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			<title>さまざまな学びのかたち～すくーるhana便り～</title>
			<description>幼児から大人まで学べる「らくだ教材」を使用して、世間一般でいう学力をつけると同時に、そのプロセスで「社会で生きていく力（ほんものの学力？）」をつけるための塾を主宰していく中で感じたこと、子どもたちや親御さんに伝えたいこと等を中心に、「さまざまな学びのかたち」を書き綴っていきたいと思います。らくだ教材を詳しく知りたい方は‥http://www.rakuda-method.com</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>さまざまな学びのかたち～すくーるhana便り～</title>
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			<description>幼児から大人まで学べる「らくだ教材」を使用して、世間一般でいう学力をつけると同時に、そのプロセスで「社会で生きていく力（ほんものの学力？）」をつけるための塾を主宰していく中で感じたこと、子どもたちや親御さんに伝えたいこと等を中心に、「さまざまな学びのかたち」を書き綴っていきたいと思います。らくだ教材を詳しく知りたい方は‥http://www.rakuda-method.com</description>
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		<item>
			<title>エアロビクススタジオにてジンベ＆ダンスのデモンストレーションを行い、９月のイベントに出演決定！</title>
			<description>　先日、エアロビクス全国大会で優勝経験もあるというHさんが経営するスタジオで、私たちジンベクラブのデモンストレーション演奏＆ダンスを行ってきました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私たちのメンバーとHさんが知り合いで、Hさんが一度私たちの演奏とダンスを見てみたいとのことから今回うかがうことになりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　築造されてからまだ新しいスタジオはとても気持ちがいい建物で、広さといい床の質と固さといい、アフリカンダンスを踊るのにも最適と思われるような作りでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　Hさんはエアロビクスだけではなくさまざまなダンスを体験されてきた方のようですが、タイコの生演奏によるアフリカンダンスはまだ見たことがないとのことでしたので、今回の訪問となりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●いっしょに踊るー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　タイコをセッティングしてから、私たちがダンスに入る前にいつも行うウォーミングアップを始めました。ウォーミングアップといっても、メンバーが一人ジンベを叩くそのリズムに乗って身体を動かすもので、ウォーミングアップになっていると同時にアフリカンダンスのエッセンスも入っている、それだけで結構楽しくまた汗をかくほどに身体を動かすものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これを始めてからほどなく、Hさんもニコニコしながら加わってきて、私たちといっしょにタイコのリズムに乗って身体を動かし始めました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　Hさんが今回私たちのするデモンストレーションで実際にいっしょに踊られるのかどうかは、始めてみないとわからないことでした。ただ見るよりは参加してくれる方がいいと思ってはいましたが、「エアロビクス全国大会優勝者」である方に、こちらから「いっしょにやりませんかー？」とはなかなか言えるものではありません。Hさんが参加するに足るものなのかどうかは、Hさん自身に判断してもらうしかないと私は思っていました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　でもHさんは、ほとんど最初の方からいっしょにリズムに乗って楽しんでくれていました。そしてウォーミングアップ終了後、私たちのデモンストレーションを、最初から「見る」のではなく「体験する」「共に楽しむ」気でいることを伝えられました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私たちはうれしく思うと同時に、多少の緊張感を持って臨むこととなりましたが、このことはある程度予想していたことではあったので、「望むところ」となりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●イベント出演決定！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今回私たちは、カキランベ、ランバ～ダンサ～ヤドのメドレー、そしてスグーという３つのリズムを準備していました。そして男性陣３人がジンベ、女性たち３人が２人ずつ踊り、１人はジュンジュン（低音のタイコ）を交代ですることにしていました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　Hさんはさすが！でした。私たちのダンスを見るのは初めてでしたが、さまざまなダンスの「振り」をすぐに覚えて、いっしょに楽しそうに踊ってくれました。私たちはこれだけ踊れば結構疲れますが、Hさんはまだまだこれからという感じでもありました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　Hさんは終了後、「やっぱり生演奏に乗って踊るのがいいですね」と言ってくださいました。これは私たちの一番の「ウリ」のところなので、そう思ってくださってうれしく思いました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そして、「９月にスタジオのイベントがあるので、よかったら出てもらいたいんですがー」と言われました。そのイベントは、来場者にいろいろなダンスを体験してもらえるようなかたちで、広くオープンに人を集めるようなものにしたいとのことでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　Hさんによると、エアロビクス業界？