さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

私のこと

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 私の東京暮らしは、高円寺の友人の四畳半一間の古アパートに転がり込んでの居候生活から始まりました。1986年末のことです。
 富士重工の期間契約社員(期間工)として数ヶ月働いて貯めた資金をもとに、西荻窪にアパートを借りて、世話になった?友人のもとを去りました。
 
 快適な西荻窪での一人暮らしでしたが、あるとき、「吉祥寺に住んでいる早稲田の学生が同居人を探している」ことを聞きつけ、私は彼との共同生活をすることを選択しました。

 彼は弁護士志望の学生で、ミニコミを発行しておりネットワークが広く、共同生活をすると何か楽しいことがあるのではないか、と当時の私は感じたのだと思います。

 それと、吉祥寺駅から歩いて10分程のところにあったその家は、四畳半2間に加えて10畳程の広い今、それに「風呂」があるのが何とも魅力的で、家賃は折半して3万5千円ずつでOKだったのです。

 私が東京に行ったのは、「いろいろなものを見てさまざまなことを体験したい」というのが根本的なところにあったので、「共同生活を体験する」ことを選んでみたのでした。

●さてその同居人の彼、K氏は、「選挙大好き人間」を自称していました。選挙運動を手伝うのが楽しくて楽しくて仕方がないのだそうです。その彼が当時出入りしていたのが、菅直人さんの選挙事務所でした。

 菅さんは市民運動を通して政治家の道を歩んできたと最近よく紹介されていますが、まさに一介の学生が自由に出入りするようなかたちの選挙を、当時菅さんは作っておられたのだと感じています。

 私は選挙には欠かさず行くものの、自らそのような場を手伝うという発想はなかったので、嬉々として毎日のように菅さんの事務所を訪れる彼の姿を、「こんなヤツもいるんだなぁ」という目で見ていたように記憶しています。私も保守党より革新政党の方を好んでいたので、菅さん自身のことは応援していましたが。

 それともうひとつ、彼の憧れの弁護士は、福島瑞穂さんでした。当時から、女性をはじめとしたいわゆる「弱者」の人権擁護の活動を福島さんはやってらしたと思います。あるときK氏が、「福島瑞穂さんに会って話せた! 自分も早く弁護士になって彼女のような活動がしたい」と言っていたことを覚えています。

●その後福島さんは社会民主党から国会議員となり、土井たか子党首の後を継ぎました。そして今度は、政治家として何度も苦節を味わった菅さんが総理大臣となる日が来たのです。

 私が吉祥寺に暮らしていたのは約20年前です。自民党政権が覆るなんて思いもしなかった時代でした。そして、この若き二人の活動家?が政党の顔になり、政権を取って一人は首相、一人は大臣(すでに辞めておられますがー)になって国政を司る日が来るとは、K氏も感慨深く思っていることでしょう。私だって感慨深いですから。

 長年、「自分が総理になったら・・・」と考えていたという菅さんには、(鳩山前首相のように?)悔いを残すことなく、思い切った政治運営をしていってもらいたいものだと私は思います。

●K氏は私との約2年間の共同生活の後、「弁護士試験に集中する」と実家に戻っていきました。その後連絡を取っていませんが、無事弁護士になって活躍されているでしょうかー。

 K氏の後私は、オーストラリア人との共同生活をしました。彼とはソリが合わなかったのか?、2〜3カ月で出て行きました。私は次に共同生活をするなら、できれば韓国人としたいと思っていたのですが、友人のツテでそれが叶い、韓国からの留学生との共同生活をすることができました。

 彼とはウマが合い?、いろいろなことを話して、いろいろなところへ出かけて、いろいろな友だちを紹介し、「チング(親友)」となることができました。

 私が北海道へ帰省する際に同行して親兄弟親戚を驚かせたのもいい思い出ですし、彼の結婚式に出席するため、韓国まで私の父親を連れて行ったのも、本当にいい体験でした。

 菅さんの首相就任演説を聞いていて思いだしたのは、私自身のそんなこんなの東京生活のことでした…。
                                           (おしまい)

