本を信じて、ど〜んと構えていきたいものです。
 いずれにしろ、入試制度をなんとかしないことには、現実的にはどうしようもないことなのですがー。

〔4 教師の自主性が発揮されない学校〕
[企業モデルでよいのか]から

《教育もサービス業の一つである。それは大事な視点である。しかし、普通の企業と同じように、教員たちを賞罰と競争で駆り立て、研修で教え込んでも、けっきょくサービスが悪くなるだけだろう。

 学校では、教師が「人間らしく生きている」ことが、生徒に対する最大のサービスなのである。教育は、知識や技能を伝えると同時に、教師という人格を通じて、判断力、感受性、道徳性などのモデルを見せているのである。子どもの自主性を引き出せるのは、自主性を持った教師だけである。つまり、アメとムチで動かす発想から抜け出すこと。それが、生徒への最大のサービスであり、かつ最大の道徳教育だと思う。》


[学校の当事者は誰か]から

《教師、生徒、親の三者は、いずれも学校にとって重要である。この三者のだれかが学校にそっぽを向いたら、学校はそれで運営不能になってしまう。学校の健全な運営のためには、三者ともに発言権を保障し、三者ともにとことん追いつめられたときのセーフティ・ネットを作り、その上で、さまざまな場作りをしていくことになるだろう。大事なのは、これら三者のチェック・アンド・バランスなのである。行政は、その調整役の位置に退くべきである。
 当事者が自分で問題を見つけて解決できることが、知性そのものである。学校は知性的であるべきである。》


●タイトルに掲げた言葉に表された古山さんの考えに、私は強く共感します。まったくその通りだと思います。それがなされていない(であろう)現在の教育システムは、まずそれが実現するにはどうしたらいいかを徹底的に考えた上で、ちょっとずつ変えていく必要があるのではないでしょうか。

 「子どもの自主性を引き出せるのは、自主性を持った教師だけである」という言葉も深い意味を持つ言葉だと思います。教育に携わる者がこの言葉をそれぞれに考え、いかに子どもと対応していくかが問われるのでしょう。

 【学力の現実】より

《中学卒業の時点で、義務教育の内容をだいたい自分の教養にしたな、と言えるのは上位3〜4割程度である。ちょうど平均の成績の子は、落ちこぼしている。なにかが根本的に間違っている。
 競争させているうちに、全体が地盤沈下するのだと思う。

 実際に教えていると、よく事情がわかる。「こことここができていないから頑張りなさい」という指導でも伸びるのは上位層だけである。中下位層は、「できた、わかった、ほめられた」という体験をたくさん積ませてやらなければならない。ところが、中学校の現実は「またできなかった、またわからなかった、また恥をかいた」という体験をたくさん積ませてしまうのである。彼らにとって、教科書も先生の説明もわからないことだらけ。できる子の存在はまぶしく、自分はくすんだ存在である。彼らは、的確な知識や技術を欠いたままやみくもに頑張る。あせりやすく、挫折しやすい。

 学力テストやアンケート調査なんかやっても、実情がわかるものか、と思う。オフィスにいる人たちが数値化されたものをもとに方針を出していたら、方向を誤る。実物があるのだから、実物を見なければいけない。》


●「また恥をかいた」というのは、キツいですねぇ。でもやはりそれが現実、学校には「恥をかきに行くだけ」という子どもたちは少なくないのではないでしょうか。「できない」ことを恥とせず、「じゃあできるところから始めていこう」と言えるような教育が行われていけば、ずいぶん違ってくると思うのですがー。


【フィンランドの競争でない学力】より

《勉強が遅れた子に限らず、フィンランドは教育を受ける側の事情によく対応している。障害児のためには、いろんな種類の特別な教員をつけている。外国人の移民の子どもたちのために、母国語の授業を無料で提供している。これらは、ずいぶんと人件費がかかっているはずだ。財政難で、学校の統廃合の問題が起こっている市でも、特別教育は維持していた。法的な強制力が働いているのだと思う。

 さらに言うと、オランダの教科書もよく発達していた。基本的には自習タイプの教科書であり、「早く終わってしまった人はここを」というような分岐がしてあって、それぞれの子どもに合った学習ができるようにしてあった。これだと進度が違っていても、クラスを分けないままでやれるのである。フィンランドだと「遅れている子は後で個別に面倒を見る」方向だが、オランダだと「違う進度の子も、いっしょのクラスでやれる」方向に発達している。》


●オランダの教科書は「基本的には自習タイプの教科書」であるということにビックリです。「それぞれの子どもに合った学習ができるようにしてあった」とは。どんな教科書なのか実に興味があります。諸外国ではずいぶん進んだことをやっているんだなぁ。日本もこういった国の教育に学ぶ必要があるでしょうにー。いつまで同じことをくり返しているんだろう・・・。

