さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

私のこと

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 日〜月(祝)と、家族で友人の住む静内(新ひだか町)へ行ってきました。
 今の時期に見合わないような陽気の中、快適なドライブとなりました。
 行きがてら、今が旬のししゃもを買いました。鵡川町はししゃもの町で有名です。この時期は街中至るところで、ししゃものすだれ干しが見られます。

 友人の家は、静内の街中からもっと先(浦河方面)へ行き、それから山側の道をずっと走ったところにありました。友人は小学校教員ですが、全校生徒13名という小さな小学校に現在勤務しています。しかしここの小学校も、来年統合されてなくなってしまうとのことでした。このようなことが、北海道の各地で起こっているのでしょう。

 統合されて遠くの学校に通う場合、バス通学になる子も多く出てきます。そうなると、せっかく自然に囲まれたところなのに、四季の変化をあまり感じられないままの登下校となります。私はそれが残念に思います。

 家に帰って友人と外で遊べばいいのでしょうが、あまり家が離れていては、下校後に遊ぶのは難しくなるのではないでしょうか。私も自然に囲まれた田舎の小学校に通っていました。子どもの足で登下校に一時間以上はかかっていたでしょう。学校の行き帰りに川や海で遊んだことを覚えています。

 友人は関西から北海道の日高管内の小学校教員となり、これまで、浦河、襟裳、そして静内の各学校に勤めてきました。それまでのいろいろな出来事、体験を聞くことができました。

 海側(漁業を主たる生業としている家庭)と山側(牧場経営を主たる生業としている家庭)では、その気質が全然違うこと、これまでに何度か所謂学級崩壊的な場面に遭遇してきたこと、子どもたちのとエピソードなど、話は尽きませんでした。今は結婚して女の子を授かり、仕事に忙殺される毎日であっても幸せな日々を送っています。

 札幌からだと片道3時間以上かかり、車中で飽きる子どもをなだめすかしての行程となりますが、今後もまた訪れたいと思った、秋の日高路ドライブでした。

  昨日の日曜日はよく晴れて気持ちがよかったので、家族3人でどこか自然の中の温泉にでも行こうという話になりました(娘はサッカーの後‘父親’宅へ)。

 息子はこのところずっと喘息気味。日中はわりとよくても、夜寝る頃と朝方にゴホンゴホンゼェゼェを繰り返してしまっています。保育園に行っても、朝の冷たい空気の中園庭で走り回ったりするとぶり返すこともあるので、あまり激しい運動もできません。温泉にでも出かけて過ごすくらいが、日曜日の過ごし方としては今のところちょうどいいくらいです。

 そこで昨日は、片道1時間くらいの余市の温泉まで行くことにしました。
 小樽市内の老舗のお餅屋で子どものお昼&オヤツを買い、忍路(おしょろ)のパン屋で私たちのお昼&オヤツを買いました。子どもは小麦、卵、牛乳などにアレルギーがあるのでパンは食べられません。でも小樽だと餅屋がいっぱいあるので、子どもの大好物の大福などを買うことができます。

 また、忍路のパン屋は知る人ぞ知るこだわりのおいしいパンを焼くお店で、眼下に海を見下ろす丘?の上にあるのですが、お昼過ぎに訪れると駐車場は車でいっぱいで、じきに売り切れる勢いでした。子どもは大福を食べて満足なので、私たちも安心して気兼ねせず?パンを食べることができます。

 忍路でパンを買って、いつもと違う道を降りていくと、すぐにストーンサークルの案内版があったので、子どもにその場を体験させようと思って寄りました。忍路周辺にはこのようなストーンサークルが3〜4カ所点在しています。

 私も連れ合いも一度全部巡ったことがありますが、子どもはまだ行ったことがなかったので、森林浴&運動がてら寄ってみました。7〜8分かけて山道を上がるとストーンサークルにたどり着きましたが、子どもはさして興味も示さず(そりゃそうかー)、さっさと戻りました…。ストーンサークル周辺は神秘的な雰囲気が漂っているのですけどね。

 それから余市に行こうと車をちょっと走らせると、道路に面した畑の一画に大勢の人が集まっていました。ちょうどトイレに寄りたいと思って寄ってみると、市民農園の収穫祭をしているところでした。トイレの後野菜売り場をのぞいてみると、新鮮そうな野菜が格安でいっぱい売られていたので、思わずたくさん買い込んでしまいました。

 ジャガイモ一箱、かぼちゃ、ズッキーニ、トマト(アイコ)、赤ラディッシュ、なす、ヤーコン、ピーマン、赤ピーマン、等などでしめて二千円位でした。ゆでとうきびもおいしかったし、石臼でついたつきたてのお餅までいただきました。

 秋の北海道は、札幌近郊でもあちこちでこのような収穫祭をやっているのでしょう。あまり大きなお祭りだと人が殺到して大変なときもありますが、このようなこじんまりとしたものはゆっくりできてちょうどいい感じでした。私は新鮮な野菜がいっぱい手に入るととてもうれしい気持ちになります。他のどんなものよりそれが一番かもしれません。