では近年、「ズンバ」というラテン系のリズムに乗って踊るインストラクターの動きを真似して踊るようなエクササイズをするプログラムが人気を呼んでいるそうで、そのような土壌？があるので私たちのものもきっと来場者に楽しんでもらえるだろうとのことでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　イベントは９月２５日（土）とのことでした。この日は稚内の小学校公演として指定された日だったのですが、私たちメンバーの都合がどうしてもつかないので日程を変更してもらっていました。稚内へ行くのは都合が悪くても、札幌市内であれば大丈夫です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　稚内の小学校には申し訳なく思っていたのですが、この日稚内に行くことにしていたら、せっかくお誘いいただいたダンススタジオのイベントに参加できなかったわけです。うまく回っているものだと思いました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ダンス好きの方々が集まるであろうイベントで、私たちの演奏とダンスをやれるということは、とても楽しみなことです。でもきっと、踊る気満々の方々が集まるでしょうから、私たちも覚悟を決めてやらないといけないでしょう。叩き続け、踊り続ける○○分、ということになるでしょうからー。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida/32316551.html</link>
			<pubDate>Sat, 19 Jun 2010 11:57:38 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>「大人」と「子ども」の分岐点は、まさにこの「コミュニケーションにおける誤解の構造」に気づくかどうか：『先生はえらい』（内田樹、ちくまプリマー新書）を読んでー６（最終回）</title>
			<description>　　誤解者としてのアイデンティティ　より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《なんともことばにできないような「満たされなさ」を骨身にしみて感じて、ああ、世の中にはこういう「満たされなさ」というのがあって、それを知るのが、人間にとっての決定的経験なんだよな。現に、オレはその前後でずいぶん人間が変わってしまったもの……ということがわかったら、もう「先生」の資格は十分ということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この経験が「大人」と「子ども」の決定的な分岐だということです。&lt;br /&gt;
　でも、いったいこのおじさんは“何を”経験したんでしょう？》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《「大人」と「子ども」の分岐点は、まさにこの「コミュニケーションにおける誤解の構造」に気づくかどうか、という一点にかかっております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　コミュニケーションとは本質的にメッセージの「聞き損ない」であり、人間を理解するというのは、その人の本性を「見損なう」ことであるということを身にしみて経験した人が（会社に入って「課長！　オレどこまでもついていきます」とすがりついたり、結婚したりすると、すぐに骨身にしみてわかります）「大人」となるわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　別に「大人」になったからといって、いきなり賢くなるとか、世の中の仕組みが洞察できるようになるとかということはありません。&lt;br /&gt;
　“とりあえずわかるのは自分のバカさ加減だけです”。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《「大いなる暗闇」も『こゝろ』の「先生」も、自分の前で目をきらきらさせて「先生！」と慕ってくれる若者を見て、「バカだな、こいつも。オレのことを『先生』なんて慕っても、いいことなんかないのにさ……」と思っているわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　でも、この「自分のバカさ加減を知ってしまったおじさん」の、“何とも言えない脱力感”が、若者にはなんだか底知れぬ叡智の余裕のように見えるのですね、これが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この「先生」にももちろん青年のころがあったわけで、そのときには「先生の『先生』」に出会っています。そして、その脱力したような茫洋とした風貌のうちに無限の叡智を見て、師の一挙手一投足のうちに「謎」を見出していたのです。》&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
●私も内田さんの言う「自分のバカさ加減」を身にしみて感じられるようになりました。&lt;br /&gt;
　しかし、この「脱力感」？が、若者にとって「叡智の余裕」のように見えているのか？？？　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それにしても、この文章は私のようなオヤジにとってはグッと来るものですが、この本の読者対象は中高生じゃなかったっけ？　とてもそうだと思えない内容なのですがー。内田さんがこの本を書いた真意を聞いてみたいものです。私にとってはとてもいいことを伝えてくれた本でした。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida/32306911.html</link>
			<pubDate>Fri, 18 Jun 2010 09:02:21 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>私たちが敬意を抱くのは「謎の先生」です：『先生はえらい』（内田樹、ちくまプリマー新書）を読んでー５</title>
