さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

私のこと

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●ミュージシャンであり、また垣根を越えたさまざまな活動にその才能を発揮されていた加藤和彦さんがお亡くなりになりました。
 常に第一線で最先端を走っているイメージのある方でしたが、このところ、昔の音楽仲間たちと昔の歌を歌っている場面を多く見るようになって、「加藤和彦さんも年を重ねて丸くなってきたのだなぁ」となんとなく思っていました。でもなんだか、ちょっと違和感がありました。

「あの素晴らしい愛をもう一度」「イムジン河」「悲しくてやりきれない」…等など、珠玉の名曲を残してくれた加藤さんのご冥福をお祈りします。生涯の音楽仲間であり盟友であるきたやまおさむさんの追悼文にも感銘を受けました。

●長門裕之さんが、認知症となった南田洋子さんを、長い間の介護生活の末に、とうとう見送ることとなりました。南田洋子さんとの介護生活の様子を公表し、賛否両論あったそうですが、私は公にされたことを支持したいと思います。
 認知症になったからこそ分かり合えたことは、前回ご紹介した佐野洋子さんの文章と重なるのではないかと思います。しかし、その思いに至るまでには、どれだけのことを乗り越えてきたのか、と感じます。

 私はボケた父親を最期まで看取ることをしませんでした。1年半程の介護生活の後、新設された特別養護老人ホームに「運良く、思いがけず」入所することができました。そして父親はその3〜4年後、逝きました。

 私が父親との介護生活のためにUターンしてきたのは、33歳の時でした。もっと年を経ていたら、在宅介護を全うしていたのかどうかーそれはいまだにわからないことです。

 「娘が母親を介護する」、「夫が妻を介護する」、そして、「息子が父親を介護する」…。三者三様、そしてそれぞれの家族の歴史によって、大変な部分は違ってくるのだろうなと感じますー。

 [直接的にか、間接的にか、あるいは何かを迂回して、「かれ」と出会う]
 【2008年6月9日のブログ】より

《テレビのニュースを見て、新聞を読んで、関係者の証言や、心理学者の解説を聞いているのだがほんとうは何が起こったのかということがよくわからない。加害者の「かれ」の中で何が起こったのかがよくわからないのであり、被害者と加害者の間にある落差のなかに、何があるのか(あるいは何がないのか)がよくわからないのである。

 残虐非道の加害者と無辜の被害者。切れる性格と、挫折、苛立ち。会社でのトラブルと、社会への呪詛。チェックが甘い銃刀法。自己顕示欲とバーチャルな世界。劇場としての秋葉原。身勝手な行動が引き起こした憎むべき犯罪。ニュースは、そう伝えている。

 加害者の生い立ちや家庭環境が、解剖学者のような手つきで暴かれる。それでいいのか。それで、この事件が説明できるのか。この事件の背後にある闇が見えてくるのか。

 俺はそうは思わない。こういった常套句は、何も解き明かしはしないと思っている。ニュースのキャスターも、新聞も、識者も自分たちは可能性としての被害者であるという立ち位置から自由になれない。ここに欠如しているのは自分たちが、どこかで、何らかの行き違いや、思い込みや、あるいは必然によって加害者である「かれ」になり得たかもしれないという可能性としての加害者の視点だろう。

 少年時代の「かれの顔」と凶行へ至る「かれの顔」との間にある落差とは何だろう。「かれ」が失ったものは何だろう。おそらくそれは、常識、良心、想像力、社会性といったものではない。「かれ」に過剰だったものとは何だろう。被害者意識、暴力性、破壊衝動。それらは原因ではなく、事後的に拡大された兆候であり、誰にでもあるものに過ぎない。

 確からしいことは、「かれ」は俺たちがまだ見出せていないような「必然」によって社会とのつながりから切断された存在になっていたということだけである。その「必然」が見えなければ、この事件は被害者と加害者というような明確な輪郭を持ってはいても、加害者の中に広がっていった闇については何もわからないままである。もっと言うなら、その闇の意味を見出せないままに書かれた「再発防止」の処方は、その闇を隠蔽し、広げるだけだと、俺は思う。》

【6月26日のブログ】より

《自分は、「あの時」暴走するトラックを運転しておらず、あの駅に降り立たず、あの交差点を歩いていなかったのは、自ら意図して選び取った賢明な選択の結果ではなく、ただ、たまたまそうなったということなのだと思うべきなのだ。