 この本には、ランディさんの介護体験が書かれていました。
 父親はアルコール依存症で、そのため家族は常に暴力暴言破壊行動などに脅かされてきました。兄は最後まで父親を憎しみ続けた末に自ら命を絶ち、母親も他界した後、唯一の肉親として父親の面倒をみることになったランディさんでした。

 彼女もずっと父親を憎み続け、そこから離れたいと願い、それを実現して自分の家族を持ち平穏な日々を過ごしていたのですが、再び父親に振りまわされる生活になってしまいます。

 病の果てに痴ほう行動を繰り返したりする父親をホスピスに入所させ、まだ幼い娘とともにホスピスで共に過ごすことを選択し、最後まで看取ることになったそのプロセスは、ランディさんの心の葛藤が伝わってきます。

 ランディさんは、父親ががんとわかったものの転院する病院が見つからず、切羽詰まった末に、旧知の仲である「浦河べてるの家」のソーシャルワーカーである向谷地生良さんと、精神科医の川村敏明先生に電話をかけて泣きついたことがあるそうです。そして、「アルコール依存症にかけてはプロ中のプロである二人の助言は、ずっと私の心の支えだった」とのことでした。以下、本文より(p.200)ー

《向谷地さんが「田口ランディを作ったお父さんに会ってみたい」と言ってくれた時は、正直、大泣きした。この温かい励ましの言葉は今も心に残る。父と私の40年にも及ぶ葛藤をすべてひっくり返し、春の日の光で照らしてくれるような、そんな言葉だと思った。》

●私はランディさんにとても共感しながらこの本を読み進めました。私の境遇に共通している部分が大きかったからです。

 私の父親はアルコール依存症というわけではありませんでしたから、ランディさんのお父様のような振る舞いで家族をめちゃくちゃにしたわけではありませんが、さまざまな理由から私は父親のことを憎んでいました。たぶん中学生くらいの頃からでしょう。

 父親のもとを早く離れてしまいたくて、北海道から出ることを選択しました。しかし、父親は定年を迎える頃には痴ほうの症状を見せ始め、「問題行動」が頻出するようになってからは、私がUターンして面倒をみることなしに父親は暮らせないような状況になりました。母親はすでに離婚し、弟は結婚して家庭を持ち多忙な仕事に追われていたので、独り身だった私が見なければどうしようもなかったのです。

 せっかく父親のもとを離れて東京暮らしを謳歌していたのに、結局は自分が父親の介護を引き受けなければいけないという人生の不条理?を恨めしく思いましたが、別れた母親を恨む気持ちには不思議となりませんでした。別れる後押しをしたのは当の私であり私たち兄弟だったのですから。

 悩んだ末にUターンして介護生活に入り、さまざまな葛藤を経て父親を特別養護老人ホームへ入所させ、その後父親は逝きました。父親が逝った後私はご縁のあった女性といっしょになり、子どもに恵まれ、仕事に恵まれ、今を生きています。

 あれだけ憎み、嫌悪し、「父親のように生きることだけはしたくない」という思いを胸に生きて来た私でした。でも今は、そんな父親がいとおしいとさえ思えます。すべてを嫌っていた父親なのですがー。

 「父親への反発心が私をここまで育ててくれた」ことは、まぎれもない事実なのだと、ランディさんの本を読んであらためて思いました。まさに、「私を作ったお父さん」なのです。

 どんな父親でもいいのだな、と思います。そのようにしか生きられないんですから。ボケて醜態を晒し続けた父親は、やはり偉大なのです。よくぞもがき苦しみながらも生き続けてくれたことと思います。

 子どもはどんな親からだって、育ちたいように育つものなのでしょう。それぞれの環境により、ひとり一人別の存在としての個性が備わるのだと感じます。

 「送り迎え」をしなくていい、という時が本当にやってきたということに感慨深い思いを抱いている私…。ついつい、「今日のお迎え時間は?」と連れ合いに聞きそうになってしまいます。赤ちゃんのときからどこへ行くにも「送り迎え」があって当然で、それをまず考えるという生活習慣だったのでー。