			<description>　　謎の先生　より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《私たちが敬意を抱くのは、「生徒に有用な知見を伝えてくれる先生」でも「生徒の人権を尊重する先生」でも「政治的に正しい意見を言う先生」でもありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私たちが敬意を抱くのは「謎の先生」です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　あるいは「無ー知の先生」と言ってもいいかもしれません。これは誤解を招きそうな表現ですけれど（でも、この本は「誤解をどんどん招くのがよいコミュニケーションである」という立場に立っているので、そんなことあまり気にしなくていいんですけど）、先生が無知であるという意味ではなくて、私にはどうしても理解できないもの、つまり私の知が及ばないもの、私にとっての「無ー知」（non-savoir）の核のようなものが、先生の中にはある。そういう印象を与える先生のことです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「先生の中には、私には決して到達できない境位がある」ということを実感するときにのみ、弟子たちは震えるような敬意を感じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そのためには、“先生は実際に卓越した技術や知識を持つ必要はありません”。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「謎の先生」は“その有用性がすでにわかっている技術や知識”を私たちに伝える人ではありません。彼が伝えるものの価値が私たちにすでに知られており、それに対して私たちが対価を提供しうるような教師は「謎を蔵した人」とはみなされません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　“その人がいったい何を知っているのか私たちには想像が及ばない先生”、それが「謎の先生」です。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《漱石が「先生」の条件として挙げているのは、二つだけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　一つは「なんだかよくわからない人」であること、一つは「ある種の“満たされなさ”に取り憑かれた人」であること、この二つです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「先生」が「なんだかよくわからない人」になってしまったことの原因が「先生」が「ある種の満たされなさに取り憑かれた」ことにあるのだとすると、これは同じ一つの経験の前後二つの相と申し上げてよいのかもしれません。だとすると、一つですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　漱石がそう書いている以上、「先生」が「先生」として機能するためには、これだけで十分ということなのでしょう、きっと。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●なんともおもしろい視点だなぁと私は読んでいて感じたんですが、みなさんはいかがお感じになったでしょうかー。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　人生で最も敬愛している人を「先生」と呼ぶとしたら、私の「先生」も、まさに漱石の言う条件に合致しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そして私は果たして「謎の先生」になり得ているだろうか・・・。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida/32299738.html</link>
			<pubDate>Thu, 17 Jun 2010 10:14:08 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>“コミュニケーションはつねに誤解の余地があるように構造化されている”：『先生はえらい』（内田樹、ちくまプリマー新書）を読んでー４</title>
			<description>　誤解の幅　より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《おそらく、“コミュニケーションはつねに誤解の余地があるように構造化されている”のです。うっかり聞き間違えると、けっこう深刻な影響が出るように、ことばはわざとわかりにくく出来上がっているのです。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるのは、そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　誤解のコミュニケーション　より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《私たちが聴いて気分のよくなることばというのはいくつかの種類がありますが、そのすべてに共通するのは（誤解を招く表現ですが）、そこに“そこに誤解の余地が残されている”ということです。&lt;br /&gt;
　奇妙に聞こえるでしょう？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　でも、誤解の余地なく理解が行き届いたコミュニケーションではなく、誤解の余地が確保されているコミュニケーションこそが、私たちにコミュニケーションをしている“実感”をもたらしてくれるのです。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《子どもたちが限定した語彙でしかコミュニケーションできなくなったというのは、たしかに一つの「退行」現象ではあるのですけれど、人間というのは、本人にしかわからない切実なる理由があって「退行」しているんですし、退行するときだって、必ずそれなりのしかたで「戻り道」を確保しているんです（ヘンゼルとグレーテルが森の小径に撒いたパンくずみたいに）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　彼らのあのチョー貧しい語彙は、「自分の言いたいことをきちんとことばにしなさい」という言われ方で、学校教育でずっと「正しい」とされてきた「自己表現」の強制に対する、子どもたち側からの「ノー」ではないかと私は思っています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そんなことばづかいじゃ、コミュニケーションできない」、そういうふうに感じている子どもたちが、生半可な自己表現に自分を託すことを拒んで、“ある種の失語症をみずから進んで病むことで、コミュニケーションを回復しようとしている”。そんな気が私にはするのです。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●「ことばはわざとわかりにくく出来上がっている」というのも、また愉快な論点だとは思いませんか？&lt;br /&gt;
