さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

教育全般

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 【学校の三点セット】より

《それぞれの教育法には、その土台となる教師ー生徒関係がある。たとえばモンテッソーリ教育なら、「子どもはだれに言われなくても、自分たちの仕事をしているのです」という教育観があり、それを前提に、子どもが作業に打ち込める雰囲気を作っている。シュタイナー教育だと、「芸術的なもので子どもを取り囲む」ことを、学校全体が目指している。

 それぞれの教育法は単なる授業方法ではなく、教師と生徒の関係の作り方、教科書・教材のありよう、生徒への指導・説明のしかた、などに独特のものがあるのである。教師ー生徒関係のあり方、教科書と教材のタイプ、授業の方法、は三点セットであって、互いに調和していないとうまくいかないものである。

 現在の公立小中学校の実質的な教育哲学は、「放っておけば遊んでばかりの子どもを、目標に向かって頑張れるようにするのが教育というものだ」であろう。この教育哲学に応じた教師ー生徒関係が作られている。教師からの訓示がたくさんあり、微妙または露骨な賞罰で子どもを誘導する方法が発達している。この中で、授業方法だけ自主性尊重タイプに変えると、子どもが勝手なことをしているだけになりやすい。

 私は、従来型学校に染みついている教育哲学、教育方法、組織運営をそのままにして「個性尊重」「生きる力」などの理念を持ち込んだのは、あぶないことだと思っている。個性も伸びないし、集団性も伸びない。「個性尊重」「生きる力」を軸にした教育をやるなら、まったく違った雰囲気の学校、まったく違ったタイプの教師たち、まったく違った教科書が必要である。やるなら、新しい学校を作って、そこで実践すべきである。

 文科省が方針を出して、全国一斉に方針転換をする現在の教育行政システムは、危ういと思う。》


●らくだメソッドは、「子どもはみな成長したいと思っている=子どもは本来学びたいと思っている」という教育観から始まっています。これを土台にした対応をしないと、単なる「やらせる教育」になってしまいます。教育観から言ったら、モンテッソーリ教育に近いでしょう。そのためか、実際にモンテッソーリを実践している場にらくだメソッドを導入しているケースがいくつかあります。

 古山さんが書いているように、確かに今のままの学校システムでは、なかなか「個性尊重」はできないでしょう。難しいところですね。枠にはめ込もうとすると、必ずその枠からはみ出る者、はみ出ようとする者が出てきますが、従順に従おうとしている者にとっては、「なぜあの生徒はいいの?」となってしまい、それを認めていくと学校がガタガタになってしまいかねませんからー。

 後は個々の先生の対応力、人間力に頼っていくしかなくなるでしょうから、先生個人の負担はますます増える…。ちょっとずつでも、柔軟な対応ができる学校が増えて、一気にではなく、一つ、二つ…といったところから始まる改革が大事なのかもしれません。

 〔3、個性尊重の教育はできるのか〕
 [学校に染み付いたもの]から

《ある小学校の養護教諭が、不登校になりかけた子どもに親切にし、その子が毎日保健室にやってくるところまでこぎつけた。それを担任に報告すると、「でも、やっぱり授業に出席できなくてはね」と言われた。その養護教諭は、がっくりきて、学校というもの全体に不信感を持った。

 学校には、なにかいいことがあると、「でも、いい気になって目標を忘れるなよ」を反射的に言う先生たちがいる。それは先生たちに染みついたパターンになっていて、人に冷水をあびせていることが見えていない。
 このような、先生たちに染みついている裏の教育目標というようなものがある。次のようなものである。

・勤勉であること。
・無意味なことに我慢強いこと。
・示された目標に向けて頑張ること。
・なにを手に入れても満足しないこと。
・比較で刺激すること。「○○さんを見ならいなさい」「○○くんみたいになってはだめですよ」。

 これらの教育目標は、昔はあたり前の教育目標だった。昔の教育目標が、きちんと総括されないまま、新しい教育目標がその上に降り積もり、あまり意識されなくなったものである。意識されないために、新しい教育目標と葛藤を起こしていることが見えにくい。

 これらの教育目標は、教育倫理というより労働倫理である。日本の教育には、産業界の養成が多く届いた。学校は「職場で我慢できる」ことを意識して、子どものときから訓練する場になった。

 これらの教育目標は、先生たちの労働倫理でもある。先生たちは、自分たちがされていることを、生徒たちにしている。

 まるで職場訓練のような教育は、小中学校の運営に役立った。義務教育学校はある年齢に達した地域の子どもを全員を受け入れて、集団授業を施さなければならない。しかも、落ちこぼれを出してもいけなくて、全員の学習成果を上げなければならないのである。そのため、日本の教育は生徒たちに集団で行動することを訓練し、賞罰で誘導する教育法を確立した。