 もちろん、そんなことを思ったからといって、何か解決できるわけではない。ただ、「そこ」が起点であり、「そこ」から考えなければ何も解決することはないということだけは確かなことのように俺には思えるのである。

 犯人は社会から切断されたと思っていた。被害者は、唐突に世界から切断されたのである。
 俺たちは、この事件の真相を究明することで、再度かれを社会から切断しようとしている。そうではなく、犯人と被害者と、俺たち自身をもう一度どうやったらつなぎなおすことができるのかを考えてみる必要があると俺は思う。

 そのうえで、この事件「まで」の、文脈の全体(市場主義社会といってもよい)を書き換えることができるのかと問うてみる必要がある。ほんとうにそう思う。》


●私自身、《加害者である「かれ」》になり得る可能性があると感じていました。どんな凶悪な事件を起こす人間も、自分たちとは別の種類の人間だというわけではないでしょう。人にはそれぞれに物事に至る「必然」があって、心の闇をゆさぶるような何らかのきっかけによって、人は誰でも凶悪者になるのではないでしょうか。少なくとも、そう思って生きていくことが、そうならないために必要なことであるように感じます。

 ずっと読みたかった本が、ようやく届きました。図書館で予約した時点で、100人以上の方の予約がすでに入っていた本です。別に急いで読まなければならないものでもないので、悠長に待つことにして、私も予約していました。

 なぜ読みたかったかというと、作家の佐野洋子さんが、ご自身のお母さまの介護体験を、赤裸々に描いたものだと知ったからです。「赤裸々に」というのは、通常表に出したくないようなご自身の感情の動きまで記してあるからです。私も介護体験がありますから、佐野さんに共感する部分は大でした。

 そして、最後の最後に、私には思ってもみなかった「どんでん返し」? がありました。「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、まさにそう感じさせられるものでした。私は大感動しました。予約して待って読んでよかったと本当に思いました。

「母さん、呆けてくれて、ありがとう。神様、母さんを呆けさせてくれてありがとう」と心から思える佐野さんー私はその気持ちもよくわかります…。
 簡単な言葉で表せるものではありませんが、親について、そして人生について、深く考えさせられました。

 以下、特に心が動かされた部分から一部抜粋させてもらいます。
                         *
《愚痴はこぼしたし、人の悪口も云ったが、しょぼくれた母を私は見たことはない。体が頑強であったように、精神もタフで荒っぽかった。
 子供の話をしみじみ聞くことはなかったから、子供は母と話をしなくなった。
 しかし他人の話はしみじみ聞いたからこそ、人に好かれもし、頼りにもされていた。
 家族とは、非情な集団である。
 他人を家族のように知りすぎたら、友人も知人も消滅するだろう。
 父が死んでも、母はばっちり化粧をし、身だしなみが、だらしないことはなかった。
 私はずっと母を嫌いだった。ずっと、ずっと嫌いだった。
 私の反抗期は終りがなかった。》

《母さんに触れる様になった事はすごい事だった。呆け果てた母さんが、本当の母さんだったのだろうか。呆けても本能的に外敵を作らない様に自分を守ろうとする力が自然に湧いて来るのだろうか。》