やはりここでも、大事なことであれば、「自分はどう受け取ったか」を相手に伝えて確認する作業が必要になってくるのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　子どもたちの「退行」現象についての内田さんの指摘、なるほどなぁと思います。&lt;br /&gt;
　子どもたちは、どう考えても、「わざと、あえて」、「チョー貧しい語彙」を使ってのコミュニケーションを選び取っています。“「正しい」とされてきた「自己表現」の強制に対する「ノー」”という指摘、まさにそうだと感じます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida/32293147.html</link>
			<pubDate>Wed, 16 Jun 2010 14:21:36 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなくて、メッセージをやりとりすることそれ自体ではないのでしょうか？：『先生はえらい』（内田樹、ちくまプリマー新書）を読んでー３</title>
			<description>　　原因と結果　より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《それは、人間は“ほんとうに重要なことについては、ほとんど必ず原因と結果を取り違える”、ということです。&lt;br /&gt;
　コミュニケーションはその典型的な事例です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私たちに深い達成感をもたらす対話というのは、「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって、それがことばになって二人の間を行き来したというものではありません。そうではなく、ことばが行き交った後になって、はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人が知った。そういう経験なんです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これは人類がコミュニケーションということを始めた、そもそもの最初からずっとそうなんです。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　話は最初に戻って　より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《“相手に「君が言いたいことはわかった」と言われると、人間は不愉快になるんです”。&lt;br /&gt;
　メッセージの正確な授受ということがコミュニケーションの真の目的だとしたら、“メッセージが正確に受け渡しされたときに不愉快になる”というのはおかしいですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ということは、もしかするとコミュニケーションの目的はメッセージの正確な授受じゃないのではないか……という疑問が湧いてきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなくて、メッセージをやりとりすることそれ自体ではないのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　だからこそ、コミュニケーションにおいては、意思の疎通が簡単に成就しないように、いろいろと仕掛けがしてあるのではないでしょうか？　そうすれば、コミュニケーションがどんどん延長されますから。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●「コミュニケーションにおいては、意思の疎通が簡単に成就しないように、いろいろと仕掛けがしてある」とは、なんとも愉快な論点だと私は感じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そのような認識を持てると、人間関係においてむやみやたらと悩むこともないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「メッセージをやりとりすることそれ自体がコミュニケーションの目的」なのですから、「伝わらないことが前提」でやりとりをすればいいだけの話です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本当に伝わらないと困るようなことがもしあるのなら、「どのように伝わったか？」を確認すればいいだけのことです。ほとんどの人は、そのような「確認作業」を怠ったがために、「伝わった、伝わらなかった」「コミュニケーションできた、できなかった」などのことで思い悩んでの堂々巡り状態に入ってしまうのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私自身、このようなコミュニケーションの本質を体感したのは、平井雷太氏による「インタビューゲーム」によってですから、あまりエラそうなことを言えるわけではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私は、小中学生のうちから「インタビューゲーム」的なワークショップを、できれば学校教育の中に組み入れてほしいものだと私は思っています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　子どもたちに「ケータイ」的なものがどんどんと普及している現在、「インタビューゲーム」のようなコミュニケーション・ワークショップを体験しているかどうかは、今後の人間形成の上でとても大事なことだと感じます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida/32283645.html</link>
			<pubDate>Tue, 15 Jun 2010 11:35:51 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>“生徒は自分が学ぶことのできること、学びたく願っていることしか学ぶことができません”：『先生はえらい』（内田樹、ちくまプリマー新書）を読んでー２</title>