 小学校に行くようになった子に、大きな変化が現れるのをたくさん見た。どうも、学校に行くようになると、性格がきつくなるし、大人が話すことに対して、はぐらかしたり揚げ足を取るようになる。なにかを壊すタイプの遊びが増え、何かを作るタイプの遊びが少なくなる。親戚・知人の子、自分の塾での生徒に、程度の差こそあれ、例外なくこれが起こった。こういう症状は、その子がほんとうの納得を失ってしまい、わけのわからない力関係に突き動かされていることを示している。
 教師の側ではあたり前と思っていることの中に、生徒への脅しとして働いているものが多数あるはずである。

 個性尊重教育が言われる。しかし学校は、集団授業を遂行することに特化していて、ちょっとやそっとでは、抜け出せない。
 個性尊重教育は、「個性を大事にしなさい」と子どもに説くことではない。それは、子どもの生きている現実を認識していることであり、教師たちが権威主義に染まっていないことであり、学校が大きな裁量を持っていることなのである。
 今のままで、いったい、個性尊重教育がやれるのだろうか。制度や組織まで変更しないと実行が難しいだろうと思うのだ。》

●「先生たちに染みついている裏の教育目標」…なるほどなぁ。思わず我が身を振り返ってしまいましたが、1つか2つは合致している部分があるかもしれません。

 [学歴競争から成熟社会へ]から
 【途上国タイプの教育からの脱却】より

《進学競争によって維持される教育システムは、固有の問題を抱えることになる。日本は、その問題が噴出するトップランナーでもある。
 大きな問題が三点ある。

 まず一点は、競争をさせれば、勝者が生みだされるごとに敗者も生みだされるのが必然だということである。その敗者の存在が、社会不安を引き起こしていくのである。社会が成長期にあるときは、エリートを作り出しさえすれば、経済全体のパイが大きくなってすべての人の生活に及んだから、さほどの問題が起こらなかった。しかし、社会全体の成長が飽和してくると、敗者の存在による社会不活性化と社会不安の問題のほうが大きくなってくる。進学競争は、「どうせ自分は」とか「どうでもいいや」と思う大量の人たちを生みだすのである。

 第2点は、国が豊かになってくると、出世志向に訴えた動機づけでは、学習意欲を支えきれなくなることである。いちおう食えるのに、なんでそんなに苦労しなければならないのか、ということである。

 第三点は、経済が特殊な段階にあったから、競争に訴えた詰め込み教育でも社会の役に立ったことである。われわれは、産業を発展させさえすれば社会が発展する時代にいた。そのための知識・技術は、きとんとステップを踏めばだれでも習得できるし、詰め込めばそれなりに役に立つのである。
 しかし、知恵がなければ、生産過剰になったり、バブルになったり、貧富の差で社会不安を起こしたりするのである。

 社会が真剣に進路を模索しなければならない局面では、知識量より明晰さが必要とされるし、競争より協力が必要とされる。これから、そういう時代になっていくだろう。明晰さを損なうのは、恐怖と不安である。恐怖と不安をあおって勉強させる教育は、権威や固定観念にすがりつく人間を作り出す。

 日本で学歴離れがもっとも進行しているのは、実は、企業である。入社試験のときに大学名を書かせない、昇進の書類に出身大学を記さない、というところが過半数だという。それもそうであろう。企業は存続がかかっているのだから、学校名にこだわっていたら、潰れてしまう。》


●「恐怖と不安をあおって勉強させる教育」をやめるということは、それぞれの子どもに見合った進路をきちんと用意するということなのではないでしょうか。

 誰もがエスカレーター式に何も考えずに高校、大学へ進学しないといけないという社会ではなく、農林漁業へ進む道もあれば、専門的に学んで介護や福祉、されには職人への道もあるという、多様化された社会を復活、再生させることが、これから必要なのだと私は思います。

 そのためにこそ、小中学校では「基礎学力」のみをすべての子どもに備わるようなシステムにして、それを土台に多様な道へ進むことができるような知力体力を子どもたちに身につけさせてあげたい、と私は思います。


 【エリート依存時代の終わり】より

《社会が豊かになってくると、一部のエリートがいるかどうかより、社会全体の教養と創造性、落ちこぼれを出さないことがむしろ重要になってくる。社会が成熟してきたならば、進学競争に依存するのをやめ、それぞれの人に合った教育を生涯にわたって提供するような教育システムに移行していかないと、社会不安がひどくなるのである。

 それは、国が貧しいうちはどんな工場でも歓迎されるが、国が豊かになってくると、工場の煙や汚水が問題になってくるのと同じであろう。

 OECD(経済協力開発機構)が、国際成人リテラシー調査(1994年)というのをやって、おもしろい分析結果を出している。16〜64歳の理解力調査をし、その国の経済との関連を調べた。すると、経済成長に対する教育の効果は、得点の高い層がどれだけ高い点を取るかより、全体の平均得点の高さのほうが関連しているというのである。つまり、少数のすばらしいエリートを養成することより、全体の平均水準の上昇を考えたほうが、経済的にも寄与するものなのである。》