《競争による動機づけでは、全員を伸ばすことができない、それどころかかえって伸びない者を作り出す、というのが厳然たる事実なのである。競争があれば、劣等感にまみれた者も、やる気をなくした者も、同時に生まれるものである。

 ところがいっぽう、「落伍者を出してはいけない」という義務教育の理念も、強く中学校に働いている。そこで、中学は落ちこぼさないよう強烈な頑張らせ体制を敷く。

 高校受験とからめた成績競争体制、ついてこないと落伍者になるぞという脅し、厳格な校則体制は、中学の三点セットである。成績競争をやらせているから、落伍者やそっぽ向きがたくさん出る。それを、頑張らせ体制と逸脱防止体制でなんとか引き締めて、連れていくのである。

 無理の多い構造である。不登校をたくさん生んだ。悲劇的なことに、この構造は、簡単に緩めることができない。落伍者やそっぽ向きが生まれる構造をそのままにしてただ緩めると、成績が急降下したり、非行が増えたりするのである。

 現状の中学校そのものをいじるのは簡単ではない。染みついてしまったものが多すぎる。新しい学校を作っていくほうが楽だと思う。

 六年制の中高一貫校をどんどん新しく作り、地元の人間ならだれでも入れるようにしておく。この学校に、旧いタイプの教師は持ってこない。この学校で相対評価を行わない。生徒の年齢序列と年次序列をなくし、法の下の平等を実現する。教育内容は、この年齢の発達になにが必要かの視点から決める。大学入試制度を改革して、ある最低基準を満たしさえすればかならず大学に入れるようにしておく。そんなふうにすると、新しい教育が芽生えていくと思う。
 ここでも、「学校を作る自由」が、教育発展の基本である。》


●「競争、脅し、校則」…なるほど。不登校や逸脱者が出るわけだ。それがわかっていても、あとは現場の先生たちに苦労を強いるしかない構造に、そろそろ手をつけてもいいと思いますがー。
 六年制の中高一貫校がその突破口になるのだろうか。大学入試制度の改革はやはり必要だろうなぁ。

 [力ずくの中学校]から【中学には戦前が残った】より

《戦後日本の中学校制度は、急ごしらえだった。昭和22年、中学に全員が無料で行けることになったのは、たいへんな朗報だった。あらゆる人が、それを大歓迎した。そのため、中学でどのような教育を行うかの検討が浅いままスタートした。新制中学は明確な教育理念を欠き、進学あるいは就職のための通過点になっていった。

 戦前、小学校卒業後のコースは、中学校、実業学校、青年学校などに複線化していた。青年学校というのは、勤労少年のための学校で、実業補習と軍事教練が中心であった。昭和14年から義務化されている。

 戦後の改革で、旧制中学と実業学校は新制高校となった。青年学校の校舎と教員たちは、新制中学へと転用された。旧制中学の一部教員も、新制中学を創設するために移ってきた。青年学校の年次序列支配と、旧制中学の受験一辺倒体質が、新制中学に色濃く残った。

 旧制中学も青年学校も、「私的制裁」の巣窟だった。ようするに、いじめが伝統になっていた。

 戦後民主主義が中途半端なものになっている大きな理由は、戦後にも中学と高校に年次序列支配が残ったためだと思う。先輩後輩の序列は、生まれた順番だけで人間に序列をつけるものだから、身分制度の一種である。身分制度とは、言っていることが正しいから従うのではなく、相手の地位を見て従うかどうかを決めることである。理性が育ちにくくなる。》


●私は古山さんのこの文章を読んで驚きました。戦後日本の中学校制度に関する歴史というものをほとんど知らなかったこと、そしてこのような流れで「中途半端な」「年次序列支配が残った」中学校において、「いじめ」の伝統が残っているという説に関してー。

 一番多感な時期に小学校から中学校という新たな場へ移行すること自体がおかしい、という説を聞いたことがあり、私もなるほどと思った記憶があります。思春期時代は自意識過剰であって当たり前で、そんな子どもたちが狭い空間に閉じ込められ、おまけに制服という身体をも縛りつける様なもので一日中身を包むのですから、そこから外れる子どもがいてある意味当たり前だという説です。

 その説を説いた方は確か、一例として、「小学校を7〜8年制くらいにして、中学校はなくし、その後は行きたい子だけ高校に行くということにするのがいいのではないか。中学校という場は、子どもたち、親、先生をわざわざ苦しめるためにあるようなもの」というようなことを言ってました。私はなるほど一理あると思いましたがー。


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