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天災・地震・事故・事件
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地震や自然災害、事件事故などを綴りました。
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東日本大震災から半年を迎えた11日、岩手、宮城、福島の東北3県では、
地震発生時刻の午後2時46分に黙とうする姿が各地で見られた。
被災地の住民らは、犠牲者の鎮魂と一日も早い被災地復興を祈った。
岩手県釜石市内は、黙とうを促すサイレンが1分間鳴り響いた。 この日は県知事選などの投票日。
投票所となった同市中妻町の体育館では、市職員や立会人が一斉に起立し、投票に来た有権者も目を閉じた。
投票を終えた高橋静江さん(82)は 「一日も早い復興を祈った。がれきが撤去され、
以前のような美しい沿岸にしてほしいが、
どなたが当選しても復興はゆっくりとしか進まないのでは」と懸念。
自らの失言で経済産業相を辞任した鉢呂吉雄氏に触れ
「政治家になる方は言葉を大切に使ってほしい」と話した。
宮城県気仙沼市では、総合体育館で合同慰霊祭が営まれ、 遺族ら約2200人が参列。菅原茂市長は「現実を受け入れ、
新しい環境の下で生きていく。
その長い道のりに多くの市民と一緒に寄り添いたい」と哀悼の言葉を述べた。
別れの言葉で、祖父母を亡くした気仙沼高校2年の菊田真由さん(16)は 「思いっきり泣きたいと思ったが、
避難所暮らしは泣くことさえままならなかった。
これからはできることを一つずつ行動に移すことが復興につながる」。
父を失った菅原豊樹さん(37)は
「途方もない絶望感と震災時の恐怖が今も襲ってくる。
ろくな親孝行もできず悔しくてたまらない」と目を赤くしていた。
福島県いわき市中央台飯野の公民館では、 日本列島を形取った約450個の竹灯籠に火をともし、
犠牲者の冥福を祈る催しが開かれた。
住民ら約100人が集まり、会場では震災前の付近の様子を撮影した
スライドが映された。
こんな悲しくも痛ましい日本列島を模した灯火があるだろうか。
悲しくて悔しくて何もかもが奪われたあの日。
誰が何をした訳ではない。
皆、平凡に生きて尊い人生を送っていた。
明日も同じようにあると、家族と食卓を囲めると、友とふざけあうと
学校への道があると信じて疑わなかった。
だが、それは地震と津波と原発で奪われていった。
一瞬のうちに…
どうか早い支援を差し伸べて下さい。
政治家同士足を引っ張るヒマがあるのなら…!
謹んで東北関東大震災でなくなられた方々のご冥福をお祈りすると共に
今も苦しい生活を強いられている方々に心の平和が点るよう、
お祈り致します。
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コメント(5)
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鉢呂経産相、取材記者に「放射能を分けてやるよ」などと話している姿も 「死の町」発言は撤回して陳謝 福島第1原発周辺を「死の町」と表現した鉢呂経済産業相が9日午後、この問題の発言を撤回して 陳謝した。 9日午後、鉢呂経産相は「被災地の皆さんに、誤解を与える表現だったと真摯(しんし)に反省をし、 その表現を撤回させていただき、深く陳謝を申し上げるところでございます。大変申し訳なく 思っております」と謝罪した。 この陳謝に先立ち、鉢呂経産相の発言に対しては、野田首相も「それは不穏当な発言ですね。 謝罪し訂正してほしいと思います」と語り、不快感を示していた。 ただ、この発言問題の一方で、鉢呂経産相をめぐっては、福島県内の視察を終えた8日夜、着ていた 防災服の袖を取材記者になすり付けて、「放射能を分けてやるよ」などと話している姿が目撃 されている。 ▽FNNニュース http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00207212.html 動画あり