			<description>　　学びの主体性　より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《学ぶというのは創造的な仕事です。&lt;br /&gt;
　それが創造的であるのは、同じ先生から同じことを学ぶ生徒は二人といないからです。&lt;br /&gt;
　だからこそ私たちは学ぶのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私たちが学ぶのは、万人向けの有用な技術を習得するためではありません。“自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために”私たちは学ぶのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私たちが先生を敬愛するのは、“先生が唯一無二性の保証人である”からです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　もし、弟子たちがその先生から「同じこと」を学んだとしたら、それがどれほどすぐれた技法であっても、どれほど洞察に富んだ知見であっても、学んだものの唯一無二性は損なわれます。だって、“自分がいなくても”、他の誰かが先生の教えを伝えることができるからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　だから、弟子たちは先生から決して同じことを学びません。ひとりひとりがその器に合わせて、それぞれ違うことを学び取ってゆくこと。それが“学びの創造性、学びの主体性”ということです。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《教師は同じことばを語り、同じ情報を伝えているつもりでも、ひとりひとりが受け取るものは違います。生徒たちが一人の教師から同じ教育情報を受け取るということはありえないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　“生徒は自分が学ぶことのできること、学びたく願っていることしか学ぶことができません”。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「学ぶ側の主体性」という考え方は、ここから出発しなければなりません。「学びの主体性」は、生徒の側の解釈の自由を意味すると同時に、その限界によって絶えず脅かされることになります。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●上記の文章には、とても素晴らしい言葉が詰まっているのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
“自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために”&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ーということは、学ぶことをしないと、その「事実」が確認できない、あるいは、し難い、ということになるのでしょうか。そうかもしれない、その可能性は高い、と私は感じます。だからこそ、いつだって学ぶことはとても大切なことなのだと言えるのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　でも、それが大切だと伝え、子どもたちに実行に移してもらうことはなかなか難しいことです。だからこそ、大人も学び続けるその姿を見せることこそ大切なのでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
“先生が唯一無二性の保証人である”&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ーそれでいいんだ、と思えると、「先生」も自然体で接することができ、ものごとがよりよく循環していくような気がします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
“生徒は自分が学ぶことのできること、学びたく願っていることしか学ぶことができません”&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ーフト思いましたが、同じ家庭に生まれ育った兄弟姉妹は、大概全然違った性格や考え方になることも、上記の言葉で表されているのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　家庭で起こる出来事を体験しても、それに対する受け止め方、捉え方、理解の仕方はそれぞれに異なっているということです。例えば一つの出来事において、一人は親を尊いと感じ、もう一人は正反対に憎いと感じることなど、日常茶飯にあることですから。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida/32246941.html</link>
			<pubDate>Fri, 11 Jun 2010 12:01:35 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>菅直人首相誕生に思うのは、私の吉祥寺暮らしの頃のことー</title>
			<description>　私の東京暮らしは、高円寺の友人の四畳半一間の古アパートに転がり込んでの居候生活から始まりました。1986年末のことです。&lt;br /&gt;
　富士重工の期間契約社員（期間工）として数ヶ月働いて貯めた資金をもとに、西荻窪にアパートを借りて、世話になった？友人のもとを去りました。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　快適な西荻窪での一人暮らしでしたが、あるとき、「吉祥寺に住んでいる早稲田の学生が同居人を探している」ことを聞きつけ、私は彼との共同生活をすることを選択しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　彼は弁護士志望の学生で、ミニコミを発行しておりネットワークが広く、共同生活をすると何か楽しいことがあるのではないか、と当時の私は感じたのだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それと、吉祥寺駅から歩いて１０分程のところにあったその家は、四畳半２間に加えて１０畳程の広い今、それに「風呂」があるのが何とも魅力的で、家賃は折半して３万５千円ずつでOKだったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私が東京に行ったのは、「いろいろなものを見てさまざまなことを体験したい」というのが根本的なところにあったので、「共同生活を体験する」ことを選んでみたのでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●さてその同居人の彼、K氏は、「選挙大好き人間」を自称していました。