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こんにちは、先ほどの小泉『読書論』に続けて、読みためた歌を載せたいと思います。
〇 ふしだらな心を(先年九月)
つくるとはかねて知れれどやみがたく
おさへ難きは色の罪かな
〇 台風の頃にできた歌。地元のお寺の五重塔を望みながら(同月)
野分き吹き五重(いつへ)高殿ゆれもせで
つねよりはやく雲のすぎゆく
〇 比叡山登山にて(九月)
(その日は湿度が高かったが、鷺の森神社にて)
つゆけさも祈れるほどにさぎの森
あきの風とや神のなすらん
(雲母(きらら)坂にて。音無川と平行して登る)
さか登る共としおもふ名にしおへど
音なし川のせせらぎの音
雲母坂げにもへぬらん千歳かな
うがつばかりに通る山みち
(峰道にて。回峰行者の心を)
行者(ゆくもの)の峰をめぐれば神ほとけ
いのるこころのわずかにか知る
(横川(よかわ)から下山中、ようやく山を抜けるか、というところ)
山くれてこころほそさもいや増すに
遠くにひびく沢のせせらぎ
山ふかみ暮れんといそぎくだりいず
ついには虫のなきぞ初めける
(山を出て大原の里につく)
高杉のしげき山路を下りいでて
はじめて月は東なりけり
最後まで読んで頂きありがとうございます。
もうすぐ春ですね。よい季節をお過ごし下さい。
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2016年02月20日
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〇 小泉信三『読書論』(岩波新書、1950)
随分ブログの更新をしていなかった。あらためて空けましておめでとうございます。
最近気付いたのだが、なかなかブログの更新ができないのは、ブログに時間を費やすより、読書の時間の方がはるかに貴重と思えるからであろう。もし、読書経験を豊富にもち、博識の人ならば、自分の知識を人に伝えようとする気持ちが強く、もしブログをやっているのであれば、更新も多いであろう。しかし、私の場合、一般に比べて読書量ははるかに多いのだろうが、人に何かを伝えようとする衝動にかられる程には、知識が広くない。むしろ、まだまだ知識が浅いという気持ちが強く、本を読む時間の方が、はるかに貴重なのである。
それでも今回重い腰を上げて(というかこのブログは本来、愚詠の和歌の発表の場所のはずだったのだが・・)記事を書くのは、本書の影響に依る。
本書は、経済学者で、戦時期に慶応義塾塾長を勤めた小泉信三による、まさに「読書論」である。体系性はあまりなく、読書について思いつくままに記述した感じがある。
本書を読んで、一つならず自分の読書の姿勢につき、反省される事があった。特に「第七章 読書と思索」では、ただ読書をするという受動的な姿勢だけではなく、自分で思索するという能動的な姿勢を、奨励している。まさに『論語』の「学びて思わざれば則ち罔し」である。私とて、この事は十分にしってはいたのだが、本章をよみ、最近漫然と読書しているだけではないか、などと反省したのである。
そして次に思ったのは、読後に、このブログにおいて、「思索」した事を書くという事であった。いつも、いいものを書かなければいけないなどと考えながらブログに臨むから、書くのが億劫になって更新が途絶えてしまうのである。もっと、楽に15分でもいいから短い時間を使って、読後に考えた事を書いておくのが、いいのではないか、と。そのようにすれば、たまたまブログに立ち寄った人に良書を(または悪書を)紹介できるし、後に見返してみて、自分の思索の跡をたどる事さえできるのである。
本書は、1950年という戦後すぐの時代に書かれた本でありながら、戦争に関する記述がほとんどない。というか、戦後の書物にありがちがちな、陰鬱とした気持ちにさせるという事が、全くない。
また、この人は、福澤諭吉の影響をうけているからか、物事に対して考え方のバランス感覚が極めて優れていると思う。
特に、筆者が、マルクス『資本論』に感動を覚え、これを非常に重要視しながら、それでいて、共産主義の学者の抽象論に赴く姿勢を鋭く批判するところは印象深かった。確かに、唯物史観論者あるいは共産主義の学者の特徴として、その著作には、抽象的な記述があまりにも多く、具体的な事に果たして考えが及んでいるのかと思われる事は多々ある。例えば、「生産諸力」とは具体的にはいったい何の事なのだろうか。
福澤諭吉、慶応義塾に言及していたところなど、もう少し考えた事を書こうと思ったが、あまり時間を使うと億劫になってしまうので、この辺でやめておきたい。短い文でも、このように読度の思索の「跡」を、継続して残していけたらなと思う。
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