さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

私のこと

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 ウチのボンズはこのところ喘息発作を頻繁に起こし、保育園をお休みすることが多くなっていますが、今週は特に調子が悪く、昨日の午後から悪化したのを引きずって、今日もお休みしています。
 朝になったら元気で遊び回っているのでちょっと安心して、運動不足解消もあって私が雪かきをしに外へ出たときいっしょに外へ出て遊んでみました。

 しかし…わ〜っと走ったらぜぇぜぇしてきたので本人も「アレ?」と思ったらしく、家に入っていきました…。これは保育園で外遊びしたときに調子を崩してもしょうがないなぁーと思い、今冬は外遊びをしない方がいいように思いました。
 5歳の遊び盛り、雪の中で思いきり遊ばせてくれる保育園に感謝していたんですが、しょうがありません。今冬は中で遊んで発散して、体力をつけていってほしいなと思ってます。

 そのようなわけで、ボンズといっしょにいたら昼食、オヤツ、夕食、と作る上になんだかんだと付き合わなければならず、ブログも途切れがちです。が、こんな時期は長い間続かないでしょうし、家にいてやれる仕事だからこそ喘息持ちの子どもをみながらでも生活が回っていくわけで、そのこと自体は恵まれていることです。

 アレルギーを持つにも関わらず大食漢?のボンズのオヤツは、手づくりのものにするのが一番なので、このところよく作っています。おはぎ、かぼちゃだんご、さつまいもパンケーキ(米粉)、等などを大量に作るのは結構骨が折れる作業ですが、こういったものを喜んで食べてくれる子どもの姿を見るのはうれしいものです。
 結果的に市販のお菓子類はほとんど口にしていませんから、アレルギーのおかげで?すくすくと丈夫な体に育っていっている…とも言えなくはないような気がしています。

●そんな中、図書館で予約してようやく届いた『毎日かあさん 4』を読み終えました。
西原理恵子は『ぼくんち』で衝撃を受け?、それ以来何かと読んでいましたが、最近はテレビでも見かけるようになりました。

 『毎日かあさん』は、子どもとの日常を描いたものですが、今号はお連れ合いとの「永遠の別れ」が描かれており、これには泣けました。アルコール依存症を克服して家族4人暮らすことができるようになったのも束の間、今度はガンに冒されて、「家族の暮らし」は半年ほどで終わりを遂げてしまったとのことです。でも、その半年間は濃密な一生分にも値するような「家族の暮らし」だったとのことです。
 家族って何だろうなぁ…と、改めて考えさせられました。

 先日、漫画家の手塚治虫と「音楽」との関わりについて特集した番組を観ました。今年は手塚さん(手塚大先生!と呼びたいくらいですが)の生誕80年ということで、NHKでは彼に関するさまざまな特集を今後もしていくとのことで、その第1弾でした。

 彼が音楽に造詣が深く、クラシックを中心に好きだったということは知っていましたが、漫画を描いている時は必ずクラシックを大音量で流していたとは知りませんでした。

 また、テレビアニメを作る際に、音楽家の富田勲に直接電話をかけて依頼したということなどのエピソードが富田さんの口から直接語られたのが、とても興味深かったです。

●わずか3歳から見ていたとは・・・

 私は鉄腕アトムをはじめとして、小さい頃からずっと手塚さんのアニメを観ていますから、いろいろ影響を受けて育ったと思っていました。そして今回、それは私の想像を超えたものだったということを、改めて知ることができました。
 
 驚いたのは、小さいころ好きで見ていたテレビアニメの中で、手塚治虫の作だと今の今まで知らなかった番組が多くあったことです。 
 鉄腕アトム、リボンの騎士、ジャングル大帝、ふしぎなメルモ、等などは知っていましたが、ワンダースリー、どろろ、海のトリトン、マグマ大使、悟空の大冒険、等なども手塚さんの作だったことを、今回初めて知りました。 
 他の手塚作品も覚えている方がいたら教えてください。
 