選挙運動を手伝うのが楽しくて楽しくて仕方がないのだそうです。その彼が当時出入りしていたのが、菅直人さんの選挙事務所でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　菅さんは市民運動を通して政治家の道を歩んできたと最近よく紹介されていますが、まさに一介の学生が自由に出入りするようなかたちの選挙を、当時菅さんは作っておられたのだと感じています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私は選挙には欠かさず行くものの、自らそのような場を手伝うという発想はなかったので、嬉々として毎日のように菅さんの事務所を訪れる彼の姿を、「こんなヤツもいるんだなぁ」という目で見ていたように記憶しています。私も保守党より革新政党の方を好んでいたので、菅さん自身のことは応援していましたが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それともうひとつ、彼の憧れの弁護士は、福島瑞穂さんでした。当時から、女性をはじめとしたいわゆる「弱者」の人権擁護の活動を福島さんはやってらしたと思います。あるときK氏が、「福島瑞穂さんに会って話せた！　自分も早く弁護士になって彼女のような活動がしたい」と言っていたことを覚えています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●その後福島さんは社会民主党から国会議員となり、土井たか子党首の後を継ぎました。そして今度は、政治家として何度も苦節を味わった菅さんが総理大臣となる日が来たのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私が吉祥寺に暮らしていたのは約２０年前です。自民党政権が覆るなんて思いもしなかった時代でした。そして、この若き二人の活動家？が政党の顔になり、政権を取って一人は首相、一人は大臣（すでに辞めておられますがー）になって国政を司る日が来るとは、K氏も感慨深く思っていることでしょう。私だって感慨深いですから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　長年、「自分が総理になったら・・・」と考えていたという菅さんには、（鳩山前首相のように？）悔いを残すことなく、思い切った政治運営をしていってもらいたいものだと私は思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●K氏は私との約２年間の共同生活の後、「弁護士試験に集中する」と実家に戻っていきました。その後連絡を取っていませんが、無事弁護士になって活躍されているでしょうかー。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　K氏の後私は、オーストラリア人との共同生活をしました。彼とはソリが合わなかったのか？、２～３カ月で出て行きました。私は次に共同生活をするなら、できれば韓国人としたいと思っていたのですが、友人のツテでそれが叶い、韓国からの留学生との共同生活をすることができました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　彼とはウマが合い？、いろいろなことを話して、いろいろなところへ出かけて、いろいろな友だちを紹介し、「チング（親友）」となることができました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私が北海道へ帰省する際に同行して親兄弟親戚を驚かせたのもいい思い出ですし、彼の結婚式に出席するため、韓国まで私の父親を連れて行ったのも、本当にいい体験でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　菅さんの首相就任演説を聞いていて思いだしたのは、私自身のそんなこんなの東京生活のことでした…。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（おしまい）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida/32238641.html</link>
			<pubDate>Thu, 10 Jun 2010 10:32:05 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>“学ぶというのは有用な技術や知識を教えてもらうことではありません”：『先生はえらい』（内田樹、ちくまプリマー新書）を読んでー１</title>
			<description>　この本は中高生あたりをターゲットにした新書シリーズの一環として書かれたと思うのですが、中高生が読むには高度な内容に感じました。&lt;br /&gt;
　もっとも、「ちょっと背伸びする」くらいの本を読みたい年頃でもあるでしょうから、ぜひ読んでもらいたいものですが。&lt;br /&gt;
　以下に、特に印象に残った部分から抜粋してコメントを記したいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　教習所とFー１ドライバー　より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《教習所の先生は「君は他の人と同程度に達した」ということをもって評価します。プロのドライバーは「君は他の人とどう違うか」ということをもってしか評価しません。その評価を実施するために、一方の先生は「これでおしまい」という到達点を具体的に“指示し”、一方の先生は「おしまいということはない」として到達点を“消去”してみせます。&lt;br /&gt;
　ふたりの先生の違うところはここです。“ここだけ”です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ほとんど同じ技術を教えていながら、「これができれば大丈夫」ということを教える先生と、「学ぶことに終わりはない」ということを教える先生の間には巨大な「クレウ゛ァス」があります。&lt;br /&gt;
「学ぶ」とはどういうことかを考えるときに、いちばんたいせつなのはこのことです。&lt;br /&gt;