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東日本大震災の翌日、新たな命がひとつ、被災地に舞い降りた。
悲しみばかり多い世の中で、少しでも未来への希望になってくれたら−−。
小さな愛娘に付けた名前は「希美(のぞみ)」だった。
津波で肉親や自宅を失った岩手県陸前高田市の会社員、 佐藤茂さん(44)と妻由美さん(38)の長女希美ちゃんは、
3月12日に生まれた。2678グラムだった体重は半年で2.5倍に増え、
寝返りもできる。暑さが残る仮設住宅。
ひまわりが好きで、黄色い花柄が描かれたうちわであおがれると
ニコニコ笑う。
あの時、自宅にいた由美さんは11日後に出産予定日を控えていた。 揺れの後、長男碧(あおい)君(5)を連れ、
高台にある親戚の家に車で逃れた。
隣の大船渡市で働く茂さんとは連絡がつかなかった。
翌朝、腹痛で気分が悪くなり病院に行くと 「この先手術室が使えるかどうか分からない。今なら大丈夫」と医師が言う。
停電したが、自家発電で帝王切開の手術は可能だった。
おぼれた人やけが人が次々に運ばれ、騒然とする病院で正午過ぎ、
希美ちゃんは生まれた。
「子どもと3人だけになったらどうしよう」。不安でいっぱいだった。
同じころ、茂さんは家族の行方を捜していた。 車は津波に流され、歩いて自宅に戻ると家はなくなっていた。
避難所を訪ね歩き、ようやく親戚宅で娘の誕生を知る。
だが、両親と同居していた兄昇一さん(当時47歳)は
近所のお年寄りを背負って逃げる途中、津波にのまれ亡くなった。
茂さんは6月から、元の会社で野菜の仕入れと卸の仕事を再開した。 8月には大船渡市の妻の実家から陸前高田市の仮設住宅に移り、
家族4人の新たな生活が始まった。
「家に帰ると、妻と子がいてくれる。当たり前のことだけどほっとする」
と茂さん。一緒に湯船につかると、希美ちゃんは喜んで叫び声をあげる。
最近、水面をばしゃばしゃたたくようになった。
そんな小さな変化がうれしい。
震災の混乱が続く中で、お宮参りもしてやれなかった。 記念写真をたくさん撮ってあげたかったが、カメラは流され、
携帯電話で撮るのが精いっぱい。茂さんと由美さんは
「娘が成長したら、大変な状況で生まれたことを伝えたい」と思っている。
でも、「特別な重荷は背負わず、普通に育ってほしい」と願う。
「赤ちゃんがいるんですね。何カ月ですか?」。 仮設住宅の敷地を散歩したり、買い物に行くと、よく話しかけられる。
希美ちゃんがみんなを笑顔にし、会話が生まれる。
震災直後の悲しみの中では、笑顔で娘を抱くこともはばかられたが、 少しずつ遠かった日常が戻ってきた。小さな命が、希望を運んでくれた。
『子供は天使』『子はかすがい』『子は宝』『子は授かりもの』
よく言ったものだと思う。
この年になり、孫が出来た時のことは今でも鮮明に覚えているのだから
ひ孫が生まれた時のことも良く覚えている。
『産まれた』−それだけで貧しい我が家が灯りの下に照らされて
笑顔になって、誰に似てるだの早くみたいだの大騒ぎ。
子供は何もしなくても、泣いていても、笑っていても、寝ていても
荒んだ心を優しく慰めてくれる。
全ての赤ちゃんが幸せに育ちますようにと願わずにいられない。
ちなみに花橘は私の孫であるが
暁に産まれた為と電話が玄関にあった為
実父からの第一報『産まれました』をみんな寝ていた。
朝起きて再度の電話で知ったと言う有様。
けれどそれから亡き夫はじじばかぶりを発揮。
実父親ばかぶりを発揮した。
お花とお人形(千代紙人形)が大好きな子で今も
それは変わらないようだ。
私のひ孫は生死を母子と共に彷徨った。
何をしてあげれる訳でもないのにハラハラして胃が痛んだ。
どうにもならず茨城県へ行き誕生を待つ事にした。
ようやく産まれた子供は大きくて『弁慶ちゃん』と呼んだのも
今は色鮮やかな思い出。
産まれてくれて有り難う… |