《私は老人ホームのベッドの中で、自然に母さんのふとんをたたいていた。
「ねんねんよう、おころりよ、母さんはいい子だ、ねんねしな」母さんは笑った。とっても楽しそうに笑った。
 そして母さんも、私の上のふとんをたたきながら「坊やはいい子だ、ねんねしなー。それから何だっけ?」
「坊やのお守りはどこへ行った?」
「あの山越えて、里越えて」とうたいながら私は母さんの白い髪の頭をなでていた。
 そして私はどっと涙が湧き出した。自分でも予期していなかった。
 そして思ってもいない言葉が出て来た。
「ごめんね、母さん、ごめんね」
 号泣と云ってもよかった。
「私悪い子だったね、ごめんね」
 母さんは、正気に戻ったのだろうか。
「私の方こそごめんなさい。あんたが悪いんじゃないのよ」
 私の中で、何か爆発した。「母さん、呆けてくれて、ありがとう。神様、母さんを呆けさせてくれてありがとう」
 何十年も私の中でこりかたまっていた嫌悪感が、氷山にお湯をぶっかけた様にとけていった。湯気が果てしなく湧いてゆく様だった。
 母さんは一生分のありがとうとごめんなさいを、呆けて全部バケツをぶちまける様にいま空にしたのだろうか。
 母さんは生れた時にこんな風に「ごめんなさい、ありがとう」と一緒に生れて来たのだろうか。
 誰でも「ごめんなさい、ありがとう」と一緒に生れてくるのだろうか。そしてだんだん、そう云えない事情や性質が創られてゆくのだろうか。
 私はほとんど五十年以上の年月、私を苦しめていた自責の念から解放された。
 私は生きていてよかったと思った。本当に生きていてよかった。こんな日が来ると思っていなかった。母さんが呆けなかったら、昔のまんまの「そんな事ありません」母さんだったら、私は素直になれただろうか。
 多分呆け始めて六年以上たっていたのだと思う。呆けてから、さすがに私は母さんに嫌みを云ったり責めたてたりする事はなくなっていたが、自分の家を追いたてられてさすらい人になってしまったのは自業自得だからね、とどこかで思っていた。
 その日が私にとって一生一度の大事件だったと思えた。
 私は何かにゆるされたと思った。世界が違う様相におだやかになった。
 私はゆるされた、何か人知を越えた大きな力によってゆるされた。
 私は小さい骨ばかりになった母さんと何度も何度も抱き合って泣きじゃくり、泣きじゃくりが終ると、風邪が直った時の朝の様な気がした。》

ー以上。

ボートの思い出

 ‘シルバーウイーク’も終りましたね。私は特に遠出はせずに、子どもと近場を回って秋を楽しんだという感じです。

 フト思い立って、札幌中島公園のボートに乗りに行きました。約30年以上前、高校生の時分に行った記憶があったきりだったので、まだあるのかなと思っていましたが、あそこの池の周りだけ、30年前と同じようなたたずまいで残っていたのにはちょっと驚き、そしてうれしく思いました。

 ボートは結構老朽化していましたが、それはそれでよかったですし、たぶん東京時代に井の頭公園でボートに乗って以来、久しぶりにボートを漕ぎました。いやもしかしたら、井の頭公園は近くに住んでいたので何度も訪れましたが、ボートには乗っていないかもしれません。

 はっきりと思い出すのは、1998年頃に訪れたヴェトナムはホーチミン市の公園の池で乗ったボートです。友だちになった同年代の面々と乗りました。彼らは今どうしているだろう…。

 トンボがいっぱいいて、鴨もたくさんいて、ボート上でおにぎりを食べて、ウチの子は初めてのボートに喜んでいました。

 私も思いきり漕いで楽しみましたが、隣のボートではウチの子と同い年くらいの子が上手に漕いでいました。ウチの子はそれを見ても「自分もやりたい」とは言いませんでしたが…。

「化粧をしないと歌えなかったんだろうな」(北野たけし談)というシャイな側面と、政治的なことも厭わないで歌う反骨精神、私はそんな人柄に惹かれていました。また、誰にもマネできないオリジナルの声と泣かせる曲ー忌野清志郎は、年を重ねていくにつれ魅力を増し、私の憧れる存在でもありました。

 たまたま彼と一時代を築いたサックス奏者、梅津和時さんとの出会いを、最近のブログで書くことになったのも不思議な縁だと思います。

 彼の葬儀ー青山ロックンロールショーでも、梅津さんはサックスを吹き捲くっていたことでしょう。追悼番組として放送されたライブでも、キヨシローとフロントに立ち、しびれる演奏を聞かせてくれていました。

 つい先日、筑紫哲也さんの追悼番組で、二人の対談場面が放送されたばかりだったのに、その二人が二人とも逝ってしまった…。それも‘ガン’で。

 抗がん剤でガンと闘い、復活した!と思って表に出たら、それが打ち上げ花火だったかのように、急速にその後沈んでいくーそのようなかたちで逝ってしまった人が多くいるように感じるのは、私だけでしょうか。
 
 病院での治療をすべてやめ、心からやりたいことしかやらないで生きていく、と決めたら、がん細胞はすっかり消えてしまっていたーそのような話も聞きます。

 いったい何がいいのだろう。人それぞれ、今生きている、その延長上で決めていくことなのでしょう。
私はきっと、医療的治療はやらないかたちで、「好きなことしかやんね〜ぞ」と言って、わがままに生きることを徹底することでしょう。それが今の延長上のことですからー。


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