このクレウ゛ァスが何なのか、それはどうしてできてしまうのか、それを考えることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　もう一度申し上げましょう。&lt;br /&gt;
　“学ぶというのは有用な技術や知識を教えてもらうことではありません”。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　だって、シューマッハにアクセルワークを習ったときに、あなたは彼が何を言っている&lt;br /&gt;
かぜんぜんわからなかったはずだからです。&lt;br /&gt;
　言ってることがむずかしすぎて。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　何を言っているのか、ぜんぜんわからなかったにもかかわらず、というか、“何を言っているのかぜんぜんわからなかったゆえに”、あなたは彼から本質的なことを学ぶことができたのです。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私は上で、プロの人なら言うことは決まっていると書きました。&lt;br /&gt;
　それは、「技術に完成はない」と「完璧を逸する仕方において創造性はある」です。この二つが「学ぶ」ということの核心にある事実です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ことばはむずかしいですかれど、これじつは恋愛とまったく同じなんです。&lt;br /&gt;
「恋愛に終わりはない」そして、「失敗する仕方において私たちは独創性を発揮する」。》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●「教習所の先生」と「プロのドライバー」から学ぶことの違い、なるほどなぁと思いました。&lt;br /&gt;
「学ぶことに終わりはない」ことは、何か一つでも継続していることがある人であれば、実感としてわかることだと思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida/32230842.html</link>
			<pubDate>Wed, 09 Jun 2010 11:39:50 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>教育フォーラム　～フリースクールからの発信～　「不登校の子どもたちが訴えていることに耳を傾けてみませんか」　のお知らせ</title>
			<description>　私のところにも不登校の子どもがいますが、らくだ学習を続けるうちに学校に通うようになる子が多いです。それを目的としているわけではなく、自然にそうなるケースが多いということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　フリースクールに行く子もいれば、らくだ学習などで力をつけていく子もいるし、高校に通わなくても大学検定試験を経て大学に合格し、学生生活を楽しむような人も珍しくなくなってきているので、一昔前に比べると「不登校」の子の選択肢は多様に開かれていると感じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　でも、フリースクールに通うにもお金がかかりますし、らくだ学習をするのだって無料というわけにはいきませんから、経済的に苦しい家庭のお子さんは、子どもにとって大切な「居場所」がなかなか見つかりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そのフリースクールの運営に携わっている方々だって、安定した収入にはほど遠いのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　教育政策に携わる方々には、それらの現状をしっかり認識した上で、柔軟な施策をしていってほしいと切に願います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私も何度か参加している、「北海道フリースクール等ネットワーク」主催の教育フォーラムが行われますので、以下に紹介しておきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　教育フォーラム　～フリースクールからの発信～　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　「不登校の子どもたちが訴えていることに耳を傾けてみませんか」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
□日時　２０１０年６月１１日（金）　午後６時３０分～８時３０分（開場 午後６時）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
□場所　エルプラザ内　札幌市男女共同参画センター４Ｆ大研修室&lt;br /&gt;
　　　　　（札幌市北区北８条西３丁目）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
□内容&lt;br /&gt;
　●第１部&lt;br /&gt;
・講演　「不登校、そのポイントをこう考える」　平野直己氏（道教育大札幌校准教授）&lt;br /&gt;
・当事者発表（３名）　「不登校、私の体験談」「不登校がその後の私をつくった」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　●第２部&lt;br /&gt;
　　「不登校について、みんなで考えよう」（参加者の皆さんとの意見交換）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
□費用　５００円（高校生以下無料）&lt;br /&gt;
□主催　北海道フリースクール等ネットワーク　&lt;a HREF=&quot;http://www13.ocn.ne.jp/~fs_net/index.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www13.ocn.ne.jp/~fs_net/index.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
　　　　ＮＰＯ法人フリースクール札幌自由が丘学園&lt;br /&gt;
□後援　札幌市、北海道教育委員会、札幌市教育委員会、北海道新聞社、&lt;br /&gt;
　　　　　フリースクール等で子どもを育てる親の会&lt;br /&gt;
