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また夏が巡り来ます。
あの夏から66年たちました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
平和の大切さを語り継いでいくためにも、あの夏を私たちは忘れてはいけない。
そのための記事をこれから見つけたら掲載していきます。
まずは、この話題を。
ずっと昔、ここを訪れたことがあります。
若い命が散っていったことを改めて感じました。
戦争は二度と起こしてはいけないと改めて感じています。
知覧特攻基地跡(鹿児島県)
指宿の観音像脇に展示されている破損したプロペラ
■見送るものなく、若者たちは出撃した
◆「今日これから死に行くことすら忘れそうだ」 「きさまたちは神になるのだ。」 太平洋戦争の末期、こう叱咤され、フィリピンや沖縄沖で多くの若者が「カミカゼ特攻」を敢行した。
かれらは、ほんとうに「カミ」になったのか。九州・薩南の知覧特攻基地跡をたずねた。
シラス台地の山々の麓(ふもと)をくねくねと流れてくるのであろう。川の名前は麓川と呼ばれた。南九州市役所まえの橋からながめると、川底が見えるほど澄んでいた。 橋をわたると、商店街がまっすぐに延びていた。歩道の道路側にそって、灯籠が数m間隔で延々とつづいていた。灯籠の下部には、レリーフがきざまれていた。 お地蔵さんかと思ったが、かがみこんで見ると、飛行帽をかぶった特攻兵の姿であった。その顔は、どれも子供のようにあどけなかった。 商店街を抜けると、崖沿いの坂道に入った。灯籠はまだ続く。約1.5kmほどで、特攻平和観音堂への参道に出た。桜の木々が風にざわめき、ときたま葉裏がキラキラと輝いた。 このあたりから、陸軍知覧特攻基地跡となるのであろう。四方を山に囲まれているので、空がいやにせまい。平日の午後だったが、大きな駐車場には次々と大型の観光バスが入ってきた。その向こう側には、飲食店や土産物店が並んでいた。 訪れたのは6月半ば、初夏だというのに、梅雨の空は鈍色に沈んでいた。66年まえの、ちょうどこの季節、出撃した早稲田大生の遺書の一節を思いだした。
「あんまり緑が美しい/今日これから/死に行くことすら/忘れそうだ/ぽ かんと浮かぶ白い雲/六月の知覧は/もうセミの声がして/夏を思はせ る」 木々の緑はたしかに美しかったが、耳をすましても、セミの声は聞こえなかった。まだ夏の匂いもしない。 本土最南端の知覧から、米軍による「鉄の暴風雨」が吹き荒れていた沖縄まで約600km、当時の戦闘機で2時間余。鹿児島湾を挟んだ大隅半島にある海軍の鹿屋(かのや)特攻基地などを含め、約1900機の「カミカゼ」が、沖縄沖に展開していた米国の大艦隊を目指した。 当時、世界でもっとも頑強なエセックス級空母の体当たりに成功するなど、戦果はあった。だがそのほとんどは、おびただしい数の戦闘機や、敵艦からの攻撃によって撃墜された。250kgから500kgもの爆弾をかかえ、速度が遅く、機敏さにも欠けていたからである。 「航空母艦一隻撃沈、同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈」(海軍省公表) 昭和19年10月25日、フィリピン・ルソン島のマバラカット基地を飛び立った海軍の関行男大尉率いる「敷島隊」5機による最初の特攻攻撃は、華々しい戦果をあげた。米側は「自殺攻撃(スーイサイド・アタック)」と呼び、この無謀な攻撃に驚愕(きょうがく)し、恐怖におののいた。 特攻攻撃は、海軍の大西瀧治郎中将が考え出したとされる。大西中将は突撃まえ、関大尉を中心とする神風特別攻撃隊員たちに対し、日本軍の窮状を訴えたうえで、おおむねこう訓示した。 「この危機を救いうるものは、諸氏のごとき純真にして気力に満ちた若い 人々のみである。みなはすでに神である。」 大西中将は特攻について、みずから「統率の外道」と称し、フィリピン戦だけの限定的な作戦にするつもりだった。だが「自殺攻撃」は、次々と拡大しつづけた。 沖縄戦に入ると、「陸海軍全機特攻化」が正式決定し、戦闘機だけでなく、練習機や水上機まで出撃を命じられた。「統率の外道」は「統率の王道」になってしまったのである。 知覧特攻平和会館は、平和観音堂に隣接して建っていた。「飛燕(ひえん)」や「疾風(はやて)」などの戦闘機をはじめ、特攻死した若者たちの遺影や遺書、飛行服などがびっしりと展示されていた。目頭を押さえながら、じっと遺書を読みつづける中年の女性もいた。 会館のわきには、出撃を前にした隊員たちの宿舎である三角兵舎も復元されていた。2つの裸電球の下には、4床の枕と毛布が並んでいた。 この床で、かれらは想像を絶する精神的な苦痛に耐えなければならなかった。元特攻隊員の回想によると、目を見開いたまま寝ているものもいた。「まるで精神病棟」のようだったという。 それでも朝になると、地元の女学生らに見送られ、笑顔で特攻機に乗りこんだ。だが見送るものもなく、出撃していった特攻機もあった。 知覧から指宿(いぶすき)に向かった。名物の「砂むし湯」に入るためではない。あまり知られていないが、薩摩半島の東側にせり出した田良浜に、かつて水上機を中心とした指宿海軍航空基地があった。 重いフロートをつけていたため、下駄ばき水上機と呼ばれた。ほんらいは偵察が目的だった。軍はこの水上機にも爆弾を縛りつけ、特攻を命じた。 訪れる人もいない通信壕跡の小高い丘に登ると、観音像のわきに、枕崎沖で回収されたという、グニャリと曲がったプロペラの残骸があった。沖縄沖までたどりつけなかったのであろう。 水上特攻機は重さのため、フロートが水面下に沈み、ぎりぎりで離水していった。出撃は夜間のうえ、海上だから、だれも見送ることはできない。 田良浜は、弓なりにそった美しい浜辺である。この沖合いから琉球弧にかけて、多くの若者たちの水漬(みづ)く屍(かばね)が累々と、いまも沈んでいる。 最年少は16歳6カ月。灯籠に刻まれた、あのレリーフのように、あどけなさが残った少年だったにちがいない。 ≪メモ≫ 麓川のかたわらには、高倉健主演で映画化された「ホタル」の舞台となった 富屋食堂が復元。「特攻の母」と呼ばれた経営者の鳥濱トメと、隊員たちの 交流を示す資料が展示されている。知覧特攻平和会館へは鹿児島中央駅か らバスで約1時間20分、指宿基地跡へは指宿駅からバスで約15分。 |
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