 また、初放映された年代がクレジットされていたのを見て、こんな幼い頃に自分が夢中になって見ていたという事実にも驚きました。

 1965年ー鉄腕アトム、ジャングル大帝、マグマ大使、悟空の大冒険
 1967年ーリボンの騎士 1969年ーどろろ 1971年ー不思議なメルモ

 今でもよく覚えているアニメを、実はわずか3歳の時に見ていたとは! ウチの子が3歳頃にアンパンマンに目覚めた?のも当然かなー。

 そして、わずか5歳の時に「リボンの騎士」を見ていたとは! あんなロマン溢れる作品を5歳の私が見ていたのか…。「リボンの騎士」は手塚作品の中でも一番好きだったかもしれません。

 そして、わずか9歳で「不思議なメルモ」を見て心ときめかせていたとは! 小学校3〜4年、ちょうど前思春期に入ろうかという頃に、ちょうどはまるような作品だったのでしょうねえ。

 同じ年代のみなさんも、こんなに手塚作品に夢中になっていましたか?
 私が小さい頃、両親は共働きの上に共産党の活動をしていましたから、夕方から夜にかけて家にいないことが多くありました。そのようなこともあって、弟と二人テレビばかり見て過ごしていたことを、今振り返って思いだします。

 そんな時代に放映されていたのが手塚さんのアニメだったことは、とても幸運だったんじゃないか、と感じます。テレビアニメ黎明期であり、手塚さんをはじめとして作品に携わる方々は、「ディズニーを超えるものを作ろう」という熱意に満ち溢れていたといいますから、質の高いものが生みだされてきて当然だったかもしれません。

 3歳という幼い時期に、手塚アニメにどっぷり浸かっていたのですから、その影響は想像に難くありません・・・。

●アニメ音楽からの影響ー

 テレビアニメの主題歌および背景に流れる音楽まで手塚さんは心を配っていたと知り、彼の番組で育った私はその音楽を小さい頃から聞いていたことが、私の音楽好き(音楽遍歴?)の原点にあるだろうということもわかりました。

 「ジャングル大帝」のバックは音楽家の富田勲さんです。テーマ曲も含めて、その背景には壮大な音楽が流れていました。それは当時、LP版のレコードになって発売されたほどです。また番組では、大阪大学の交響楽団が富田さんの指揮で演奏していましたが、すばらしいものとなっていました。
「リボンの騎士」のテーマ曲は子ども心に本当にときめくものでしたし、今でもそれを聴いたら心が躍ります。

 ウチの子どもはこのところ喘息気味で保育園に行かずに家にいることが多く、どうしてもテレビやビデオを観る時間が多くなっています。また、おねえちゃんの影響もあって、音楽やお笑いなどの番組も大好きです。

 どうせ見るなら、手塚作品を見せたいなと思うこの頃ー。もしかしたら、Uチューブで観れるのでしょうか。子どもといっしょに観ようかなー。

 オバマ大統領就任演説で私の印象に特に残ったのは、
「ワークシェアリング」について言及していたことです。
「仕事がある人はそれを分け合っていかなければいけない」というようなことを述べていました。
 それを聞いて私は、「そうかー、やっぱりそういう時代に入ったということだな」と思いました。

 ここ日本でもワークシェアリングを広めることが大切だと徐々に言われるようになってきていますが、一般的にはまだまだ認識されていないでしょう。

●私が「ワークシェアリング」に関心を持ったのは、もうだいぶ前で、20年程近く前になるでしょうか。 自分がいかに生きていくか、「幸せとは何なのか」、等などのことを、ずっと考えていた時期だったと思います。

 私は、単に時間を切り売りするような仕事をしたくはありませんでした。できれば、自己実現につながるようなことを仕事としていきたいと思っていました。でも、それはなかなか叶うものではないことも承知していました。

 自分にとっての「幸せ」は、お金が入ろうとそうでなかろうと、「自分の時間」がなくなってしまうほど働くことにあるのではないことだけは、はっきりしてきました。

 独り暮らしなら独り暮らしで、自分の時間を有効に有意義に使うような人生を送ればいいし、結婚するならするで、パートナーと合わせた家計で暮らすくらいの方が、「家族の時間」を多く持つことができます。もっとも当時は自分の「幸せ」から「結婚」は除外していたのですがー。

 いずれにしろ、いいことずくめ?ではないですか。それ以来私は、自己実現を伴うことができる仕事を視野に入れた上で、「時間を切り売りするような仕事」をしてきました。そして、「少ない収入でも楽しく暮らすには?」を常に自分のテーマとしてきましたから、あのバブル時代の暮らしも、今の暮らしも、あまり変わらない暮らしをしていると自負しています…?