 その後温泉でゆっくりお湯に浸かり(普段はお母さんの方に行きたがる息子なのにこの日はなぜか男湯へ)、帰りはぐっすりの息子。ゆったりしたドライブだからこそのいろんな寄り道はやっぱりいいものだと感じた一日でした。また出かけよう。

 私の父親は、若かりし頃に感化されて共産党で活動していました。昭和5年生まれの父親です。墨塗りの教科書で育ち戦後の混乱期に日本の将来を真面目に考えた父親のような当時の若者達は、当然のように共産党の活動に影響を受けて入党しました。

 母親は、そんな理想に燃えて活動している父親が好きになり、当然のように影響されて女性部の活動にう携わるようになりました。私の小さい頃の思い出は、「赤旗祭」に行くバスの賑やかな車内とその盛大なお祭りに毎年のように参加したことや、両親が夜に出かけて行き(共産党の活動で)、目覚めたら弟と二人だけで心細かったりしたこと、そんな理想と現実の狭間で喧嘩ばかりするようになった両親の姿です。

 その後両親は離婚し、父親は年とともに活動をしなくなり、それとともに友人知人が減っていき、仕事でも出世が見込めない中で(最初から捨てていた)、50代半ばでボケの徴候が表れ始め、定年後その症状が顕著になり、一人では暮らすことができなくなっていき、私が東京暮らしをやめてUターンすることとなりました。

 父親は共産党の活動からほとんど身を引いた頃、私に、「お前はオレのように若気の至りで共産党に入ったりするようなことをするなよ」というようなことを言ったことがありました。

 私は驚きました。父親の姿を見ていて、自分は共産党に入るようなことは決してないと思っていました。でも、父親は自分で選択した道なのですから、いろいろ大変なことはあっただろうけれど、それを悔やんでどうするんだ、自分の人生を否定してしまうようなものじゃないか、自分の人生なんだから誇りを持って生きたらいいだろ!と思ったからです。

 父親の背中が小さく、そして哀しく感じました。自分の人生を否定する人間は、ボケでもしないと生きていけないー生きていくためにボケていく、そう私は思うに至りました。


 この本を読んで、私の父親や自分の歩んできた道を振り返ってみたくなり、上記のことを書いてみました。
 家にはマルクスやレーニンの全集、『前衛』(日本共産党の機関誌)、等などの本が並び、新聞は一般紙の他に常に『赤旗』を取っていました。小学校高学年や中学時代に私は『赤旗』の配達のアルバイトもしていました。
 父親は政治番組を好んで見ていましたし、今思えば交友関係もほとんど「共産党系」に限られていたのでしょうね。

 家に本はあったものの、マルクス・レーニンなんて全く読んだこともなく読もうという気も起きず、父親から「読みなさい」と言われたこともなかったのは、幸だったのか不幸だったのか、いまになってもわかりません。

 そのように、共産党の活動にほとんど関心を示さなかった私ですが、考え方においては、知らず知らずのうちに影響を受けてはいたのでしょうね。小さい頃から日本というのはおかしな国だと感じて育ってきたようですし、自分の思想や行動を振り返るとどう考えても「左」寄りで、「右」の思想には拒否感を抱いてきました。

 ただ、雨宮さんの本を読み出して、彼女の歩みを知るにつれ、「右」的な考えを受け入れていく自分を感じています。根本的には、「左」「右」で判断するのではなく、自分なりの考えであればそれでいいと考えていますが、以前までは「拒否」と言えるくらいの気持ちだったのに、それがなくなっている自分自身に少々驚いているとも言えます。

 このことはもちろん、年を重ねて丸くなったということなのかもしれませんが、年を取るとさまざまなものを「受け入れる」度量が広がっていく、と言えるのではないかとも感じています。

 ただこれは、雨宮さんを通じてさまざまな「右」的な方の考えを「ちゃんと読む」ことをしてみると頷ける点もあるし、「おかしな日本を何とかしたい」という点では多くの共通点を持っていると思えたことも大きいです。
 

タイトルにあるのは、ラジオを聞いていた時に流れてきた言葉です。
 この言葉にビビ〜ンときました。

 なぜかって、自分は人生の岐路ではいつも‘安全’を選ばず、先の見えない道を選んで来
た、という実感があったからです。
 でも、‘安全’の反対に位置する言葉に‘成長’があるとは思いもよらなかったので、驚いた
と同時に、自分のこれまでの人生を肯定されたようで、とても感動したのでした。
 自分にとっての珠玉の言葉に出会えた!と感じます。