　　　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida/32212622.html</link>
			<pubDate>Mon, 07 Jun 2010 11:13:32 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>『アフリカの音』（講談社）著者・沢田としきさんのことと、「絵本の読み聞かせとアフリカンドラム」のことー２</title>
			<description>●「絵本の読み聞かせとアフリカンドラム」　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私は『アフリカの音』に出会って以来、いつか、その絵本の読み聞かせのバックにジンベの音を入れたものを、自分たちでできる日が来ることを夢見ていました。ウォーク・トークのそれを見て、その気持ちに拍車がかかりました。でもそのようなパフォーマンスは、「見たい」という人がいてこそできるものですから、そのようなご縁はなかなかありませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　１～２度何かの演奏の機会にやってみたことがあったようにも思いますが、何度も練習して練り上げてやったものではなかったですから、満足のいくものではなかったように思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　でもその後、そのような機会がやってきました。１０年程前に、「北海道文学館」で毎夏行われている「わくわく子どもランド」という催しで、「絵本の読み聞かせとアフリカンドラム」を子どもたちを対象にやってもらえないかという話が舞い込んできたのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　絵本を読むのは読み聞かせサークルに所属している専門の方で、アフリカ関連の絵本を数冊選び出し、その絵本のバックに音を入れるというものです。私はもちろん快諾し、読み聞かせの絵本の中に『アフリカの音』を入れることを提案しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　タイコの音と読み聞かせの声のバランスを考えたり、「間」」を図ったりしながらの練習を何度も繰り返し、私たちの「絵本の読み聞かせとアフリカンドラム」は完成しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「わくわく子どもランド」では、大勢の子どもたちと、絵本の読み聞かせを楽しみ、最後はタイコの演奏をバックにいっしょに踊って、楽しいひとときを過ごすことができました。普段は静かな「文学館」で、毎年夏の一日だけは、地下の講堂でタイコの音が鳴り響いています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　もっとも、「完成した」とはいっても、実はまだまだ完成されたものではなかったことは、回を重ねる度に思うことでもありました。これを機に、子どもたちが来てくれるような演奏の場では、できるだけ『アフリカの音』を入れるようにしてきており、毎夏の文学館と合わせて、もう何十回とこの演目をやらせていただいてきました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そして、回を重ねるごとに修正し、今では絵本をめくってその絵を確認しなくても、適度な音量でその場に合った音を出すことができるようになってきましたし、音もリズムもどんどんシンプルになってきて、絵本の世界の表現を最大限引き出すということだけを考えたものになったように感じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　もちろんこれは私およびジンベクラブで考える「最良のもの」であり、他の方がするとまた異なったものになるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『アフリカの音』は、私たちが口で説明しなくても、ダイレクトにその世界を、そして私たちが伝えたいことを、子どもにも大人にも伝えてくれます。これからも、大事に大事に、この本を私たちなりに語り継いでいきたいと思っています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●沢田としきさんは、今年４月、「急性白血病」による一年余りの闘病生活の末に亡くなられたことを知らされました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　沢田さんは一度、ウォーク・トーク札幌公演でメンバーとしていらした際に、私の家に泊まっていただいたことがあります。そのとき貸し布団を利用しており、翌日午前に貸し布団を回収しに業者が来たとき、まだ起きていなかったメンバーを起こしに行かざるを得なかったんですが、そのとき驚いて飛び起きた沢田さんの顔が忘れられません。悪いことしたなぁ、と私は思ったんですがー。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『アフリカの音』を、「読み聞かせと演奏」のかたちでくり返しくり返し紹介し続けている個人やグループは、他にないのではないでしょうか。何度読んでも、何度やっても飽きることのない、私たちにとってとてもとても大切な絵本となりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　アフリカおよびジンベ＆ダンスのことを伝えるツールとして、これからも活用させていただこうと思っています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　いいでしょうか、沢田さん？　『アフリカの音』を遺してくれて、本当にありがとうございました！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※沢田としきさんは、他にももちろん、素晴らしい作品を多く描かれています…。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hanaotoiida/32186168.html</link>
			<pubDate>Fri, 04 Jun 2010 11:16:14 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		</channel>
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