●もちろん、変わらないわけではありません。バブル時代には独身生活を謳歌し、毎夜のようにコンサート、演劇、映画、各種の講座やワークショップ、などに足を運んでいましたし、ジンベというアフリカンドラムに出合って、その教室に行ったり仲間と練習したりしていました。

 今はそれらのものになかなか足を運べません。でも、自分にとっての「幸せの価値基準」というのは、年を経るごとに変わるものでもあります。
 今は、外へ出なくても、子どもとの時間を過ごすこと自体大切なひとときですし、図書館で借りた本を読むことができる時間を持てるだけでも、満ち足りていると言えます。

 しかしこれらのことは、やはり「自分の時間」がないとできないことであることに変わりありません。そういった意味で、若い頃に志した「人生の方向?」は間違っていなかったと、今でも、いや、今だからこそ確信できます。

 当時時間とお金を費やして学んでいたジンベは、その基礎基本を身につけられたからこそ、北海道にUターンしてから学びたい人と学ぶ場を作り、時には子どもたちを含めたさまざまな人たちと演奏交流をしてコミュニケーションの輪を広げることができているのですから、その恩恵は私にとって計り知れません。

 また、今私が生業としている「らくだメソッド」に出合ったのも、ある「芸術と身体」をテーマとしたワークショップに参加した時に、らくだの創始者の方に出会ったのが始まりでした。

●そして大切なのは、「自分の身の回りのことは自分でできること」にもあると思います(障がいのある方などはもちろんその限りではありません)。

 私の母親は看護婦として働いていましたから、中学生の頃から弟と夕ご飯を交代で作っていましたし、料理に関心があったので、寿司屋、ラーメン屋、焼き肉屋、フランス料理屋、エスニック料理屋、和食屋、等などでアルバイトをしてはその技術をある程度身に付けていきました。

 独り身の時は、自分の時間を有効に使いたいため、夕食に費やす時間は「準備、調理、食事、後片付けを含めて1時間」と自分に課していました。これらのことは、家族を持つ身となった今こそ大いに役立っているのですから、人間わからないものです。
 
●これから十数年の時が過ぎると、子どもたちも巣立っていくはずです。そのときにはまた新たな「幸せ」が自分のもとにやってくることでしょう。それは今の生活の延長上のことになるのか、全然違ったことになっているのか、それはそのときになってみなければわかりません。

 ただ、これも一つ確信しているのは、「新しいこと、やったことがないことに挑戦する」ことは、人間にとってとても大切な生きていくための要素だということです。これは年をとったとしても変わらないでしょう。いや、年をとっていけばいくほどその重要性は増すはずです。

 年をとって輝きを増してくる人たちは、どんな分野にもいることでしょう。そしてそのような人たちは、きっと何かに常に挑戦し続けています。年をとってしまってからいきなりはできません。今この時から続けていかないといけないことだと思います。

●「ワークシェアリング」をすると、ひとり一人の給与は減ることでしょう。でもこの時代、そしてこれからの時代、どんな分野でも、そのパイが広がることはないでしょう。だったらパイを分け合うしかないのではないでしょうか。
 そしてそれにより増えるであろう「自分の時間」をいかに使うか、このことがそれぞれにとっての「幸せ」に直結していくのだと私は思います。

 オランダでは不況に陥って失業者が相次いだ時期にワークシェアリングを広く導入した結果、経済は持ち直し、人々も満足度の高い生活を送っていると聞きます。
 日本と人口規模が異なるとはいえ、参考にして然るべきではないでしょうか。