●上記のようなデータが出ているとは・・・。

 [入試のない国オランダ]から

《オランダでは、私塾も予備校も存在していない。入試のための勉強という考え方もない。ギムナジウム(大学進学コースの中等教育学校)に在籍する生徒の教科書を見せてもらったことがある。あまりに高度なことをやっているのでびっくりした。日本だったら、大学で教えている内容である。ようするに、日本だったら入試問題に対応するために使うエネルギーを、先の勉強へと振り向けているのである。

 ヨーロッパ型の中等教育は、昔は、小学校を終えたところで、進学コースと職業コースに振りわけていた。1970年頃から、これに対する批判が高まり、各国で改革が進んだ。オランダは、もっとも柔軟なシステムを作った国に入るだろう。

 オランダ型だと、生徒にとっての中等教育は、年月をかけて、自分の適性を探していくシステムになる。本人の希望、能力と、社会からの要請が調整されやすい。

 オランダの人が言う。「われわれだって、30年前は、振りわけるだけの教育をやっていたんですよ」。》

●「振りわけるだけ」の教育をやっていたオランダが、30年をかけて、「自分の適性を探していくシステム」に変えていったという事実に、日本ももっと学んでほしい…。


 [人材資源乱獲型システム]から【変えにくいシステム】より

《受験制度の話をすると、それがすばらしい人間を育てているから積極的に維持しようという意見には、出会わない。賛成論のほとんどは、「それが現実だから」という消極的な理由である。いっぽう、弊害論はいくらでもある。しかし、だれも改革を起こせない。

「成績順に上から何人」方式は、漁業で「自分のところさえ取れればいい」と乱獲するのとよく似ている。乱獲しているうちに、資源が枯渇してしまうのである。人材資源乱獲型による資源枯渇と言ったらいいであろうか。

 人間は、自分の才能を発揮できる仕事と、心の通い合う社会生活と、自由な精神を必要としている。教育がその手伝いをしてやらなければならない。しかし、現在の競争教育のあり方だと、自分にレッテルを貼って身売りするしかない人間を大量に育ててしまう。》

●「人間は、自分の才能を発揮できる仕事と、心の通い合う社会生活と、自由な精神を必要としている」
ーこの定義づけは、根本的な深い考えだと思いました。子育てにしろ何にしろ応用できるのではないでしょうか。
 「自分にレッテルを貼って身売りするしかない」という表現も、まさにそうだ、と感じました。

 [選抜方法を変えても入試は改善されない]から【資格方式だと流動性ができる】より

《資格さえあれば入れてくれる方法は、どこかの大学に生徒が殺到してパンクするのではないかと思われるだろうが、現実に多くの国で成り立っている。その大きな理由の一つは、資格方式だと、入学後の流動性があるためである。

 学生は、入学してみてそこが自分に合わなければ、ほかの学校に願書を出しなおすだけで簡単に移れる。これは大学側にとっても、留年者を出しやすいことになる。留年させた学生がほかに簡単に移れるから、路頭に迷わせる心配がない。大学側は、希望者をどんどん入学させることができる。どうしても人数に無理があれば、くじ引きか、先着順にする。

 これは、本人にとっても適性を見つけるのによいことである。試行錯誤してみなければ、自分の適性はなかなかわからないものであろう。学生側も、一度資格を取ってしまえばいつでも大学に行けるから、高校を卒業していったん社会に出たり、やりたいことをやったりできる。ヨーロッパの大学入学平均年齢は26歳である。

 一生の間に学びたいときに学べる生涯学習体系が発達している国は、このような資格入学制度を取っているから、うまくいくのである。日本の場合だと、高校を出たところで受験しないと合格しにくいし、入学試験に合格しても、その年に権利を使わないと消滅してしまう。いきおい、高校を卒業するとすぐに進学するしかないのである。

 生涯教育が盛んであることと、大学の入学が資格化されていることとは、表裏一体の関係なのである。

 さらにつけ加えれば、生涯教育が盛んであることと、大学教育が無償であることも大きな関係がある。社会人になってしまうと、たとえ大学が無償であっても、学んでいる間は収入が途絶えてしまう。それだけでも条件はきつい。まして、多額の授業料を払わなければならないなら、学びたくても状況が許さないのだ。》

●「生涯教育と大学入学の資格化、それに加えて大学教育の無償化との間に大きな関係がある」
ーこのことを知っている、あるいは考えたことのある人はあまりいないのではないでしょうか。でもこれは、一国の教育制度を考えていく上で、とても重要な事例であるはずです。

 私も、これからの社会は「生涯、教育」の体系を整えていくことが大切だと私も思い、ブログにもそのようなことを書いてきましたが、私が想像していた以上に大事なことなのではないかと、古山さんの文章を読んで感じました。


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