 あのボンズ(ウチの息子のことですー)がわりと遠くにある小学校に親の付き添いなしで登下校しているという事実に、「子どもって本当に成長するんだな」という思いでいっぱいになります。そして、「一人歩き」して着実に親の庇護のもとを離れていっているということに対して、一抹の寂しさを感じます・・・。

 現在中3の娘とは、連れ合いといっしょになった小学1年の時点から暮らし始めていますから、このような思いは抱かなかったのでしょう。ボンズに関しては、アトピー、喘息、と数々の苦難?を乗り越えてきた上でのことですので、なんともいえない思いがあるのだとも思います。

 もっとも、1年以上前に、小学校と同じくらいの距離にあるスーパーマーケットから一人でさっさと帰って来て、家の玄関が空いていなかったので家の前で遊んでいたら、隣のお宅で預かってもらっていたーという武勇伝?があるボンズですから、道を覚えてしまうのは朝飯前のことなのでしょう。そのときは探しまわった末に、まさかと思って家に戻ってみたら帰り着いていたので驚きだったのでした。

 学校も児童会館も楽しそうに行っている息子を見ていると、「オレを見くびるなよ〜」と、小さな、でも一年前からはずっと大きくたくましくなった体で訴えているような気もします。

 学校も児童会館も当然「お昼寝」がありませんから、喘息の心配がないのも、本当にありがたいことです。もっとも喘息の要因はお昼寝布団だけではありませんから、この先また新しく気をつけていかなければならないことも出てくるでしょう。

 でもとりあえず、喘息発作を起こすことなく新しい環境に適応していっている息子の姿に、心の底から安堵しているこの頃です。

●家に多くいることのメリットがひとつありました。
私の教室の教材プリントを「算数と国語を1日1枚ずつ」する習慣が身についたことと、「毎週図書館に行って借りて来る絵本を一人でも見るようになった」ことです。ひらがなもカタカナも、そして漢字も、特に教えていないのに、どんどんと読めるようになったのですから驚きでした。

 ウチで使っている「らくだ教材」は、「1日1枚ずつ」やる習慣さえつけば、小学校に入ってからの勉強の心配はな〜んにもありません。本人がやってみたいと言ったときにやらせて、できたからうれしくて、新しいことを学ぶのが楽しいから続いているのです。それだけで「学力」も「学習習慣」も身につきます。

 途中にはやりたくない時期ももちろんありますが、そのときそのとき必要な援助をすることで、やりたくない時期も乗り越え、いつのまにか何も言わなくても自分から「1日1枚ずつ」やるようになってきているのですから、これもまた驚きです。

 でも、もしも保育園に夕方まで通えていたら、まだこの習慣はついていなかったはずです。午後ずっと家で過ごしていたから、その子に合ったタイミングで声をかけて学習習慣をつけてこられましたが、夕方帰ってから寝るまでの間にそれをするのは困難なことだったでしょう。

 その子によって違いますが、夕方帰ってご飯食べてテレビ見て遊んでお風呂に入って寝る、という日々の生活の中に「学習」を組み込むのは幼児にとっては大変なことですし、無理にそれをすることもありませんから。

●それにしても、保育園には感謝の気持ちでいっぱいです。
心ゆくまで遊ばせてくれた上に、基本的なしつけなどもしてくれたのですから、もしかしたら家庭より保育園で学んだこと、育ったことの方が多いのではないでしょうか。多種多様な人たちと関わる体験ほど貴重なものもないと思います。

 ひとつエピソードがあります。息子の卒園によせて、保育園の年下の子どものお母さまからお手紙をいただきました。「ウチの子をかわいがってくれて、遊んでくれて、ありがとう」と、本人にも私たち親にも伝えてくださっていました。

 ウチの子がその子をかわいがっている、よく遊んだり面倒をみたりしている、ということを聞いてはいましたが、お母さまに感謝されるほどだとはびっくりでした。ウチの子がいなくなって、その子はこれから大変だ、なんてことを先生はおっしゃってくれていましたがー。