 あのアメリカでさえ、新大統領の口からそれが述べられる時代なのですからー。

 1月17日が来ると、毎年震災に関連したテレビ番組が放送されますが、年々その数は減っていきます。私は早朝からNHKを観ていましたが、地元神戸放送局制作の番組が放送されていました。時を経たからこそ、当時のことを振り返ることができ、そしてそれぞれのやり方で伝え続けている人たちの姿を見ると、「自分も自分なりに伝え続けなければ」と思います。

●私は震災当時東京に住んでいました。でも、その年のうちに札幌にUターンすると決めていました。
 父親の認知症の症状が重症化していっていたので、私が一緒に暮らして面倒をみていかなければいけない状況になっていたからです。私は自分自身に一年の猶予を与え、(楽しかった!)東京生活を思い残すことなく過ごすと同時に、認知症(当時は痴ほう)に関するあらゆる情報を集め、来るべき‘介護生活’に備えようとしていました。

 そんな折に起こった大震災です。テレビに釘付けになって見ていると、「あそこに行かなければー」との思いが湧き起こってきました。すると、同じように感じながらテレビを観ていた友人から電話がきました。私たちはなぜか、「自分たちがあの場に行って何らかのことをやらなければ」という使命感にかられていました。

 どのような方法で行き、何をすればよいのか、私たちは3日間できる限りの情報を集めました。当時はまだインターネットが発達していませんでしたから、電話やファックスでやりとりをし、時には膨大な量のファックスが送られてきました。

 そして、神戸に住んでいる友人の親しい友人が街中を走り回り、何ができるかを私たちに伝えてくれた結果、彼の住むアパートに全国から10人の仲間たちが集いました。面識のある人もいればない人もいます。友人たちのネットワークで、「自分にできることをしたい」と集まった仲間(若者)たちです。震災発生約3日後のことでした。

 私たちはそれから、「朝の炊き出し」をして兵庫区役所に避難している方々に提供することと、避難所の冷たい床で身体を冷やしてしまっているお年寄りに「足湯」をすることを中心に活動を続けました。

●どちらも大変喜ばれました。
 兵庫区役所には当時、暖かいものが提供されていませんでしたから、友人と同じアパートに住む中国人留学生の方を中心に作った暖かいスープは、芯から暖まると言われました。

 「足湯」は、私たちの仲間に、「気功」などの心得がある者がいたので発案されました。当時は、お湯を沸かすだけでも結構な手間がかかりましたが、洗面器にお湯を入れて、冷えたお年寄りの方々の足を揉んであげ、ちょっとした会話をすると、心が温まるような場ができました。

 私は約1週間後、仕事の関係で東京に戻りましたが、足湯の活動はその後地元のボランティア団体に引き継がれ、長く続けられました。

●大阪から船で神戸に入り、帰りは神戸から西宮まで自転車で走って帰りました。
 神戸にどうやって入るかが問題でしたが、援助活動をする多くの方々が大阪港から船で神戸に入りました。ひび割れた港の施設を目にし、神戸の北にある友人のアパートを目指して歩きました。初めて直に目にする震災に見舞われた街の光景は衝撃でした。
 帰りは西宮まで自転車でした。まだ電車も走っていませんから、西宮のボランティア団体のあるところまで走り、自転車を渡しました。

 神戸にいる間、ずっと瓦礫の街を歩き回りました。その光景は今の私にとって、忘れられない‘原風景’となって脳裏に焼き付いています。

 全国から集まった仲間たちは、その後も神戸に住む者もいれば、地元に帰る者もいました。今は全国各地に散ってしまいましたが、仲間の住む場で「何か」があれば、全国から集まって来てくれる、そんな確信があります。強い絆で結ばれたネットワークは、時空を超える、そんな思いがしています。

●震災一か月後にはタイコの仲間たちと神戸に入りました。一台のワゴン車に乗り込んで、夜通し走っての神戸入りです。
 タイコ仲間がNGO団体に入っていることから、避難所の子どもたちとタイコで交流することが目的でしたが、それ以外にも、商店街や避難所で演奏させてもらいました。

 中でも一番印象に残っているのが、ボランティア団体の拠点となっていた公園で夜、演奏したことです。私たちがこれまで演奏してきた中で、一番と言えるほどの盛り上がりとなりました。