 自分にとっての人生の岐路とは・・・

【両親が離婚する時に(19歳の予備校生時代)、母親について家を出て行ったこと
             (約半年間母親と安アパート暮らし、後、道外の大学へ)】

 当時、不安よりも、新しい人生、自分自身で切り拓く人生が始まるようでワクワクして
いました。家を飛び出すことができ、親の元を離れることができるという喜びにー。

【大学を辞めて東京に出て行ったこと】

 確か半年くらい、今で言う引きこもり状態で悩んだあげく、大学を卒業して普通に就職
することが自分の人生だとイメージできず、草の根の視点で生きて行こうと踏ん切りをつ
け、友人の住む高円寺の四畳半の安アパートに転がりこみました。自動車期間工の職に就
き、約7ヶ月間働いてお金を貯めて、ピースボートに乗りました(1987年)。

○ピースボートでは洋上で難民船に遭遇したり、ポルポトの残虐の跡を目の当たりにした
り、人生観を左右する出来事に遭ったと同時に、後の“あじあくらぶ”を共に立ち上げる仲
間と出会いました。

○また当時東京はバブル経済まっただ中で、外資系証券会社でアルバイトを続けたおかげ
で、自分とは一番遠いと思っていた世界をかいま見ることにもなりました。日本人、外国
人、いろんな人間がいて、みな「対等な」意識の会社の雰囲気は、アルバイトにも居心地
のいい場所でした。

 ちなみに私の上司は、若い頃海外放浪した末、ニューヨークでタクシー運転手をしなが
ら大学を出たという変わり種だったこともあり、私がアジア諸国に旅行に行きたいのでや
めますと言ったら、年に一度は1〜2週間の休暇をくれました。それが7年間も同じ場所
で働き続けられた大きな要因でしょう。

 ただ、業績が上がらないとすぐに首をすげ替えられるという外資系会社では、自分の意
思で「働きすぎる」人が多く、1年に一人くらいの割り合いで、自殺、あるいは過労による
病気で半身不随になる人が出てきていました・・・。

○東京では有機無農薬の八百屋としては草分けのお店の近くに住み、エコロジカルな生活
とは何だろうという思いを胸に、自然食レストランを訪ね歩いたり援農で山形を訪れたり
すると同時に、バブルの勢いに乗って来日していたさまざまな世界の音楽を聴きにライブ
へと足を運んでいました。

○そのような暮らしを続ける中で、現在私が生業にしているらくだメソッドの開発者の平
井雷太氏と出会い、生涯の趣味とするジンベ&ダンスの第一人者であるWALK TALKのお
二人に出会いました。「らくだ」と「ジンベ」と「あじあくらぶ」は、私が東京時代に出
会った、いわば“宝物”ですー。

【北海道で独り暮らす父親がボケたのでUターン共に暮らすことを決めたこと】

 私は二人兄弟ですが、弟は既に結婚して家族がいて、また仕事が多忙を極めていたこと
もあり、私が帰ってケアの態勢を整えなければどうしようもなくなってしまっていたので、
なくなく東京を去ったのですが、介護生活は今振り返ると私の人生にとってとても貴重な
体験となりました。 

 それに、このようなきっかけがなければ、札幌へ帰って来ることもなかったでしょうか
ら、「オヤジがボケてくれたおかげで」Uターンでき、そういった意味でも感謝していま
す・・・。

【阪神淡路大震災の一週間後、現地を訪れることができたこと】

 一年後にはUターンすると決めてはいたものの、まだ心がぐらついていた1995年初
頭、それまで長く続けていた仕事を早めに辞めて、神戸に住んでいた知人のコーディネー
トにより、現地を訪れての援助活動に参加することができました。
 それはやがて自分の運命を受け入れることにつながり、その年の末のUターンへの踏ん
切りをつけることができました。

【父親との介護生活が終わった後、すぐに就職する道を選ばなかったこと】

 縁あって参加した民族楽器の演奏会で、たまたま披露した私のジンベの演奏を聞き、当
時珍しかったこのタイコを叩きたいという声が多く出て来たので、請われるままに場を設
けていきました。

 2000年前後の一番多い時で、札幌で三カ所、他に小樽、帯広、浦河、旭川、滝川などで
教室を開き、月に2回は車で回っていました。
 これにより、北海道でほとんど途切れていた人とのつながりが、どんどんとできていき
ました。

【らくだの教室を開くことを決めたこと】

 当時小学校1年生になる女の子の母親である現在の連れ合いと一緒になるにあたって、
この子にらくだをやらせたいと思ったことと、北海道でまだ誰もやっていなかったらくだ
の教室をやってみたらどう?という平井さんの声に押されて、生徒が自分の子ども一人と
いうところから始めていきました。それが2002年。

●人が成長するためには、危険な道を選ばないといけないということなのか、そしてそれ
を選んだ人生は行き詰まらない、つまり、充実した人生となるということなのか・・・。
 
 フト思いましたが、子どもを持って育てるということ自体、先の見えないこと、初めて
の体験の連続ですから、それは親の「成長」につながるんでしょうね。

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