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私どもの戸籍上の父親であったラッキーとは、私ども家族とちょくちょくとというほどではないが、私が成人してからも所帯をもってからも、折に触れて、何のことはない会話もした。
当時、文京区に住んでいたラッキーと第三妻の家に行ったときに、ラッキーが突然
『女は自分の産んだ子は忘れられない』と言った。
家に帰ってきて、家内が「なんで、お義父さん、あんなことをいうの?変ねぇ〜、男は忘れられるというの?」と、そのときはそれだけでおわりになった。
今、思うととんでもないことだった。そのとき、私はラッキーの子だと思っていた。東亜子が死んで、ラッキーや三人の妻達の間には子が一人もいないと知った上、彼の生き様から、ラッキーの考えていたことの意味を理解できる。
即ち、
『女は自分の産んだ子が忘れられない』から、子供をさらって、さらった子を人質にして金品を強要すれば、必ず要求に応じる。まして、少しの血縁でもあれば警察沙汰にはしない。
ということだ。
ラッキーは自分の死期(自殺)近くに人を介して,私のことを「死んだ」と、私の実の母に言ってくるように頼んだ。
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「『女は自分の産んだ子が忘れられない』から、子供をさらって、さらった子を人質にして金品を強要すれば、必ず要求に応じる。まして、少しの血縁でもあれば警察沙汰にはしない」、なんともいいがたい人生哲学というか、考えですねぇ。こうした考えの方がいるということは、にわかには信じがたい。
2014/4/1(火) 午前 8:25
Mineさん、こんばんは!
ラッキーは私の実の母とは半分だけの姉弟です。私の最後の肉親である祖母は四国から福岡に行きました。
祖母の兄は福岡で川筋者の親分でした。そこで、祖母は襲われたようです。生まれたのがラッキーです。それで、ラッキーは白人のような容貌なのです。
私もそうですが、東亜子は終戦直前にラッキーと第一妻にさらわれ吉原に売られてしまったのです。
東亜子が殺害された後、残された東亜子の名簿から実の母を知り、電話をしました。そして、東亜この遺品を持って会いに行きました。
初めて電話をしたときに,私の名前を繰り返して,気絶しそうになりました。
祖母を餓死させたラッキーは病院で食事を拒否して死にました。
戸籍上の二女は「自殺しているみたいね」と言っていました。
私も東亜子もこの世のものとは思えないような人生を歩んでしまいました。
コメントありがとうございました。
私が四国の祖父母のふるさとを訪ねたとき、
2014/4/1(火) 午後 9:27 [ hannreinakinisimo ]
華やかな成功者としての東亜子さんが、「終戦直前にラッキーと第一妻にさらわれ吉原に売られてしまった」方とはビックリしました。それにしても、東亜子さんには辛い生い立ちがあったんですねぇ。
2014/4/8(火) 午前 8:27
Mineさん、こんばんは!
ハワイでの事件の後、私は母に会うことが出来ました。
そのときに,「13.4歳になっていた東亜子を京浜東北線の大井町駅頭で占いをしている東亜子を発見した」と言っていました。
ラッキーの第一妻に連れ去られたのは小学校入学の年の東京大空襲後でした。
吉原では女の子が手に入ると東北である程度成長させたそうです。
それで、東亜子は戦後、秋田、群馬などを連れ回されて,川崎、蒲田、大井町などでうらないをさせられていたようです。
学校はほとんど行っていなかったようです。母の夫(私どもの父ではありません)の尽力によって,マスコミにも出ることが出来ました。それと、大井町に家を借りて、そこで占いをするようになったようです。
門前列をなしたのはその頃の話でしょう。
コメントありがとうございました。
2014/4/9(水) 午後 9:22 [ hannreinakinisimo ]
「大井町に家を借りて、そこで占いをするようになったようです」、そうでしたか。時間差はありますが、私は大井町線大井町駅を1年半ほど通学駅にしてましたから、「京浜東北線の大井町駅頭」周辺の雰囲気を懐かしく想い出しております。
2014/4/15(火) 午前 7:51
Mineさん、こんばんは!
そうでしたか・・・
私は江戸川でした。『寅さん』のあたりです。寅さんが江戸川の土手に寝転んでいるあたりです。
東亜子は大井町は長かったようです。『有楽サウナ』の火災事件の時は大井町ではなかったのですが、私が実の母に会いに行ったのも大井町でした。
コメントありがとうございました。
2014/4/15(火) 午後 9:02 [ hannreinakinisimo ]