 震災から1〜2か月が経ち、疲れも見え始めた援助活動従事者たちが、ここぞとばかりに「発散」できた、それがあの場をものすごい熱気と興奮に包み込んだのでしょう。私たちにとってとても意外なことでしたが、毎日の援助活動で心身が疲れていた人たちに、一時の楽しみと安らぎを与えることができたとしたら、とてもうれしいことでした。  

●震災後の神戸に滞在したことが、どれだけ大きな私の力になったことでしょう。

 それ以来、「Uターンして父親を介護しながら暮らす」生活をすることに前向きになりました。
「人間、生きていることがどれだけありがたいことか」を身にしみて感じられたのかもしれません。
 そして、「自分の運命を運命として受け入れる」ことからしかものごとは始まらない、人生を切り拓いていくことはできない、とある種の「悟り」?が開けたのかもしれません。

 私が神戸に行ったのは、最初から「自分のため」でした。
 悲嘆している人たちに私が何かしてあげることなどできるでしょうか。「何もできない」ところからしか何も始まらない、現場に身を委ねることから何かが見えてくるかもしれない、きっとそう感じたからこそ、居ても立ってもいられなくなり、一刻も早く神戸に行きたかったのでしょう。

 「自分のため」が結果的に「人のため」になったとしたら、それは望外の喜びです。

 14年目の1月17日朝、亡くなった方々を弔うロウソクに火が灯される黙祷の時間は、私にとっても大切な年に一度の瞬間です。

 お正月中に読むことができたのは、この『悩む力』1冊のみでした…。これも大半は、家族でバスに乗ってお参りに行く途上のバスの中で読みましたから、子どもが休みで家にいると、やはりほとんど本は読めません…。

 姜さんのこの本はとても読みやすく、どんどんと読み進めていくことができました。この本の中で一番印象に残った部分を一点、記しておきます。
                        *
 [第一章 私とは何者か]から 【「相互承認」しか方法はない】より

《結局、私にとって何が耐えがたかったかと言うと、自分が家族以外の誰からも承認されていないという事実だったのです。自分を守ってくれていた父母の懐から出て、自分を眺めてみたら、社会の誰からも承認されていなかった。私にとっては、それがたいへんな不条理だったのです。単なる思い込みだったのかもしれませんが、当時の私には、どうしてもそうとしか思えなかったのです。そして、それまで一心同体であった両親さえも、対象化して見るようになってしまいました。非常に殺伐とした気持ちでした。

 この経験も踏まえて、私は、自我というものは他者との「相互承認」の産物だと言いたいのです。そして、もっと重要なことは、承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要があるということです。

 他者と相互に承認しあわない一方的な自我はありえないというのが、私のいまの実感です。もっと言えば、他者を排除した自我というものもありえないのです。》

●誰でも通る道と言えばそうかもしれませんが、姜さんは「私とは何者か」ということに対して、悩みに悩んだ方だということが、本書を読んでよくわかりました。
 その当時の気持ちを思い起こし、今の若者たちに「大いに悩んでいいんだよ」ということを伝えたいがために、この本を著したと言えるのかもしれません。

 私も大学時代に悩みました。半年以上は今でいう引きこもり状態で、ほとんど誰にも会わず、自分の行く末、自分はどう生きてどんな人生を送りたいのか、ということに関して突き詰めていきました。
 周りはほとんど就職活動をする中で、私はそのようなことをする気がまったく湧きませんでした。

「どうして君が学校の先生になるの?」
「どうして君はそのようなものを作っている企業に就職するの?」
「どうして君はそのような道を選ぶの???」
 学友たちに対するそのような疑問でいっぱいでした。

 そして私は「草の根の視点で生きる」と意気込み、大学を辞めて友人を頼って東京に出て行く道を選びました。1986年のことでした…。

 そして紆余曲折を経て今に至るわけですが、私は自分の選んだ道をまったく後悔していません。後悔していないどころか、「草の根の視点で生きる」という方向性を決めたからこそ、今の仕事があり生活があると思っています。そしてそれは、当時思い描いていた自分の将来像以上に充実した日々であることは間違いないような気がしています。


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