 いずれにしろ、こんな優しい面があるんだなぁと、家ではわからない子どもの一面を目の当たりにさせてくれました。

●これからは児童会館通いになります。
いつでもどこでも、同年齢くらいの子どもがいたら、すぐに仲良しになって遊び回る子どもの姿を見ていて、私は感心させられていました。「スゴイなぁ、仲良しになる天才だなぁ」とー。きっとこの能力を発揮して、児童会館でも小学校でも、友だちをいっぱい作ってくれることでしょう。

 保育園へ通わなくなって一番寂しがっているのは、親(私)かもしれません。保育園を通じて、私は「父親」というものにさせてもらったような気がしていますから。

 3月31日で息子の保育園通いが終わりました。最終日に、お世話になった先生たちひとり一人に挨拶をして帰りたいな‥と思っていたのですがー。

 お昼に迎えに行くと、熱が7度8分くらいあって、昼食は食べたけど具合が悪いようだと伝えられました。本人も調子が悪いため早く帰りたがっていたので、そんなに名残惜しんでいるわけにもいきませんでした。

 でも、特にお世話になった年長組の先生たちが集まって来てくれたり、主任の先生と話をすることができました。私としては、あかちゃんの頃にお世話になった先生たちや、他の先生、用務員さんたちにもお礼を言いたかったのですが、しょうがありません。

 「また遊びに来てねー」と言ってくれていたので、自転車が乗れるようにでもなったら一人で遊びに来るでしょうか。

●他の保育園を私は知りませんが、ここの保育園の先生たちはいつも明るく、毎日毎日子どもたちと元気いっぱいに遊んでくれていました。ここに通わせられてよかったなと思います。

 運動会では毎年必ず先生たち全員で行う「出しもの」の時間があって、衣装を揃えて歌ったり踊ったり、子どもより大人を楽しませてくれました。いや、先生たち自身が一番楽しんでいたのではないでしょうか。最初これを見たときは度肝を抜かれました、「ここまでやるの!?」とー。後に、この保育園を象徴しているのがこの「出しもの」じゃないだろうか、と思いました。

 とはいえ、表向きいつも明るく楽しくの先生たちでしたが、裏ではいろいろご苦労されていたのでしょう。特にウチの子の喘息への対応では、給食などいろいろ配慮いただいたり、気苦労も多かったことだろうと思います。

●保育園に夕方まで通えた時期はほんの数ヶ月、あとは喘息との闘いで、お昼帰りがほとんどでした。ここ数ヶ月は家にお母さんがいるようになりましたが、その前まではお昼に保育園から帰ってから私といっしょにどう過ごすかが、毎日の課題でした。

 夏場は保育園からそのままいろいろな公園へ直行していました。暑い時期には、水浴びできるような公園によく連れていきました。公園に行くと、同年代の子どもたちとすぐに仲良くなり、ずっと遊び続けていました。

 冬場に入ると家で私と遊ぶことになりますが、教室の生徒対応をしなければいけない上に夕方までずっとつき合うわけにもいきませんから、ビデオなどを見ながら過ごすことがどうしても多くなってしまうのが残念なことでした。

 でもそれはそれでしょうがないことですし、好きなビデオだってそのうち飽きてしまい、やっぱり友だちと遊ぶのが一番楽しいことだという思いが息子の中にあることがわかりましたので、保育園以外の子どもと遊ぶことができるときは連れて行ったりもしていました。

●最初は、「毎日お昼に迎えに行って、私と過ごさなければいけないなんて大変だな〜」と思っていましたが、そのうち、「保育園に通える時期なんて限られているんだから、こんなにいっぱいまだ幼い子どもと過ごすことができるなんて、とても貴重な時間」だと思うようになりました。

 おかげで、いろんな公園に行ったり、図書館に行ったり、虫取りに行ったり、多くの時間を子どもと過ごすことができました。きっと、後で振り返れば振り返る程、「とってもいい時間だった」と思えるのではないでしょうか。

 あと数年もすれば、「オヤジとなんか遊ばないよー」と言われるに決まっているのですから、「遊んでくれる」今は大切なときです。

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